I'll say you are dreamers.
来る日も来る日も韓国や朝鮮を貶し倒していると、時にとてつもない不毛感に襲われます。日本の隣にこんな国がある苦悩、日本がこんな国と付き合っていかざるを得ない不満、日本がこんな国の連中に付きまとわれる不運、欧米人から見れば日本人とこんな国の連中の見分けがつかないという不幸。
それをいちいち論っていくうちに気分は真っ暗になります。そして真っ暗になった気分をなんとかしたいという気持ちが湧き起こります。それは「この運命から逃れられないのであれば、これを前向きに考え受けとめることは出来ないだろうか」という発想へ進むことがあります。
馬鹿を馬鹿と言うことについては何の疑問も躊躇も感じませんが、その馬鹿を遮断することの適わぬ状況下で、馬鹿を馬鹿だと言うだけでは何のメリットも進展も無いのではないだろうかと思うようになります。
しかし馬鹿を馬鹿と言うことで馬鹿が少しでもマシになるのであれば、こちらも不快を感じながら馬鹿を馬鹿馬鹿言った甲斐があるというものではないかという考えになり、やがて馬鹿がマシになれば今より少しは良い関係になれるのではなかろうかという考えに発展します。
この考えが「真の日韓友好を目指して」という言葉になります。
韓国を馬鹿馬鹿言うのは決して後ろ向きなことではなく、発展的な関係を構築する為の下準備なのであるという、言わば朝鮮を貶す行為に対する言い訳です。
韓国を知り、韓国を論う人ほどこの考えに一度は陥ると思います。
もちろん私も例外ではありません。馬鹿をただ馬鹿馬鹿言うだけでは、あまりにも無責任に過ぎるのではないかという自己批判を常に抱いています。
この自己批判に対し「いや、私はただ馬鹿を馬鹿馬鹿言って終わりにするつもりはない」という反論を用意したとします。すると私の中の人から「ほう、それは面白い。ではどうするつもりなのか」と反問されます。
私は私の中の人に対し、「月見櫓では、馬鹿を馬鹿だと言うことで、少しでも多くの日本人に注意を促すことが出来る」と答えます。
私の中の人は薄ら笑いを浮かべながら「それで終いか?」と問い返します。
私はちょっと答えに詰まります。私の中の人は意地悪い薄ら笑いを浮かべながら「多くの日本人が馬鹿を馬鹿だと知ってどうなると言うのだ?」と続けます。
ここで私はついうっかりこう答えてしまいたくなるのです。
「多くの日本人が馬鹿が馬鹿であることを理解出来るようになれば、今のような無批判無条件無分別な日韓関係ではなく【正しい日韓関係】を求めるようになる」と。
この【正しい日韓関係】という言葉が曲者でして、私の考えでは【日韓断交をも視野に入れた】という枕詞を入れるべき言葉なのですが、普通に聞くと【友好的な関係】を求めているように聞こえます。
もちろん、韓国人が今後少しでも文明人として振舞うことを覚えられれば【友好的な関係】を築く望みも無いではありません。しかし韓国人が近代文明に触れて100年以上、近代国として独立してからでも60年近くも経つ今日ですら、彼らの多くは文明人として振舞うことが出来ません。おそらくは今後100年が過ぎても、彼らが文明人らしく振舞うことはないでしょう。
韓国人を知る人ほど、これは痛感していると思います。
韓国を知る人々は、日韓が将来【友好的な関係】を築くことは、今世紀中ではほぼ不可能ということを知識としては理解しているのですが、それではあまりに日本の立場が悲し過ぎるのです。
その為、韓国を知る人であっても【日韓の良好で友好的な関係】というものを夢想してしまうことがあると思います。韓国を知っている人ですらそうなのですから、韓国を知らない人が【日韓の良好で友好的な関係】というものが無条件で可能、いや無条件で実現するべき両国の将来像であると思ってしまうのも無理はありません。
しかし残念ですがそれは夢です。それを夢想する人はひとりじゃないかもしれませんし、彼らが私たち嫌韓派も自分たちの仲間になれば良いなと思っているのも知っています。
でもごめんなさい。私たちはもう目が覚めているのです。韓国人と同様の夢想家たちに、共に夢を見ろと言われても無理なんです。つらくても苦しくても悲しくても、馬鹿を馬鹿と認識して対応していかなければならないのです。寝てる場合じゃないんです。
夢想家の皆様に夢を見るなとは申しません。私から夢想家の皆様に申し上げることがあるとすれば、ひとつだけです。
出来ればそのまま静かに安らかに永眠してくださいますように、ということだけです。