地球市民と名乗る人たち
今回の五輪は、まったく見ませんでした。見えたことはありますが、それは単に、たまたま視界に入っただけです。あ、ひとつだけ見たかな。一度だけですが、馬術(多分障害飛越競技)の順位は、自発的にネットで検索しました。日本、メダル圏内どころかベスト10にも入れてなかったですがw 私が見たときは、確かかろうじてベスト50には入ってたんじゃないかな。って言うか、ぶっちゃけ下から数えた方が早かった気はします。
しかし、今回に限ったことではありませんが、特に今回顕著だったと思ったのは、五輪を「平和とスポーツの祭典」などと言うことに対する違和感です。むしろ「政治的思惑と国粋主義のダシにされたスポーツの祭典」って言った方が良いんじゃね?と思うのは私だけではないでしょう。純粋にスポーツを楽しむために見るには、おどろおどろし過ぎます。
さて、今回は五輪と関係ありそうでなさそうな「地球市民」についてです。
ネットに限ったことではありませんが、自らを地球市民とか、地球人と位置づける人を時々見ます。私が見たことのある自称地球市民や地球人は、当然ながらネットでもリアルでも圧倒的に日本人が多いのですが、ネットの韓国人でも案外しばしば見かけます。
日本人と韓国人以外ではどうでしょうか。
北朝鮮人の場合、地球市民的発言は、在日を除けば思ってはいても公言は出来ますまい。アメリカ人や中国人に自称地球市民が多いかどうかは、寡聞にして知りませんが、彼らは自国こそが世界のトップとか、中心とか考えていそうな気がします。
ヨーロッパ辺りは、世界国家構想の発祥の地だけに、コスモポリタンを名乗る人が多そうですが、コスモポリタニズムと、地球市民や地球人を名乗る人の世界観が共通かどうかは確認したことがありません。ロシアや旧ソ連辺りはどうでしょうか。特亞を除くアジア諸国には、あまり多くないような気がしますが、これも確かめたことはありません。
という訳で、日本と韓国以外がどうなのかは、私にはほとんどわかりませんので、今回は日本人や韓国人の地球市民に限定させていただきます。
「地球市民」とか「地球人」と名乗る日本人や韓国人の発言は、それはグローバリズムやコスモポリタニズムからではなく、自国と、自国に所属することで生じる諸々の責任から逃れたいがために言っているように聞こえます。
更に酷いのになると、「地球市民」や「地球人」となって、自国や自国に所属することで生じる諸々の責任を逃れるだけでなく、第三者的立場に立って自国を追及しようとする者までいます。日本人の「地球市民」や「地球人」を名乗る連中に、往々にして左巻きが多いのもそれと無関係ではないでしょう。
日本では、戦後数十年間、自国否定の教育を行なってきたという経緯があるので、是非はともかく、地球市民とか地球人と名乗る人が少なくないのも無理はないように思います。もし日本で戦争が起きれば、逃げると公言して憚らない連中が多いのもそのためでしょう。そういう人に、ではどこの国へ逃げるのかと問うても、はっきりした答えが返ってきた例がありませんが、そういう人の脳内には、きっと地球市のどこかに日本人用のシェルターが用意されているのでしょう。その地球市というのがどこにあるのかわかりませんが。
日本人の中に、自虐史観や自国否定教育に素直に染め上げられた人たちが少なからずいて、そういう人たちがどこかにあるユートピア=地球市を夢見るということについては、賛同するつもりはありませんが、同様の教育を受けてきた私にも理解出来なくはありません。
しかし、韓国人が「地球市民」とか「地球人」と言うのは、強い違和感を感じます。
日本人とは異なり、韓国人は「よく頑張った史観」や「ウリナラマンセー教育」で染め上げられています。その彼らが、地球市民や地球人を名乗るのは、私から見ればまことに不可思議です。彼らには肯定し得る歴史と、肯定し得る祖国があるのですから。
もっとも、彼らの「よく頑張った史観」や「ウリナラマンセー教育」は、嘘の上に嘘を重ねて練り上げたものです。意識的であれ無意識的であれ、嘘で練り固めた自国に閉塞感を感じ、そこからの解放や逃避を望んで「地球市民」を名乗っている韓国人もいるのかもしれません。
あるいは、韓国人の考える「地球」や「世界」は、往々にしてイコール「朝鮮半島」のことです。そういう意味で彼らが「地球市民」だの「地球人」だのとほざいているということも考えられます。しかし、その場合は願わくは「ウリナラ世界市民」と名乗っていただきたいと切に思います。
彼らの世界観に巻き込まれては、地球も迷惑というものです。