朝鮮的紳士
確かに、韓国語で「紳士」は「神社」と同音で、どちらも「シンサ」と発音しますので、単語だけでは翻訳が働かないかもしれません。機械翻訳では混同を避けるためか、「紳士」を「ジェントルマン」と翻訳することが多いようです。また、機械翻訳は文脈から判断して翻訳するのですが、当然判断しきれない場合も多く、「神社参拝」を「ジェントルマン参拝」と翻訳してしまい、日本人を困惑させることもしばしばですw
さて、韓国語にいわゆる「紳士」に相当する言葉がないかどうかですが、個人的には「両班(ヤンバン)」あるいは「ソンビ」が該当するのではないかと思います。
「両班」とは、既にご存知の方も多いと思いますが、高麗・李氏朝鮮時代の官僚のことです。漢字に「両」が使われている通り、文武の二班にわかれておりますが、一般に「両班」と言えば文班(文官)を意味するようです。また「ソンビ」は日本語に無理やり訳せば「学者」がやや近いでしょうか。
本来「両班」と言えば、科挙に合格した官僚を指すのですが、時代が下るにつれ、その範囲は拡大増殖します。現在の韓国においては、既にその存在が消滅しているにも関わらず、両班の家系を自称しない人はいないに等しいほどです。
「ソンビ」は両班とは少々異なり、たとえ官位を得ずとも高い教養と理念を持ち、たとえ清貧に甘んじようとも節を曲げない崇高な精神の持ち主とされています。もっとも、「教養」にせよ「理念」にせよ「崇高な精神」にせよ、全て「朝鮮的」の但し書きが付くのですが。
朝鮮において、高い教養を持ち、実務的あるいは精神的支配階級に属する彼らは、一見いわゆる「紳士」に相当するように思えますし、また、韓国(朝鮮)ではこれら以外に「紳士」に相当する語や概念はないと思います。
ところで、「紳士協定」に用いられるような日本や欧米で言われる「紳士」の概念を一言で説明するとすれば(一言で説明するのは大変難しいのですが)、これは札幌農学校(後の北海道大学)の教頭であったクラーク博士の言葉が最も理解しやすいと思います。
クラーク博士は、札幌農学校の校則を定める際、四の五の細かいことは抜きにしてただ一言「Be gentleman」で良いと言ったそうです。つまり細々と設けられた規則に盲目的に従い、それに縛られるのではなく、自ら考え定め行動し、自らを律するのが紳士であると言うことでしょうか。
では、朝鮮的「紳士」に相当すると思われる「両班」や「ソンビ」はどうだったでしょうか。彼らは与えられた規則(儒教)に自らを完璧に合わせることでしか「両班」や「ソンビ」たり得ることは出来ませんでした。また彼らの行動規範に「利他」はありません。彼らが天下国家を論ずることはありましたが、それを実行するのは「両班」や「ソンビ」の役割ではありませんでした。当然、彼らの思考に「ノブレス・オブリージュ」などは存在しません。
彼らにとって「義務」や「奉仕」とは支配される者に課せられる苦役です。実際の支配者層である両班や、精神的支配者層であるソンビにとってそれらは、他人に担わせるものであって、自ら担うものではないのです。
韓国人にとっての「紳士」が「両班またはソンビ」であるとすれば、知略を尽くして相手を謀り、陥れて自らの利益にすることは彼ら的「紳士」には何ら背くことはありません。彼ら的紳士とは、それが認められ許されている特権階級だからです。当然、彼らから見た我々が、彼ら的「紳士」であるはずもありません。彼らから見れば、我々は一方的に「義務」や「奉仕」を担わされるべき存在なのです。
そう考えれば、今回の彼らの「紳士協定」破約は、彼らにとっては何らの疑問も矛盾も、ましてや非難される理由も無かったのではないかと思います。
今回の件については、後に非難されて慌てて取り繕ったりしていますが、あれはあくまで外面のお話です。彼らの中では、「両班たるウリが、賎民に対して当然の権利を行使して何が悪いのか」と今でも思っているであろうことは、間違いないと私は思います。