韓国人として、どう思いますか?
当初は、レンタルのページランキングを使おうと思っていたのですが、どうもレンタルの物は使いこなせそうにないので、諦めて自分で手作業集計しました。ページランキングの集計をしたのは今回が初めてなのですが、多分「「約束」の意味」が上位に来るだろうと思っていたら、やはり首位でした。
弊ブログの記事数も500を超え、最近おいでになった方の中には「どこから読めば良いかわかんない」「全部読むのマンドクセ」という方もいらっしゃると思います。このページランキングが月見櫓の道標になればと思います。
ところで、最近中国関連ですっかり影が薄い韓国ですが、あまりにも構ってもらえなくて火病っていた模様。たとえ罵詈雑言でも、無視よりマシと考える彼ららしい所業です。
韓国の影が薄くなった影響かどうかわかりませんが、日韓チャットの新規参入日本人もここのところ減少しています。新規参入日本人はもともと多かったわけではないのですが、より一層少なくなった印象があります。
最近の日韓チャットは、少数ながら比較的安定した数を保っている常連日本人と、少数でしかも不安定な常連韓国人、新規参入はしてもちっとも定着せずに毎日のように入れ替わる圧倒多数の韓国人と、日本語自慢したいだけのザパニーズで占められています(最近ザパが本当に多い)。
普段の私は、基本的に韓国人とはほとんど話さないのですが、昨日ふと思いついて、韓国人に質問してみました。
部屋に入ってきた韓国人に、「韓国人に質問がありますが、答えてくれますか?」と聞きます。これに対して、全ての韓国人が必ず「はい」と即答します。たまに「どのような質問ですか?」と聞く韓国人もいますが、極めて稀です。
今回はすぐに逃げられないように「この部屋では、読解力の無い人、文章表現力の無い人は、入場をお断りしています。自分の読解力と文章表現力に自信が無い方は、早めの退出を推奨します」と宣言して、最初に退路を断っておきます。
質問内容は「現在のチベット問題について、韓国人としてどのように考えますか」というものです。実はこの質問は、「チベット問題について」よりも「韓国人として」の方に重点が置かれています。韓国人に日本人が日韓がらみの件を聞くと、どうしても身構えるので、あえて日韓とは直接関係の無い話題を選んでみました。
と言うわけで、数人の韓国人に質問しました。
結果は、質問した相手が一人でも十人でも同じだったかもしれません。ほとんどの韓国人が回答するときに「個人的には」「全ての韓国人がそうだと言うのではないが」と前置きします。それに対して「個人的にどう思うかは、聞いていません。韓国人として、どのように考えるかを質問しているのです」と私が言うと、「私の意見が韓国人全ての意見ではないので」と言います。
「韓国人全ての意見を言えと言っていません。あなたが、韓国人として、どのように考えるかを聞いているのです」と聞くと、「ではあなたは日本人としてどのように思うのですか」とか、「中国人の立場で考えるとチベット問題は・・・」などと言い始めます。
「日本人としてどのように思うかも、中国人の立場ではどのように考えるかも、聞いていません。私が聞いているのは、あなたが、韓国人として、どのように考えるか、です」と言うと、「あなたは争うつもりで入ってきたのですか」と言います。
例によっていつもの朝鮮話法なわけですが、どいつもこいつも判で押したように、頑なに「韓国人として」答えることを回避しようとします。
押して押して押し潰すように話を詰めて行って、幾人かの韓国人に捨て台詞と共に逃げられた挙句、やっと一人から得られた回答は、「韓国人として、この問題には関心が無い」でした。
そこで河岸を変えて、常連韓国人2名に同じ質問を投げかけて見ました。すると、この2名が2名とも綺麗に「韓国人として、このように思う」と即答しました。その意見は、2名それぞれ異なるものだったのですが、「韓国人として、何故そのように思うか」という説明も交えて答えたのは、この2名だけでした。
図らずもそのうちの一人と「韓国人は、「韓国人としてどう思うか」と聞かれると、答えるのを嫌がるのは何故か」という話になりました。
その韓国人は「「韓国人としてどのように思うか」と聞かれると、はじめから特定の回答を期待している感じがする」と答えました。さらにその韓国人と話し進むうちにうっすら見えてきたのは、韓国人は「韓国人として」と聞かれると、それは「(模範的な)韓国人として」と思い込むらしいということです。
だから、最初に私が「韓国人に聞きたいことがありますが、答えてくれますか」と聞いた時、韓国人たちは全員「はい」と即答したのです。きっとそうするのが「模範的韓国人」だと思ったからでしょう。また、常連韓国人だけが綺麗に即答したのも、常連であるが故に、私に対して「模範的であるべき」という構えが比較的無かったからでしょう。
「模範的韓国人として」回答出来そうにもないと思った途端、彼らはのらりくらりとつかみどころの無い回答をします。これは実際に、某脳足りんブログでもしばしば観察することが出来ます(「某脳足りん君ブログ」についてお知りになりたい方は、サイドバーのブログ内検索で「脳足りん君」と入力して、過去ログをご参照ください)。
最初は、それを見て「彼らには「韓国人として」いうものが無いのではないか」と一度は疑いました。しかし実際には、こちらが聞いてもいないのに彼らが「韓国人として」と語るシーンは結構あるのです。例えば、日本人に向かって日帝統治について語る時などは、彼らは「韓国人として」語ります。それが彼らのイメージする「模範的韓国人」の姿だからでしょう。
彼らのイメージの中では、韓国人は常に全て模範的な存在でなければならないようです。もしある韓国人の意見や行動が、彼らの「模範的韓国人」のイメージを損なったり脅かすものであれば、彼らはそういう韓国人を「例外」と言って切り捨ててでも、そのイメージを守ろうとします。たとえ「例外」として切り捨てられる韓国人が自分自身であっても、です。
もちろん、実際に切り捨てるわけでも、切り捨てられるわけでもありません。ただそうすることで韓国人全体のイメージを守ることが出来、韓国人である自分自身のイメージも守られると感じているのでしょう。
問題は、彼らがそうやって「模範的韓国人」のイメージを守ろうとする度に、彼らが隠滅したい「例外的韓国人」の姿を拡げまくっているということと、具体的な「模範的韓国人」が存在しないことでしょう。
韓国人自身が、幻想の「模範的韓国人」にすがって自分の等身大の姿を見つめなおそうとしない限り、幻想の「模範的韓国人」は永遠に幻想のままです。
幻想の「模範的韓国人として」考えようとする韓国人が「例外的韓国人」の姿を現実にさらけ出してしまい、その「例外的韓国人」を「模範的韓国人として」非難した韓国人がまた「例外的韓国人」をさらけ出すといういたちごっこが繰り広げられるわけですが、「韓国人として」彼らがそれが望ましいと思っているのならば、日本人としては、それで迷惑をかけられない限り、生暖かく見守っていれば良いと思います。