忘れないことは美徳。
中国語に「忘八蛋」という罵倒語があります。元々の語義は「忠・孝・礼・信・義・廉・悌・智の八徳目を忘れた者」です。これを言われたら即座に殴り飛ばしても当然というレベルの罵倒語なのだそうです。
では、そういう中国人全般に「忠・孝・礼・信・義・廉・悌・智の八徳目」が備わっているかと言えば、当然そういう中国人ばかりではありません。むしろそういう八徳目を備えていない中国人の方がポピュラーでしょう。これはつまり、責められるべきは八徳目を「忘れること」であって、それらが「最初から無い」とか「知らない」のであれば、おそらく責められないのでしょう。
今はどうか知りませんが、旧日本軍では教わったことに対して質問された時、「知りません」「わかりません」と言うのはご法度だったようです。ではそういう時はどうするかと言うと、「忘れました」と答えるものだったと言います。
なぜなら「教えたはずのこと」を「知らない」「わからない」と答えられると、それは教えた方の責任です。わかるまで教えるのが職務ですから、教えた相手に「知らない」「わからない」と言われるということは、教えるという職務を全うしなかったことになるからだそうです。
しかし教わった者が教わったことを「忘れた」と言うのであれば、それは教わった本人の責任です。そして「人間は忘れる生き物だからしょうがない」という解釈になるので、「知らない」「わからない」というよりは叱られなかったそうです。
そう言えば昔ロッキード事件だか何かの時に証人が「記憶にございません」と答弁するのが話題になりましたが、あれも要するに「忘れました」ということです。質問に対して、それが事実なのに「違う」と言ったり、知っているのに「知らない」と言えば偽証ですが、「忘れた」と言えばそれが嘘であっても誰にも確かめる術はありません。
ことほど左様に日本人は「忘れる」ということに対して寛容です。失敗や怨恨、敗北、損害などは、むしろ積極的に忘れる方が美徳ですらあります。
日本の「忘れることに対する寛容」と中国の「忘れることに対する不寛容」は、しばしば両国間の齟齬を招いていますが、この「忘れることに対する不寛容」の精神は小中華の朝鮮にも当然引き継がれています。
ですからコマ人が「日本から受けた過去の恨みや屈辱を忘れない」ということは彼らにとって美徳です。さらにこれを忘れる者は民族の裏切り者として迫害する社会的なシステムが出来上がっていることも手伝って、彼らは執拗にこれを子孫に伝承し続けています。そうすることで彼ら的に「日本の悪行を忘れず糾弾し続けるという美徳を行なうウリ民族マンセ」となり、自尊心が満たされる(=劣等感を拭える)のでしょう。
問題は「日本から受けた過去の援助や恩義は忘れてる」ことなのですが、彼ら的にはそれは「最初から無かった」ものか「教わってないから知らない」ことになると思います。
だって連中、「日本に与えた(ということになっている)恩義」は1000年以上前のものでも、まるで昨日のことのように言いますから。