目を逸らしたい。
日本人にとって、最高の価値観とは個人的に「美しさ」だと思っています。当然、その「美しさ」は一言で言い表せるものではなく、また色んなパターンやバリエーションが存在します。しかし極端な話、美しくさえあれば、それが犯罪であっても許容しかねないのが日本人です。
その日本人にとって、朝鮮人という存在はまことに見苦しい。朝鮮人をどのように繕って書こうとも、どのような角度からどのようなフィルターをかけて見ようとも、「見ている限り」まるであぶり出しのように彼らの醜さが浮き上がってきます。
たまに見るだけなら良いのですが、これを見続けるというのは、かなりの苦行です。日本における韓国ブームが長く続かないのも、結局「見続けるのが苦痛になる」からではないでしょうか。
実は弊ブログでは、お気づきの方も多いと思いますが、かなり穏やかな表現で朝鮮人を形容するようにしております。「これでか!」と仰る方もいらっしゃるかもしれませんが、もっと率直に、もっと身も蓋もない言い方をすることは、いくらでも出来るのです。
実際嫌韓系ブログでは、そのような表現を盛んに用いるところも無くはありません。それを読んでカタルシスを感じる方も多くいらっしゃるようです。その気持ちはわからなくもありません。ただ、それをいつまでも続けていると、読まれている方はともかく、書いている方の心が荒んでくるのではないかと思うのです。
私は言わば自己防衛的に、朝鮮人に対してあまり直截な表現を用いないようにしているわけですが、そうしたところで、見ている朝鮮人の方が変化するわけではありません。
特に最近の韓国のデモなどは、彼らの彼ららしさが溢れかえって画面からこぼれ出てきそうなほどで、これを見続けるというのは精神的な拷問に近いものがあります。
国際基準の存在を知っており、その基準に自らをある程度合わせることの出来る韓国人は、このデモを批判的に見てはいるようですし、そういう韓国人も決して少なくはありません。しかし、韓国基準では、「声の大きい方」が正しいのです。声の大きさは動員数につながり、「デモにより多くの人数を動員出来る方」が正しいとなるわけです。
「デモ反対のデモ」などをやってる韓国人もいるようですが、結局より多くの人数を動員出来るのは現在の反政府デモである限り、韓国社会において正しいのは反政府デモ側ということになります。実際に正しいかどうかは関係ありません。「我々は正しい」と叫ぶ声が大きい方が正しく、それが今は反政府デモ側なのです。
韓国人にとっての最高の価値観が何かは、韓国人ではない私には断じかねますが、「正しさ」というものは彼らにとってかなり上位の価値観になると思います。ただし韓国における「正しさ」が、本当に「正しい」かどうかについては、少なくとも韓国内では問われません。
彼らの「正しさ」は、私たちの目から見ると非常にしばしば「卑怯さ」や「姑息さ」に映ります。何故なら彼らは、自分の正しさを主張する時には、自分の正しさを証明するのではなく、相手の失策や不足、あるいは欺瞞を穿つからです。
自分が同じような不正や悪行をはたらいていたとしても、相手の不正や悪行をより多く指摘出来れば、より正しいのは自分であると、彼らは主張します。
必然的に彼らの争いは相手のエラーを探し非難し合う泥仕合に陥り、見ている方としては、一瞬見るだけならそこそこ笑えても、見続けていくと必ず不快になります。
私はそれを見続けて考察し、出来るだけ不快を催さぬような表現を選んでは、こうやってブログにしているわけですが、それでも不快を感じる方がいらっしゃるのは、過去のコメント欄でも幾度か指摘されたことがあります。しかしチャットで見る彼らは、おそらく生よりダイレクトに彼らの内面に接することになります。連中の内面をダイレクトに見続けてる筆者の不快は、このブログに描くものよりさらに大きいことをお察しいただければ、まことに幸いです。
私は、このブログを「とっかかり」だと思っています。このブログで韓国の全てをお知らせすることなど、もちろん出来ませんが、「韓国について調べていたら、こんなブログを見つけたが、ここに書かれていることは本当だろうか」と思ってくださる日本人が一人でも増えれば良いなという願いを込めて、書いております。
そして実際にご自身で朝鮮人をご覧になった時に、「ああ、なるほど、あのブログに書いてあったのはこういうことなのか」と納得されるか、「なんだ、あのブログに書いてあることと全然違うじゃん」と思われるかは、各人の感性にお任せしたいと思います。しかし何も知らず考えずに朝鮮人に被爆するよりは、ある程度知って、ある程度考えた上で接する方がより良いと私は確信しており、そのためにも、このブログは少しでも長く続けていこうと思っています。
でも、今、ちょっとへたれそうになっているのは事実です。見たくなければ見なきゃ良いじゃん、という心の片隅からの声に、かなり心揺り動かされている今日この頃でした。