社民党議員の自衛隊批判について
- 2007.
- 01.
- 24
- (Wed)
- 18:00
発端は1月19日発行の阿部知子議員のメルマガだったようです。
「★☆ 国民保護は地方自治から ☆★」と題された文章には、阪神大震災の時、自衛隊の出動が遅れた件を批判する内容が記されていました。該当する箇所を以下に引用します。
| 阪神大震災は12年目を迎えたが、国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、国による命令を受けて救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。日本の場合、自衛隊は軍隊ではないし、警察予備隊として出発し、防災のたねにも働くことを任務としてきた特別な生い立ちがあるのに、である。 こうした経緯もあってか最近は「自衛隊による国民保護」が強調されている。しかし、安倍首相の下で海外派遣を本来任務とするような防衛庁の省昇格が行われ、「軍事組織化」が進む中では、本当の意味での国民保護からますます縁遠くなるのではないか。 |
阿部知子衆議院議員は、社民党の議員です。そして皆様既にご存知の通り、阪神大震災当時の総理大臣は、村山富市社会党(現社民党)元党首。彼は震災に対する対応の遅れや誤判断で、震災後の火災や倒壊家屋からの救助の遅れによる死者を、2000人は増やしたと言われています。
自分が所属する党のかつての党首、村山元首相の犯した罪を知らずに上記のようなことを言っているのであれば無知に過ぎますし、知ってて言ったのであれば死なずに済んだはずの被災者を馬鹿にし過ぎです。そして、命懸けで被災地の復興支援に取り組んだ自衛隊と隊員の名誉をも激しく傷つけ、彼らの貢献を侮辱する言動であることは疑う余地がありません。
私も関西在住ですから、12年前の阪神大震災の朝のことは、もちろん鮮明に覚えています。おそらく一生忘れないでしょう。
当時、私はテレビを目覚まし時計代わりに使っていました。二度寝が好きで、テレビのタイマーを早朝5時にセットし、夢うつつで朝の番組を聞きながら、7時ぐらいまでベッドの中でウダウダするのが常でした。
あの日、まだ暗い冬の早朝。いつものようにセットした時間にテレビのスイッチが入り、私は醒め切らぬ頭のままぼんやりと寄せては返す眠りの余韻を楽しんでいました。
カタカタという微かな振動に気づいたか気づかぬかの直後、誰かが建物ごと掴んで力任せに揺すぶっているのではないかと思ったぐらいの激震。
ベッドに仰向けになったまま、身体を起こすどころか、首を動かすこともできません。猫たち(当時2匹いました)も怯えて動けなくなっているようで、心細げに鳴く声が聞こえます。隣の部屋からは何かが崩れるような音がし、台所からは鍋が転がり落ちたらしい派手な音が聞こえました。建物のパーツというパーツが、それぞれ尋常ならざる音を立ててきしんでいます。
長く感じました。おそらく1分あるかないかだったのでしょうが、本当に長く感じました。
「もう充分だろ、やめてくれ」
「頼むから止まってくれ」
何度も心の中で叫びました。誰にともなく。
ようやく揺れが収まりかけたので、私は恐怖と驚愕で硬直して動かない首を、無理やりテレビの方へねじ向けました。
いつもなら笑顔のキャスターやアナウンサーたちが映り、にぎやかな会話が響いているはずのテレビ画面は、無音のままぼんやりと灰色に光るばかりでした。ただ、画面の右肩辺りに「05:47」の時刻表示だけが白く光っていました。
「テレビ、壊れたかな?」と思ったその時、画面から「あぁ、びっくりしたぁ・・・」という声が聞こえました。その番組は在阪局からの生放送でした。それはアナウンサーとしての声ではなく、今まさに私が体験したのと同じ地震を体験した人の、生々しい感情がこもった声でした。
その声はしかし、すぐに気を取り直したらしく、緊急災害時の定型文を読み上げ始めました。
「ただいま、近畿地方に大きな地震が発生しました。画像はお伝えできていないかもしれませんが、音声はお伝え出来ていると思います。皆さん、落ち着いて行動してください。ガスの元栓を閉じてください。火の元を確認してください・・・」
私はとりあえずベッドから起きて、出勤の身支度をしながらずっとテレビを聞いていました。普段なら地震発生の数分後、遅くとも10分後ぐらいには流れる地震速報が、いつまで経っても流れません。何度かの余震に脅かされながら、出勤間際までテレビを見続けました。
テレビに震度が表示されたのが、地震発生からどれぐらい経ってからだったかは、はっきり覚えていません。しかし一番最初に、天気予報で見慣れた近畿圏の地図の上部、兵庫県の豊岡に、ポツンと赤い点が打たれ震度5と表示されたのだけは、はっきりと覚えています。
それを見て私は豊岡が震源地だと思いました。そして「震源は日本海側か。美浜原発は大丈夫だろうか」と心配しました。本当の震源地付近では、あまりの激震に観測値を報告するどころじゃなかったなどとは、夢にも思わなかったのです。
その後出社時刻になったので会社に行きましたが、その日は仕事どころじゃありません。時間を見つけては休憩室にテレビを見に行きました。
時間を追うごとに被害は判明していきます。朝、豊岡にポツンとひとつだけ打たれていた震度を示す点は、たちまち近畿圏を埋め尽くしました。私の住んでいた地域は震度5でした。震度5でも、私にとっては生まれて初めての激震でした。しかし神戸の震度は、観測史上最大の7だったのです。
地震の翌日、支援物資が被災地に届かないという報道が盛んに行われました。道路は寸断され、電気が途絶えたために信号も機能せず、ガソリンスタンドもほとんど営業出来なくなり、当然電車も止まり、電気ガス水道などのライフラインが寸断された被災地は、文字どおり陸の孤島となります。
1月19日の朝、私は家にある有りったけの米を炊きおにぎりを作って、缶詰やレトルト食品、綿入り半纏や毛布、冬着などをバイクの荷台に積み上げて神戸を目指しました。
翌20日には、被災地にも輸送体制が整い、順次救援物資が届けられるだろうという報道を聞いてはいましたが、もし私が被災者で、明日満腹にしてやるからと誰かに言われても、今日の空腹は癒せまいと思ったからです。
今から思うと、偽善も多少はあったかなと思います。でも間違いなく言えるのは、あの時の被災者の窮状は私にとって他人事ではありませんでした。もしかしたら、避難場所で空腹と寒さに震えていたのは、自分だったかも知れないという実感がありました。もし自分が被災者だったら、「そのうち誰かが助けてくれるから、それまで寒くても空腹でも、我慢して待ってろ」と安全で暖かくて食料の心配の無い場所にいる人に言われても、素直に納得できるとは思えなかったのです。
当時私が乗っていたバイクは、125ccのオフロードタイプで、小排気量車ゆえに満タンなら200kmは楽に走れました。だから神戸ぐらい、半日もあれば無補給で往復出来るだろうと、たかをくくって走り始めました。
しかし被災地に近づくにつれ、私の考えが甘かったことを思い知らされることになります。被災地に近づけば近づくほど、道路の損傷や交通規制が深刻になり、否応もなく迂回を強いられました。
あちらの交通規制で弾かれ、こちらの路面破断で蹴られを繰り返しながらも、どうにか被災地でも最も大阪寄りの神戸市東灘区にたどり着いた頃には、すでに夕暮れ間近でした。
そこへたどり着くまでの間に、あちらこちらで地震の被害を目撃しました。家が傾いていたり崩れていたりするのは珍しくもありません。私鉄(多分阪神電車)の跨道線路が崩落していたり、阪神高速が横倒しに倒れて、その路面がまるで壁のように地面から垂直にそびえ立っていたり、倒れた高速道路の路面の下にはひしゃげた自動車が見えていたりしました。その横を通りながら、どうかその自動車の中に人がいませんようにと祈ったことを覚えています。
日が沈みかけた頃、どうにか避難場所になっている小学校を探し当て、炊き出しをやってる人に救援物資を渡すことが出来ました。用が済めば長居は無用です。折り返し帰路に着きました。
神戸から大阪方面へ向かう主要道路は、恐ろしいぐらいの渋滞でした。信号などもちろん機能しているはずも無く、主要交差点では「熊本県警」と書かれた制服を来た警察官が手信号で交通整理をしています。原付バイクでのノーヘル、二人乗り、逆走は当り前のように行なわれていましたが、それを取り締まっていられるほど暇な警察官は一人もいません。
私はバイクだったので、渋滞の中でもなんとか車間をすり抜けられたからまだマシだったのですが、自動車を運転している人たちのイライラは、排気ガスと共に周囲に満ち満ちていました。
そして神戸を抜ける前に、私のバイクのガソリンが尽きました。通常のルートなら、私の家から東灘区までは片道50kmほどです。満タンなら2往復は出来るはずだったのに、交通規制や道路の寸断で迂回に迂回を重ねざるを得ず、片道でガソリンが尽きたのです。
被災地の中の数少ない営業中のガソリンスタンドで、私は激しく後悔していました。薄っぺらな義侠心と無かったとは言い切れない偽善のために、数人に行き渡るかどうかも怪しいわずかな救援物資を運ぶために、被災地の貴重なガソリンを使うという自分の愚かさを恥じました。私個人の力なんて、被災地にとっては邪魔にこそなれ助けにはなりませんでした。
あの時、少しでも力になれればと、救援物資を担いで現地入りした人は、私以外にもたくさんいらっしゃったと思います。でも個人の力では自ずから限界があります。あの時は、個人ではダメだったのです。
それを実感したからこそ、あの時の自衛隊の活動を妨げた村山元首相の行動は、万死に値するものだと、私は言い切ります。日本で災害救助に関しては最も大きく最も有能な集団を動かすことが出来た人が、その活動を故意に妨げ、被害を拡大させたのです。自衛隊と隊員の方々は、それにもめげず文字通り必死で最大限の貢献をしたのです。褒め称えられこそすれ、少なくとも旧社会党現社民党の議員なんかに、非難されたり批判されたり侮辱されたりする謂れなどありません。
その事実を知ってか知らずか、名前は変わっても同じ党に所属する議員が、したり顔で
「国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、知事の要請を受けて本格救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。日本の場合、自衛隊は軍隊ではないし、警察予備隊として出発し、防災のために働くことを任務としてきた特別な生い立ちがあるのに、である。」などと平気で口走ることに、私は憤りよりも悲しさを感じます。日本の政治を担う人の中に、日本人を蔑ろにして一切恥じない人がいるということを、情けないと思います。
まとめサイトはこちらです。
女性で医者で政治家なんだったら、ただの政治家よりずっと日本人の人命に対して真摯じゃないのかと思うのですが、女性で弁護士で政治家の現党首も日本人の人権を軽視しがちな辺り、これはもう「党風」とでも言うべきものなのでしょう。
こんなのが議員様でございと大手を振っていられるのですから、マジで脱力です。日本って良い国ですね、こんな連中がのうのうと議員を続けていられるんですから。
と言うか、韓国に対して「かつての日本は、朝鮮にとって良いこともした」と言っただけで
※1/25追記
自分で書いておいて気づいたんですが、「日本は良いこともした」発言は、確か「議員辞職」じゃなくて「閣僚辞任」でした。お詫びして訂正させていただきます<(_"_)>
他にも藤尾文部大臣が「日韓併合は韓国にも責任がある」と発言して罷免されたりしてます。
いずれにしても日本の政治家が日本人として、日本国民に向かって政治をしているのかどうかを強く疑わせることは間違いないと思います。
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