言葉の意味より、イメージを重視する社会
私はこのブログを書くにあたって「読む人に、出来るだけ理解していただきやすい文章で書こう」ということを常に心掛けています。しかし、頭の回転の速い方々にとってそれは、「わかりきったことをくどくどしく書いている」と感じられるのかもしれません。
また弊ブログが扱っている主題が主題なだけに、率直に書くとどうしても品下がるという悩みもあります。下品なものについて、あまり下品にならぬように書こうとすれば、どうしても隠喩を使ったり、迂遠な表現を用いたりせざるを得ません。
この「出来るだけわかりやすく」というのと、「あまり下品にならぬように隠喩や迂遠な表現を多用する」という条件を同時に満たそうとすれば、「何をグダグダ書いていやがる」というような文章に自然になってしまうのは、実は筆者にも自覚があるところでございますw
と言う訳で、「このブログの文体は回りくどい」と感じていらっしゃる皆様には大変申し訳ございませんが、弊ブログはそういうスタイルのブログだとご理解いただいてお読みいただく以外にないと思います。
ところで、相変わらず9月12日付けの記事のコメント欄で、「言葉のイメージ」論が盛んです。
私も、前回記事冒頭で述べましたとおり、言葉をその本来の意味より、言葉のイメージを優先して用いることについては、詩などの分野で行われる場合を除いて、原則として否定派です。
例えば中高生辺りの国語の試験にも出題されることがありますが、「気が置けない」というフレーズがあります。これを「気を使う」という意味で理解してる人は少なくないと聞きます。おそらく「気が抜けない」などからの連想でしょう。だから「気が置けない」というフレーズは、「気を使う」という意味で用いるべきかと言えば、もちろんそうではないでしょう。
同様に、「煮詰まる」という言葉が「結論が出せない状態になること」というのは、おそらく「行き詰まる」からの連想による誤用であろうと思われますが、「そうだと思っている人が増えているから、誤用であっても、そういう意味で用いても良い」という考えに、私は賛同できません。間違いは間違いです。
よく指摘される例ですが、「すべからく」などは非常に誤用率の高い副詞です。だから「すべからく」という言葉を、誤用されている「すべて」の意味で用いるべきなどだというのは、どう考えても合理性がありません。そもそも「すべからく」を用いなければ、「すべて」の意味で伝えたいイメージを表現できないということはないのです。
確かに言葉は変化していくものですが、それを誤用や、悪意のある言い換えのための免罪符に用いるべきではないと私は思っています。どうしても誤用の意味で用いるべきと言いたい場合は、少なくとも100年以上は誤用の形で通用し続け、但し書き付きながら辞書にもその旨が載るようになってから言うべきであって、10年20年の誤用でいちいち定着させてたらきりがありません。
ましてや「辞書に載っていようがいまいが、相手に意図が伝わらなければ意味がない」「辞書も後追いしてくるだろう」などという詭弁は本末転倒も甚だしい。まず辞書に載っている意味で、相手に意図を伝えるのが本来ではありませんか。
そもそも、語句の誤用は、自然発生するものよりは、マスコミやメディアなどで、その言葉を用いる際に辞書で確認するのを怠ったがゆえに発生したものが少なからずあると思います。あるいは最近では、若者が使っているイメージ優先の言葉を、マスコミやメディアなどが面白がって流布する場合もあるでしょう。いずれにしても、そういう「流布した者勝ち」というやり方や考え方に、私は到底賛成出来ません。
辞書に載っているものは、正しいかどうかと言うよりは、その言葉を用いる人々のコンセンサスを獲得したものです。それを軸にしなければ何を軸にその言葉の意味を探すのかを、私は問いたいと思います。
人類の源流を訪ねて http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080901/169372/ にこう書かれていた。 >どうやらこのところの政府は、政局が煮詰まると政権を放り出すのがクセになっているようですね。 さて、この記事を書いた伊東乾という人やこの表現をそのまま載せた日経BP社は、管理人さんと同じように恥入るべきだろうか。全くそんな必要はない、というのが我輩の意見だ。 |
このご意見ですが、私が私の書いた文章における語彙や表現の誤用を恥じ入るからと言って、他人も同様に恥じ入るべきだなどとは、私もまったく思いません。しかし文を鬻いで身を立てている人であれば、私のような野良ブロガーなどよりは、ずっと言葉の使い方に神経質且つ慎重であるべきだとは思います。
さらに今回のように、肩書きや権威を背景に「この人(あるいはこのメディア)が用いているように、本来は誤用であっても、意味が通じているのだからこれはこれで正しい」という風に使われてしまうことを鑑みれば、恥じ入る恥じ入らないはともかくとして、誤用を広めた責任は感じるべきでしょう。
文章なんて、ただ書くだけなら書く人それぞれの自由です。「誤用だろうが何だろうが、俺はこの単語はこういうイメージで使われてる単語だと思うから、その用法でどんどん使う」と仰る方は自由にされれば良いと思います。ただその場合は、ご自身の日記帳なり、チラシの裏なりにしたためるようお願いしたいと思います。
そうではなく、ネットでも何らかのメディアでも、自分が書いた文章を不特定多数の人々に読ませようというのであれば、「誤用であろうが何だろうが」という考えで書くのは、「誤用でも流布した者勝ち」というのに与するものです。こういう考えは、「デマであっても、正しい目的があれば流布した者勝ち」につながる考えだと、私は思います。
また、不特定多数の読者の中には、書かれた文章にわずか一文字でも誤字脱字があれば、その文章全体の程度を疑ってしまう人がいることを、書く者は忘れるべきではないでしょう。ましてやそれが1単語、1文節の誤用となれば、その影響は推して知るべしでしょう。もっとも、これは自分の文章の信頼性を下げたい人にとっては、気にする必要がないかもしれません。
さて、話が逸れまくっているのを元に戻しまして、当初のお題の「差別」ですが、これ以外にも「人権」や「右翼」「左翼」などという言葉に、言葉の意味とは違うイメージが付帯されていることが多いのは事実だと思います。
私はこの現象を、言葉を漢字ではなくカタカナで理解しているからだと思っています。つまり言葉の意味よりもイメージを重視するということは、「差別」を「サベツ」、「人権」を「ジンケン」、「右翼」「左翼」ではなく「ウヨク」「サヨク」と理解しているのでしょう。
その言葉の【音】を相手にぶつけることによって、一定の反応が期待出来るということを、「言葉の意味」と誤解しているのではないかと思います。
実はこの「言葉を、言葉が持つ意味そのものではなく、言葉に付帯されたイメージで用いる」ということは、韓国人の間で非常によく行われています。
韓国では、漢字を廃し、ハングル専用にしたために、言葉の本来の意味を探ることが非常に困難になってしまっています。そのため、韓国人同士でさえ俄かに理解できない単語が出現することが、非常にしばしばあります。
私はチャットログを編集する際に、翻訳不全の部分を韓国語の辞書で確認しながら修正していますが、「韓韓チャットログ」という記事を書いた際、チャットログの中に辞書にない言葉がいくつか出てきました。
日韓チャットでも機械翻訳出来ない単語が出てくることはよくあるのですが、韓韓チャットの場合は、その発言量に比して、翻訳不能語彙の出現頻度が日韓チャットより高いのです。
日韓チャットならば、似た音の単語を探したり、適当な部分で分かち書きにしてみたりすれば、たいていは何とかなるのですが、韓韓チャットではどうやっても翻訳出来ない部分がいくつもありました。しかたがないので、その部分は日韓チャットで韓国人に頼んで翻訳してもらったのですが、その時に「その単語はそういう意味なの?」と聞くと、「この単語の意味はわからないが、文脈で判断した」という答えが何度か返ってきました。
「その単語は辞書にも載ってなかったんだけど」と私が言うと、その韓国人は「韓国では、人々が勝手に言葉を作って使うことが多いので、韓国人同士でもわからない単語がある」と答えました。「そういう場合はどうしてるの?」と聞くと、「文脈から推測して判断してる」と言います。
また、「極右」や「右翼」という言葉を「嫌韓」という意味で用いる韓国人は、日韓チャットでは枚挙に暇がありません。そんな彼らに「極右」や「右翼」の意味を問うても、まともに答えることが出来た韓国人は、少なくとも私が見た限りでは、皆無です。
そう言えば弊ブログの人気記事【「約束」の意味】でご紹介したように、「約束」という言葉も、彼らは意味を知らず、イメージで用いています。
日韓チャットで韓国人を観察していてしみじみ痛感するのが、「言葉」というものの大切さです。
韓国人は、言葉を非常にぞんざいに用います。日本人にそれを咎められれば、「翻訳の間違いだ」とか「文化の差だ」と言い逃れようとします。それは語句の誤用を咎められて、「言葉は変化するものだ」と言い逃れようとするのと、どれほどの違いがあるのでしょうか。
言葉は、正しく用いなければ正しく考えることが出来ず、正しく伝えることも出来ず、正しく受け止めることも出来ません。もちろん、文章表現上の技法として、言葉の意味とは異なる使い方をあえてする場合もありますが、それと誤用や悪意のある言い換えとは、まったく性格が異なります。
例えば、「お上手」という言葉を、まったく上手ではない人に使うことがありますが、それは誤用でも悪意のある言い換えでもありません。「上手」という言葉の意味を理解した上での、反語的揶揄表現です。
人間は、言葉でなければ考えることも伝えることも受け止めることも出来ません。以心伝心などは、言葉で十分に理解しあった者同士でのみ成立するものです。
言葉はコミュニケーションにおいても、考察の手段としても、万能でも完全無欠でもありません。だからこそ言葉を用いる際には、正しい意味で用いることで、少しでも誤解を少なくする努力をするべきなのです。それを「伝わることが重要」などと言って、言葉のイメージを優先して意味を蔑ろにするのは、本末転倒以外のなにものでもありません。
韓国における漢字廃止とハングル専用は、漢字が読み書き出来なくなるなどという単純で表層的な問題だけではなく、私たち日本人が想像する以上に、韓国人から言葉による理解力や表現力、思考力を奪っています。
韓国とは、言葉が言葉の意味を失って、あるいは言葉が持つ本来の意味を無視して、その音の響きと、その音の響きから受ける印象で、意思の疎通をはかろうとしている社会です。
その社会が如何なるものかをご紹介しているのが弊ブログであり、日本をそんな社会にしたくないというのが筆者の願いであることを、読者諸氏におかれましては、どうかお忘れなきようお願いしたいと思います。