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換言もほどほどに。

昨今、日本人のモラル低下がしばしば指摘されます。それも、まだ物の分別がつかない少年少女たちだけの話ではありません。いい年をした大の大人が、誠に薄みっともない行動を公衆の面前で披露して、更にこれを恥じません。

日本人のモラル低下を「溶解する日本人」と題して批判と分析を試みていたのは、確か産経新聞であったと記憶します。「日本人としてあるべきかたち」を失ってぐにゃぐにゃどろどろとだらしも締まりもなくなった日本人を指して「溶解する」と称したのは、言い得て妙ではあります。

しかし、この表現は「言い得て妙」であるがゆえに、小綺麗に過ぎると思います。表現が小綺麗に過ぎるがために、批判された当人も「溶解して何が悪い」となりかねません。批判された人や周りの人々がそれを聞いて「これではいけない」「改めなければだめだ」と思うには「溶解する」という言葉はインパクトも説得力もありません。

ルース・ベネディクトが「菊と刀」で、日本を「恥の文化」と称したのは、西洋の「罪の文化」と比して日本を差別的に見たものだという説があります。しかしベネディクトの本心が那辺にあるかは知る由もありませんが、私は彼女が日本を「恥の文化」と称したことそのものは、容認します。それは単に、ある物事をどちらの側面から見たのかという問題に過ぎず、呼称にかかわらずその物事自体の本質は変わらないからです。

「恥の文化」とは、正確には「恥を恐れることによって形成された文化」の謂です。これは裏返せば、「美しさを行動規範とする文化」であると思います。

「恥」とは「醜態を晒すこと」であって、日本人がそれをしでかしてしまうことを恐れ、それをする者を唾棄するのは、その行為が「美しさ」を毀損し、否定する行為だからです。

「美しさ」が行動規範である日本人は、西洋人が神の怒りに触れ罪を得ることを恐れるように、「美しさ」から外れ恥を晒すことを恐れます。しかも日本人が考える「美しさ」とは、金ぴか極彩色という分かりやすいが単純な「美しさ」だけでは品が下がります。複雑にして深遠で曖昧な日本人的「美しさ」の基準は、時に日本人自身の理解をも凌駕する不可解さを纏います。しかし、その不可解ささえも、「美しさ」として理解しようとするのが日本人だったりするのです。

「溶解する」という言葉が、日本人の危機感をそれほど刺激しないのは、その言葉の小綺麗さゆえではないでしょうか。「溶解」という言葉は大して美しくはありません。しかし嫌悪感を催すほど醜くもありません。少なくとも「溶解する日本人」が体現して見せるものほどは、醜くないのです。

醜態を晒す輩を指して「あいつは溶解してる」「日本人としてあるまじき溶解状態だ」などと言って、どれほどの人がその言わんとするところを理解するでしょう。非難されてる本人はもちろん、それを聞いた周囲の人々も何のことやら分らないに違いありません。語彙と想像力の貧弱な連中に至っては「"ヨーカイする日本人" ってカッコよくね?」などと言い出しかねません。

これはやはり、日本人でありながら日本人として見るに耐えない醜態を晒す輩に対しては、その醜態に相応しい語彙を用いて正しく批判し、且つ非難することで、本人の自省や周囲の人々の自戒を促すべきではないかと思います。

即ち「朝鮮人ではあるまいし」と。



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