愛国心についてダラダラ考えてみた。
- 2007.
- 02.
- 28
- (Wed)
- 09:00
今回、愛国心とか、愛国心教育について書こうと思いました。思ってから数日。書きかけては煮詰まり、煮詰まっては消し、消してはまた同じようなことを書き、また書いては煮詰まるという繰り返しを数度重ねました。
結局余りにもまとまらないので、まとまらないままダラダラ考えてみることにします。
何度も何度も「愛国心」と書いては消してを繰り返してみて、しみじみ思います。「愛」という文字は何気に照れ臭い、と。口に出せばたちどころに嘘臭くなりますし。
即ち、「秘すれば花」とは愛でも言えることでありましたか。
しかし哀しいことに、黙っていては誰にも何も伝わりません。目と目で通じ合うことが出来る間柄になるまでには、まずは言葉で通じ合うようにならねばなりますまい。
そこで照れ臭さを堪えて、もう一度「愛国心」について考えてみます。
対象が何であれ、一言で愛と言っても色々な愛があるようです。親が子を想うそれと、恋人同士の間で交わされるそれは、どちらも「愛」と呼ばれるべきものではありますが、決して同一のものではないでしょう。と言うか、それが同一だったら問題です。
だから「愛国心」という言葉も、人それぞれで少しづつ違うのではないかと思います。それゆえに人によってそれぞれ受け取り方も違うのではないでしょうか。ただ、大枠、即ち「国を大切に思う気持ち」という点は、共通であるべきかと思います。
突然「愛国心」と言うと、何故かたいていの日本人はぎょっとします。多分、日本人はシャイな民族だから、「愛」だなんて白昼堂々と口にするのははしたないと思っている人が多いのだと思います。
確かに、白昼堂々と「愛国心」について語るのは、なんだか気恥ずかしいものがあります。さらに過剰反応されたりすると、なおさらにこっ恥ずかしく感じます。
ところで、「愛国心」という言葉に過剰反応する人は、たいてい何故か躍起になってこの言葉を否定しようとするように思います。それは「愛」という言葉に何か別のものを感じて過剰反応しているようにしか思えません。丁度、中学生ぐらいの頃「性」という文字(それが「性格」の「性」であったとしても)に、やたら過剰反応する奴がいたように。
こういう風に人によって受け取り方は様々になりがちな概念だからこそ、「愛国心」についてはきちんと教育するべきじゃないかと思います。
そもそも、国を愛することなんて、自然発生的に生じるものではないと思います。教わらなければ分からなくて普通です。
これは自分を産んでくれた親への敬愛が、教わらずとも自然発生的に生じるものかどうかを考えれば、ご理解いただけると思います。
実際に自分を産み、育ててくれた親に対してでも、教わらなければ敬愛など生じません。子供にとって親は自分を庇護養育して当然の存在です。それに対して教えもしないのに、物心ついたら自然に親を敬愛してるような子供がいたら、それは多分お釈迦様かイエス様の生まれ変わりです。直ちに宗教家の道を歩ませましょう。
冗談はさておき。
実の親でも、そのありがたさ愛おしさは、教わるか離れるか失いかけるかしなければ気づかないものです。ましてや「国」という触ることも見ることも出来ない存在に対して、教わりも離れも失いもせずに気づくことは至難と言って良いでしょう。
人は、自分が何に属するかを強く気にする生き物です。上野動物園のパンダは、自分の出自や所属など気にもしないだろうし、そこにアイデンティティを求めることもないでしょう。
しかし人間は、自分の出自や所属が判然としていなければ、自分自身を見失います。何不自由なく育てられていても、実は自分が養子だったと知れば、人は実親を探してしまうのです。
もし人が自分自身の出自や所属を否定したり嫌悪したりすれば、それはやがて巡り巡って自分自身の否定や嫌悪となります。自分自身の否定や嫌悪は、多分自分自身を殺すことの次ぐらいに強い自虐行為だと思います。
誰もが、幸せに生きたいと思っているのではないかと思います。自分自身に誇りと愛情を持てない者は、幸せにはなれません。「愛国心」を持つことは、巡り巡って自分自身の肯定と尊重につながります。それは幸せに生きるための条件の一つだと思います。自分の国に誇りも愛情も持たない者は、自分自身にも誇りや愛情も持ち得ないでしょう。
地球に暮らす国や人を俯瞰してみれば、日本で日本人に生まれたことは間違いなく僥倖です。個人的には、これだけでも、日本人にとって日本という国は感謝し愛すべき国ではないかと思います。
もちろん我々はたまたま日本人に生まれただけです。自ら望んだわけでも選んだわけでもないし、嫌だからと言ってその事実を変えることは出来ません。
それでもどうしても日本を愛することが出来ないというのであれば、日本という国は、国民に対し国籍離脱の権利と自由も与えてくれています。
自分を生んでくれた国も愛せない人間が、どんな国を愛するつもりか知りませんが、どうしても日本を愛することに拒否感を覚えるのであれば、きちんと日本国から離脱するのが筋ではないでしょうか。その上で、思う存分日本を無視するなり嫌うなりすれば良いと思います。
私は、「愛国心」は日本人であれば当然持っているべき徳目のひとつだと思っておりますし、徳目ってのは教わらないと身に付かないものだと思っております。
結局余りにもまとまらないので、まとまらないままダラダラ考えてみることにします。
何度も何度も「愛国心」と書いては消してを繰り返してみて、しみじみ思います。「愛」という文字は何気に照れ臭い、と。口に出せばたちどころに嘘臭くなりますし。
即ち、「秘すれば花」とは愛でも言えることでありましたか。
しかし哀しいことに、黙っていては誰にも何も伝わりません。目と目で通じ合うことが出来る間柄になるまでには、まずは言葉で通じ合うようにならねばなりますまい。
そこで照れ臭さを堪えて、もう一度「愛国心」について考えてみます。
対象が何であれ、一言で愛と言っても色々な愛があるようです。親が子を想うそれと、恋人同士の間で交わされるそれは、どちらも「愛」と呼ばれるべきものではありますが、決して同一のものではないでしょう。と言うか、それが同一だったら問題です。
だから「愛国心」という言葉も、人それぞれで少しづつ違うのではないかと思います。それゆえに人によってそれぞれ受け取り方も違うのではないでしょうか。ただ、大枠、即ち「国を大切に思う気持ち」という点は、共通であるべきかと思います。
突然「愛国心」と言うと、何故かたいていの日本人はぎょっとします。多分、日本人はシャイな民族だから、「愛」だなんて白昼堂々と口にするのははしたないと思っている人が多いのだと思います。
確かに、白昼堂々と「愛国心」について語るのは、なんだか気恥ずかしいものがあります。さらに過剰反応されたりすると、なおさらにこっ恥ずかしく感じます。
ところで、「愛国心」という言葉に過剰反応する人は、たいてい何故か躍起になってこの言葉を否定しようとするように思います。それは「愛」という言葉に何か別のものを感じて過剰反応しているようにしか思えません。丁度、中学生ぐらいの頃「性」という文字(それが「性格」の「性」であったとしても)に、やたら過剰反応する奴がいたように。
こういう風に人によって受け取り方は様々になりがちな概念だからこそ、「愛国心」についてはきちんと教育するべきじゃないかと思います。
そもそも、国を愛することなんて、自然発生的に生じるものではないと思います。教わらなければ分からなくて普通です。
これは自分を産んでくれた親への敬愛が、教わらずとも自然発生的に生じるものかどうかを考えれば、ご理解いただけると思います。
実際に自分を産み、育ててくれた親に対してでも、教わらなければ敬愛など生じません。子供にとって親は自分を庇護養育して当然の存在です。それに対して教えもしないのに、物心ついたら自然に親を敬愛してるような子供がいたら、それは多分お釈迦様かイエス様の生まれ変わりです。直ちに宗教家の道を歩ませましょう。
冗談はさておき。
実の親でも、そのありがたさ愛おしさは、教わるか離れるか失いかけるかしなければ気づかないものです。ましてや「国」という触ることも見ることも出来ない存在に対して、教わりも離れも失いもせずに気づくことは至難と言って良いでしょう。
人は、自分が何に属するかを強く気にする生き物です。上野動物園のパンダは、自分の出自や所属など気にもしないだろうし、そこにアイデンティティを求めることもないでしょう。
しかし人間は、自分の出自や所属が判然としていなければ、自分自身を見失います。何不自由なく育てられていても、実は自分が養子だったと知れば、人は実親を探してしまうのです。
もし人が自分自身の出自や所属を否定したり嫌悪したりすれば、それはやがて巡り巡って自分自身の否定や嫌悪となります。自分自身の否定や嫌悪は、多分自分自身を殺すことの次ぐらいに強い自虐行為だと思います。
誰もが、幸せに生きたいと思っているのではないかと思います。自分自身に誇りと愛情を持てない者は、幸せにはなれません。「愛国心」を持つことは、巡り巡って自分自身の肯定と尊重につながります。それは幸せに生きるための条件の一つだと思います。自分の国に誇りも愛情も持たない者は、自分自身にも誇りや愛情も持ち得ないでしょう。
地球に暮らす国や人を俯瞰してみれば、日本で日本人に生まれたことは間違いなく僥倖です。個人的には、これだけでも、日本人にとって日本という国は感謝し愛すべき国ではないかと思います。
もちろん我々はたまたま日本人に生まれただけです。自ら望んだわけでも選んだわけでもないし、嫌だからと言ってその事実を変えることは出来ません。
それでもどうしても日本を愛することが出来ないというのであれば、日本という国は、国民に対し国籍離脱の権利と自由も与えてくれています。
自分を生んでくれた国も愛せない人間が、どんな国を愛するつもりか知りませんが、どうしても日本を愛することに拒否感を覚えるのであれば、きちんと日本国から離脱するのが筋ではないでしょうか。その上で、思う存分日本を無視するなり嫌うなりすれば良いと思います。
私は、「愛国心」は日本人であれば当然持っているべき徳目のひとつだと思っておりますし、徳目ってのは教わらないと身に付かないものだと思っております。
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