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自己愛精神旺盛な韓国人

本日は9月9日、重陽の節句です。日本では、「9」は「苦」に通じるというので忌み数になっていますが、中国では「9」は「久」に通じるので、喜ばれる数字になっているそうです。それが二つ重なった9月9日の重陽の節句は、「久久」、即ち「永久」という意味になることもあって、一層めでたいとされています。

この時期を中国では中秋節と言って、日本で言うところの「お盆」に当たります。日本と同様、故郷に帰る人々で交通機関は大混雑するとか。

中国同様に、韓国でもこの時期を秋夕(チュソク)と言って祝うのですが、連中、中国の中秋節を「ウリナラ起源」と言い出している模様

ついこないだ、中国に「韓国は歴史泥棒」と言われて怒られたばかりなのに、そのほとぼりも冷めぬ内に同じことを繰り返すって、どんだけ空気読めないのやらと、ある意味感心します。

彼らの空気の読めなさは、日韓チャットでも毎日のように見ることが出来ます。

例えば、連中、入室するや否や、「何の話をしますか?」と言うのは良いのですが、発言のタイミングが必ずと言って良いほど悪いのです。そのタイミングの悪さは、まるで話の腰を折るために狙って言ってるのではないかと思うぐらいです。

私などは、話の腰を折られたことに気を悪くして全力で無視するか、さもなくば全開でぶん殴るのですが、日本人の中にはそのタイミングの悪い問いに、真面目に答える優しい人もいます。

しかし、実は彼らに対しては、誠実に回答しても、あまり意味がありません。

つい一昨日に、実際にあったわかりやすい例をあげますと、韓国人が入室するなり「何の話をしますか?」と言ったので、優しい日本人(もちろん私ではありません)が「明日の予定について」とその時の話題を言いました。

するとその韓国人はそれに「はい」と答えてすぐに、「日本の福原愛、人気が多いですか?」と言ったのです。

日本人が唖然として沈黙すると、その韓国人は無言で出て行ってしまいました。

優しい日本人は「何の話題か確認して、「明日の予定」だと説明しているのに、何故全然関係が無い会話を始めるのか理解が出来ないw」と苦笑していましたが、このように、韓国人と話していると、話の腰をへし折っただけでは気が済まず、自分の興味ある話題に無理やり方向転換させようとするのは珍しいことではありません。

例えば、日韓チャットではよくある「韓国に興味がありますか?」という問いに対して、「あります」と答えても、「韓国の何に興味がありますか?」と聞かれたことはほとんどありません。たいてい「私も日本に興味があります!」と続きます。

仕方がないので、こちらが「日本の何に興味がありますか?」と聞くと、彼らは「日本の文化に興味があります!」と大喜びで言うのですが、「日本の文化の何に興味がありますか?」と更に問うと、段々勢いが落ちていき、最後には「そんなに詳しくは知らない」と不機嫌そうに吐き捨てます。

言うまでもありませんが、「そんなに詳しく」聞いていません。例えば「日本の祭りに興味がある」と答えた韓国人がいました。某巨大匿名掲示板で行なわれる祭りを除いても、日本には数え切れないほどの祭りがあり、ただ漠然と「日本の祭りに興味がある」と言われただけでは、こちらも何とも答えようがありません。

ですから「どんな祭り?」「どこの地方の祭り?」と聞いてみたことがありましたが、やはり「そんなに詳しくは知らない」と言われました。

「興味がある」ならば、普通は自分が納得出来るまで多少なりとも調べるものです。ましてやIT強国を自称する韓国の人々です。日韓チャットに接続することが出来るならば、いくら韓国の検索環境が多重障壁に囲まれていると言っても、その範囲内で自分の興味あることを検索することもさほど困難ではありますまいに、彼らは自分が興味あることについて、ほとんどと言って良いくらい知りません。

例えば、1年365日、「日本」の二文字を語らぬ日のないほど日本に対して関心の高い韓国人ですが、たいていの韓国人は日本について本当に何も知りません。ただ学校の教師や友人の噂話、テレビで見流したニュースやドキュメンタリー、アニメやマンガや映画などから得られる情報で、記憶に残ったものだけが彼らの「知識」となります。

その「知識」を他人にひけらかすことが、彼らにとっては「興味を持っている」ことであって、それは即ち、他人からの注目を得たいというアピールに過ぎません。

もちろん、韓国人でも稀に興味の対象について積極的に資料を検索し収集する例もあります。しかしそういう韓国人でも、その資料を読み解き、整理して自分なりに理解するということはほとんどありません。ただ「資料を集めた」「読んだ」ということをひたすら主張するばかりです。

そういう彼らを観察していて思うのは、やはり彼らが徹底して他者に興味がないということです。

実は、以前もちらっと申し上げたことがありますが、韓国人考察において何でもかんでも【ウリ】と【ナム】に帰結させることについて、個人的にそんなに単純に考えて良いものだろうかという疑問を強く感じています。

しかし、韓国人を観察していると、どう避けようとしてもそこへ帰着してしまうのです。

彼らは徹底して【ウリ】にしか興味がありません。彼らが何に興味を示そうとも、それは巡り巡って自分自身への興味に必ず帰着します。

もっともこの【ウリ】に対する興味も、【ウリ】の美点や長所(と彼らが思いたいと思っている点)だけにしかありません。例えば、同じ韓国人であっても、「韓国人的に誇らしいと思えない人」たちに対する韓国人の無関心さは、凄まじいものがあります。そのくせ、「韓国人的に誇らしいと思えない人」に対する差別や、あるいは非難は「韓国人的に誇らしい」ので、実態以上にアピールされます。

それは自分自身に対しても同様です。日韓チャットで私に無作法を咎められた韓国人が、咎めた私に返す言葉は、自分の無作法に対する反省でも言い訳でもなく、私が彼らの無作法を咎めたことに対する非難です。

誇らしい【ウリ】であれば、無作法などするはずもなく、仮にしたとしても、それを【ナム】が咎めることなど、彼らとしては絶対に認められぬことなのでしょう。

最初の方で述べた彼らの「ウリナラ起源説」も、結局のところは「皆!誇らしいこのウリに興味を持って!無視しないで!」という彼らの、悲鳴にも似た懇願の彼ら的表現、あるいは「誇らしいウリは世界中から注目されている」という彼らの自己暗示じゃないのかなあと思うようになってきた今日この頃です。



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