謹賀新年
新年早々、日本海側では大雪とのことですが、大阪も大変寒うございます。ファンヒーターが唸りをあげて稼動しているのですが、室温が18度からあがりません。暖房を入れてない台所など、冷蔵庫の中の温度と室温が変わらないのではないかという気さえします。皆様もお風邪など召されませぬよう、どうぞご自愛くださいませ。
さて、年越しはあえて日韓チャットにもつながず、って言うか、ネット以前にPCの電源を切って、ジタバタと家の掃除などをしておりました。年が明けてから、ネットで親しくしている数人に明けましておめでとうございますコールをした後、一応ネットには接続したのですが、何となくチャットにつなぐ気にはなれず、うろうろと定期巡回サイトをさまよっています。
年末のご挨拶でも書きましたが、彼らは今年も、来年も、韓国的10年後も変わらないんだろうなあと思います。それが良い状態であっても、変わらないということは劣化に他なりません。ましてや彼らは、後ろ向きの状態で変わらないのですから、手のつけようがありません。
年末に某うどん県で行なったオフ会でもそう言ったのですが、「いや、彼らも徐々に変わりつつある」という意見もありました。なるほど、いわゆる「ニューライト」と呼ばれる人々の台頭もあり、一方的に日本を悪とみなす風潮を批判する動きも、一応最近の韓国にはあるわけです。日本文化も解禁したとのことで、彼らもまったく変わらないわけではないと、思いたい気持ちはよくわかります。
ただ、彼らの中に変わり得る勢力が出るかどうかは、私は実はあまり重要視していません。重要なのは、「彼らの社会が変化を受け入れ得るかどうか」なのです。
この場合の変化というのは、生活様式や知識・学識レベルではありません。彼らの意識やアイデンティティです。
彼らが変わるためには、自らのアイデンティティを確立する必要があると思います。彼らにはそれがありません。あるいは日本に、あるいは中国に、またあるいは欧米にと、ふらふらそのアイデンティティをさまよわせ、時々思い出したように「ウリナラマンセー」と叫んではみますが、その「ウリナラ」がいったいどんなものなのか、彼らは把握していません。ただ「ウリナラマンセー」と言えば何となく心地よいので言ってるだけです。別に「ウリナラマンセー」じゃなくても、「ドクトウリタン」でも「チョッパリケセキ」でも、彼らにとって心地よければ何でも良いのです。
ウリナラの何がマンセーなのか、本当にドクトウリタンなのか、チョッパリケセキに何故勝てないのかということを、彼らが彼らの持つ妙なフィルターを通さずに見て、考えることが出来るようになれば、彼らも変わり得るかもしれません。しかしそんな日は、たとえ韓国的10年後でも来ないでしょう。
彼らに変わることを期待しても無駄ということは、弊ブログで何度も繰り返し申し上げてきました。変わり得るのは、彼らではありません。私たちです。
昔日本では、「韓国が嫌い」と言えば無条件でレイシストのレッテルを貼られました。それが近年では、まだ批判的な視線を向けられることはありますが、それでも堂々と嫌韓を名乗ることが出来るようになりました。
「嫌韓だけでは何も始まらない」と、今は亡き某嫌韓ブログの筆者が言ったのを見たことがありますが、確かにそれはその通りです。ただ嫌いだと言うだけでは、何も始まりません。嫌韓は、単なる通過点です。それは親韓でも同じです。
いつまでも親韓や嫌韓に留まっているのでは、韓国人と大差ありません。親韓の時に得たもの、嫌韓になって得たもの、それらを携えて、私たちは変わっていかなければならないと思います。
そのためにも、まずは日本に嫌韓を定着させなければならないのではないかと思います。結晶を作るためには、まずは溶液を飽和させる必要があるのです。
弊ブログが、その一助になればと願って、新年のご挨拶と代えさせていただきます<(_"_)>