絶滅するなら保護しても良いけれど
前回ご紹介した「町と動物園」の動画は構成や選曲のセンスが良く、結構評判が良いようで、原作者としても嬉しい限りです。
「町と動物園」は、実は別に童話のつもりで書いたわけではありませんでしたが、今回は有名なイソップ童話「アリとキリギリス」に擬えたお話です。
今年の春から夏にかけて、韓国では民衆(おそらくは親北朝鮮派の主導)による自称「燭火文化祭」と銘打った暴力デモに明け暮れ(文字通りw)、浮かれ狂っておりました。
その浮かれ狂いっぷりは、当時弊ブログでもご紹介しておりましたし、某脳足りん君の燭火デモ応援ブログを見ても、よくお分かりいただけるかと存じます(ちなみに某脳足りん君は、すっかり量産型韓国人の馬脚を現して遁走しましたので、当該ブログにコメントしても回答はないと思われます。また、もし仮に回答があったとしても、毎度おなじみの量産型回答と思われます)。
暑く熱い夏が過ぎ、秋になってはたと気づくと、「彼らにとっては」まるで降って涌いたかの如き経済危機です。
もちろん今回の韓国経済危機は、「降って涌いた」ものなどでは決してありません。彼らがこれまで長年積み重ねてきた結果であり、燭火デモに浮かれ狂っていた春から夏の間に、見る人が見れば既にその兆候ははっきりと表われていました。ただ彼ら自身が、それを見ようとしなかっただけです。
もちろん、春から夏にかけての燭火デモを行なっていなければ、今回の経済危機が回避出来たとは言えません。しかし燭火デモが韓国の政治的空白を生じせしめ、危機に対して打つ手を遅らせ、選択肢を狭める結果になったことは間違いないでしょう。
まもなく冬が来ます。今冬の韓国では、オンドルの燃料費(現在は灯油、ガス、電気が主ですが、まだ練炭を使ってる家もあるそうな)にも事欠く家庭が、例年以上に出て来ると思われます。
春から夏の燭火祭りで浮かれ狂ったキリギリスは、飢え凍えてアリに食べ物をねだりに来るでしょう。しかし今年の冬は、アリもあまり台所事情が良くありませんし、そうでなくとも前回の厳冬時にキリギリスに貸した食糧の返済がまだなのです。
有史以来、このキリギリスは祭りに浮かれ狂わずとも、常にと言って良いほど秋に蓄えた食糧を冬に食い尽くして春窮を繰り返してきました。
それでこのキリギリスの国が滅んだことは過去に幾度となくありますが、それが原因でこのキリギリスどもが絶滅したことは、過去に一度もありません。
ですからアリは、今回無理にこのキリギリスどもに食糧を貸さなくても大丈夫だと思います。
韓国人には自覚がない
さて昨今の韓国は、ウォンの対ドルレートが1400の壁を軽々突破(10月27日午前8時現在、ブルームバーグで確認したところ、1米ドル=1412.9韓国ウォン)し、ここに来てようようウリナラチラシでも「ウリ経済ヤバくね?」な論調がちらほら見えるようになってきました。
しかしこの期に及んでも、まだ彼らは「ウリ経済が危機的状況などと吹聴するのは外国の陰謀だ!」「日米経済の方がもっとヤバいから!」などと言って、現実から必死で目を逸らそうとしております。
日韓チャットでも、常連反日韓国人が「日本経済は危機的状況だ」「円高で日本経済沈没!」などと言って、韓国経済危機について話す日本人の邪魔をしようと躍起になっておりました。
この反日韓国人が言うとおり、日本経済は破綻寸前の危機的状況ということにして、仮に韓国経済が磐石だとしても、彼らが望むとおり日本経済が破綻したら、世界経済に対する影響までは思いつかずとも、韓国経済がどうなるかということぐらい、いくら韓国人でも義務教育を修了した程度の教養があれば容易に想像が付きましょうに、日本人を悔しがらせたいあまりに何も考えていないのでしょう。
韓国人は、こういう一歩踏み込んだ考察、あるいは一歩離れて見た考察というのが大変苦手なように見えます。その結果、私がよく言う「王手飛車取りで飛車を逃がす」ということを、彼らは本当によくやります。
不思議なのは、日韓チャットでもそうですし、日韓翻訳掲示板Enjoy Koreaを見ていても同様なのですが、彼らが実に何度も同じ手に引っかかることです。いや、同じ手に引っかかると言うよりは、彼らがいつも同じ手で仕掛けてくるので、いつも同じ手で返される、と言った方が正確でしょう。
日本を罵ったり貶めたりすれば、それは倍返しで彼らに返っていきます。日本人を「猿!」と罵る韓国人は非常に多いのですが、「それならば韓国人は猿に統治された猿以下の存在ということだな」となってしまいます。
あるいは「かつて日本は韓国を併合したのであって、植民地にしたのではない」と韓国人に言うと、彼らは激怒して「違う!日本は韓国を植民地にした!」と叫びます。
これなどはよく考えてみれば奇妙な話です。日本人が「お前らなんか誰が日本と対等に扱うか。日韓併合は、「併合」と銘打ってはいるが、実質は植民地だよ。お前らの先祖は俺たちの奴隷だったんだ」と言って、それを聞いた韓国人が激怒すると言うなら、これはわかります。
ところが実際は逆なのです。日本人が「日韓併合は日本と朝鮮(当時は大韓帝国)の対等な併合だった。朝鮮人も日本人として扱った」と言うのに対し、韓国人が「違う。日本の一方的で強制的な支配だった。当時の朝鮮人は日本人の奴隷だったのだ」と主張するのです。
その主張に基づいて「わかった、お前らは日本人の奴隷の子孫でOK?」と日本人が言うと、再び彼らは激怒します。
日本を罵れば罵るほど、その日本に大きく差をつけられている韓国の劣位が強調されることになるということを、日本人との対話体験や日韓チャットの経験が少ない韓国人ならともかく、数年来の日韓チャット常連である反日韓国人さえも、一向に学習しません。これは日韓翻訳掲示板を見ていても同様ですし、韓国政府の対日行動を見ていても同様です。
こういう彼らの習性を見ていてしみじみ思うのが、「韓国人には自覚がない」ということです。
韓国人には膨張した自我ならあるようですが、それが膨張しているという自覚もありませんし、何か言う時は、その発言がどういう意味を持つかという自覚もありません。自分の行動がどういう結果を生むかという自覚もなければ、自分のおかれている立場も自覚していません。
以前、韓国で、日本人の幼児を斧で殴った韓国人がいましたが、この犯人がインタビューに答えて「へー、子供がケガしたのか、でも日本人でしょ?」と話す画像があります。これなども、「自分が犯人である」という自覚がないからだと考えないと、出て来る台詞じゃないと思います。
時間は連続しており、原因があるから結果があるということも彼らには自覚出来ず、遮眼帯を着けられた馬のように、その瞬間ごとに目の前に見えている景色を頼りに走っている彼らですが、そういう自覚もありません。
もちろん、今現在韓国が経済危機に陥りつつあるという自覚が韓国人にないことは、言うまでもありません。
無視と無知と無関心は違う
さて、本日のお題ですが、韓国ウォッチにおいて「無視」と「無知」と「無関心」がしばしば混同されているように思われたので、これについて考えてみました。
嫌韓は「韓国の実情や歴史について非常に不勉強」とWikipediaに記載されています。それはむしろ親韓の方に多いのではないかなと思ったが、中には確かにそういう類の嫌韓もいる、ということは、以前にも書いた記憶があります。
それとは異なり、ある程度韓国についての知識が増えてきて、韓国に対する嫌悪感が募ってくると、中には嫌悪を催すことに嫌悪を覚えて、自衛的に嫌悪を催す対象(=韓国)を出来るだけ見まいとするようになる人がいるであろうことも、否定いたしません。
そもそも朝鮮人と異なり、他者に対する敵愾心や嫌悪感を野放図に暴走させる人は、日本人ではそれほど多くないでしょう。そういう日本人が嫌韓化すれば、その過程で「韓国及び朝鮮」そのものについてアレルギーを起こす人が出てくるのは、むしろ自然なことだと思います。
実際私も、出来れば韓国や朝鮮のことなど忘れて、楽しく美しいことに没頭出来ればと思うことは、毎日と言っても良いほどあります。
韓国は9割の不快と1割のお笑いで出来ていますが、韓国のことをあまり知らない間は、知的好奇心がそれらをカバーしてくれます。しかしある程度韓国のことについて知識が充足してくると、たとえ1割のお笑いに接したいがために韓国ウォッチをしているとしても、9割の不快に耐えなければならないという理不尽さに納得出来なくなってくるものです。
またハングルの無味乾燥を通り越したデザイン的醜悪さ、朝鮮語で用いられる音の中にある、日本人にとって不快な音等も、韓国に対する不快感との相乗効果によって、生理的嫌悪を誘発されることがあるのは、多くの嫌韓な方が体験していることだと思います。
それもあってか、嫌韓な方の中には、韓国ウォッチは我慢して続けるにしても、ハングルや朝鮮語などを学習することを嫌う方は少なくありません。あるいは、かつて学習していたこともあるが、今となってはもう見るのも嫌だ、という方も少なからずいらっしゃるでしょう。
これらは生理的嫌悪に発するものであることが多く、そうなるとアレルギーのようなものですから、精神衛生上非常によろしくないので無理にとは申しませんが、嫌韓=嫌韓厨=ネット右翼などという脈絡のない印象操作に屈せず、腰を据えて韓国ウォッチをするつもりがあり、精神的なタフさにある程度自信のある方ならば、ハングルや朝鮮語を含めた韓国関連の知識を拡充することは、決してマイナスにはなりません。
ところが、ハングルや朝鮮語を学習したり、韓国ウォッチをしていると、韓国人や親韓、擁韓、あるいは韓国をあまり知らない人などから、「本当は韓国が好きなんじゃないの?」と言われることがあります。それが嫌で殊更にハングルや朝鮮語、韓国ウォッチを忌避するようになる人もいるでしょう。
その気持ちは、非常によくわかります。それは言わば、ストーカー対策をしている女性が周囲やストーカー本人から、「そんなにストーカー対策を熱心にするのは、本当はストーカーのことが好きだからでは?」と言われるようなものですから。
しかし、だからと言ってストーカーのことを全く知らずにいたり、無関心でいれば、その女性はどうなるでしょうか。
無視するためには、その存在を認識しなければ出来ないのです。
孫子にいわく「彼を知り己れを知れば、百戦して危うからず。彼を知らず己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己れを知らざれば、戦うごとに必ず危うし」と。
韓国人や親韓、擁韓の「本当は韓国が好きじゃないの?」という揶揄は、意識的であれ無意識的であれ、私たちが韓国を知ることを妨げ、韓国に対して無知なままでいることを誘導するものです。
そんなのに易々と引っかかってたら、「戦うごとに必ず危うし」どころか、「戦わずして負け」です。
他人は敵。たとえそれが結婚相手でも。
ああ、そうそう。面倒くさいけど、「もちろん全てがそうだとは限りませんが」と、言うまでもないことを言っておきます。さもないといちいち鬼の首を取ったかのようにそれを言い立てて、話を混ぜっ返そうとする「朝鮮人みたいな真似」をする人が出てきますので。
しかも韓国では、息子の親が息子の彼女に対して、「うちの息子は、美男子で良い会社に勤めているから、本当ならお前なんかよりもっと良い女性と付き合えたのに」と言うことは珍しくないそうです。
それを聞いたとき、日本では「うちの息子は良い大学を出てる」とか「うちの息子は良い会社に勤めている」ぐらいなら、言う親はいるかもしれないが、「うちの息子は美男子だ」と、彼女の前で抜け抜けと言う親はいないのではないかなと、思いました。
やがて実際に結婚すれば、「お前は私たちの息子が儲けて来るお金に暮しするのではないか? ご主人よく会ったと思いなさい、そのように話す舅姑が大部分です」(原文ママ)なのだそうです。
それを聞いて私が、「何と言うか、思いやりのない社会だねえ。「お前がそれを言ったらおしまいだ」ということを、韓国人はさらっと言ってしまうよね」と嘆息すると、その韓国人女性は「人々は文化差と言いますね」と答えました。
しかし、「文化差」で片付けてしまうには、何ともやり切れない話です。だから重ねて聞いてみました。
「文化差って言うかさ、韓国人はそういうのが心地良いの?」
するとその韓国人女性は「当然嫌です!現代女性なのに!でもまだまだ変わらない意識をどうしますか?何百年根深い思想なのに」と即答しました。
そりゃ言われる方は嫌でしょう。しかし私の視点は言われる方ではなく、言う方にありました。
「いや、夫や夫の親は、嫁にそう言うのが心地良いの?」と重ねて問うと、「韓国では結婚=家+家だから」とその韓国人女性は答えました。
「日本でもそうですけどね」と私が答えると、その韓国人女性はこう付け足しました。
「私(筆者註:私=息子の親)が嫁にこう言えば姻戚に勝つ、そんな考えが多いものですから」
私は驚いて「意味わかんねえよ、何故姻戚に勝つ必要がある?それとも嫁の実家は敵?」と聞くと、その韓国人は「うん、ちょっとそんな感じ。もちろん全部がそうではないが、そういう家庭が多いです」と答えました。
もちろん、日本でも姑の嫁いびりは昔からありますし、互いの姻戚に対する競争意識がある場合もあるでしょう。しかし、嫁を罵ったり虐げたりすれば、姻戚に勝てるという考えで嫁いびりをする舅や姑は、そんなに多くはないでしょう。
ところで、最近、【北朝鮮の延命戦争
この本に出てくる「ある亡命者」は、帰国事業で北朝鮮に戻った(正確には、「戻った」のは親で、当人は日本で生まれ育っているので「渡った」と言うべきかもしれません)元在日朝鮮人の男性なのですが、彼は北朝鮮で2度の結婚をします。
ところが、その2度の結婚における結婚相手との関係が2度とも、日本人的感覚から見ると不可解なのです。どう不可解かと言うと、結婚相手をまるで「敵」のように看做している点です。
1度目の結婚では、妻と妻の姉が彼と彼の資産を手の内に入れておきたいがために彼の仕事を妨害し、2度目の結婚では妻(これも元在日で帰国者)には日本からの送金があるのに、いくら夫が仕事で外貨を必要としていても、妻は援助をしなかったと、この亡命者は言います。
インタビュアーの関川夏央氏は、この不可解さを何とか理解しようとして、この亡命者の苛立ちを無視して幾度か問い直したそうですが、結局わかったのは「それが北朝鮮だ」ということでした。
韓国での嫁に対する舅姑の対応も、北朝鮮の結婚相手に対する態度も、どちらにも共通するのは「結婚相手であっても他人は他人」までは良いとしても、そのまま「他人は敵」という思想に直結する点です。これは朝鮮の伝統的思想と言い得るでしょう。
そう言えば、外国人女性との性的交渉を「太極旗を挿してやった」などと表現するのも、韓国人男性独特です(他の国の男性が同様の表現を用いている例をご存知の方がいらっしゃったら、是非教えてください)が、これは相手女性を「征服する対象」=「敵対者」と看做してなければ、出てくる言葉ではないと思います。
「韓国人男性は優しい」などという韓流捏風の戯言を真に受けるのは個人の勝手ですが、韓国人男性と付き合うのは、そういう思想文化の中に自ら身を投げるようなものだということを、せめて前もって知った上でからにした方がよろしいのではないかなと、老婆心ながら申し上げたいと思います。
ある意味、彼らの趣味
半月ほど前の韓国では、芸能人関連の自殺騒動が盛んに報じられておりました。しかしおそらく、韓国では現在、経済関連の自殺者がもりもり出ているのではないかと私は推測しています。あるいは、経済関連の事件が佃煮にするほどあると思われるのですが、その手の報道が非常に少なく、また報道されていたとしても極めて控えめなのです。
まるで「そんなもの全く無い」と言わぬばかりに。
それは何故なのかということは、去年のこんな記事を見れば想像がつきます。
記事入力 : 2007/07/17 14:18:41 【記者手帳】「見ざる聞かざる」のソウル株式市場「お話できません」 株価の見通しを尋ねた記者の質問に、ある大手証券会社のリサーチセンター長を務めるA氏は口をつぐんだ。彼は現在、株式市場に残る唯一の悲観論者(株価の先行きは明るくないと考えている識者)だ。 繰り返し尋ねると、ようやく彼は「2003年から続いてきた4年連続の上昇傾向は、今年7‐9月期末ごろ終わるものとみられる」と一言、答えた。そう言いながらも「この考えは公式の見解として明らかにすることはできない」と釘を刺した。「記事にしないでほしい」「実名を明かすのは駄目」とも言った。そして「キム・ヨンイク氏も株価が下がると発言し、酷い目に遭った」と漏らした。 彼が口にしたハナ大韓投資証券リサーチセンターのキム・ヨンイクセンター長も、ついこの間まで代表的な市場悲観論者だった。キムセンター長はある投資説明会で「株価は下がる可能性がある」と発言、非難を浴びた。同社の社員もしばらくの間、投資家たちから罵られたり、脅迫電話を受けたりしたという。 記者もキムセンター長の悲観論を紹介する記事を書いたため、「なぜ株価を暴落させようとするのか」と読者から抗議の電話がかかってきた。 今、ソウル株式市場では悲観論が姿を消し、楽観論だけが残っている。株価総合指数が1700‐1800台の時点ではまだ過熱を警告する声が出ていたが、いつの間にか消え失せてしまった。アナリストたちはあらゆる理論を当てはめ、株高を分析するのに忙しい。各証券会社券は互いに競い合うように株価の展望値を引き上げ、2300ポイントまで上がるという見解まで飛び出した。 韓国銀行はコール金利を引き上げ、追加引き上げの可能性にも言及したが、株価はむしろ急騰している。原油高上がっても、ウォン高が続いても、投資家たちはひたすら「もっと上がる」と見込んで投資している。韓国証券のある支店長は「中年の主婦が個人年金を解約し、株式投資につぎ込もうとするのを止めたが、話を聞いてくれなかった」と話す。 株価は上がることも下がることもあるもの。楽観論だけが存在するのは健全な株式市場ではない。ソウル株式市場の投資家たちは今、眼を閉じ、耳を塞いだまま「見ざる聞かざる」を決め込んでいる。 経済部=チョン・スヨン記者 |
彼らの「見ざる聞かざる」癖は経済に限ったことではありません。
彼らは「自分に都合の悪いことは、自分が知らなければ起きてないのと同じニダ」と考えています。自分にとって都合の悪いことが起きるのは、自分に都合の悪いことが起きたことを気づかせる誰かがいるからだ、と彼らは考えるようです。
もし自分に都合の悪いことを言う者がいれば、徒党を組んでそれを弾圧し封殺しようとするのも、経済に限ったことではありません。しかもそれが、権力者の強権の下に行なわれるのではなく、民衆が自主的自発的自立的wに行なうのです。
こんな連中に人権や民主主義を教えたのが間違いと言うか、国家運営をさせたのが間違いと言うべきかは迷いますが、いずれにせよ、これで国家運営が順調に行く方がどうかしています。韓国のこれまでの四半世紀は、色んな要因が重なり合って、たまたま韓国にとっては幸運な方向に「どうかしていた」と考えるべきでしょう。
もっとも、いくら私が経済関連に疎いと言っても、韓国経済が破綻したからと言って、「本日で【韓国】は終了いたします。来週より新シリーズ【統一朝鮮】をお届けいたしますので、ご期待ください」とならないことぐらいは、わかります。
そもそも、韓国を丸ごと引き受けようという国が現われでもしない限り、韓国経済が破綻しても、たちまち韓国が消滅するということの方が有り得ません。破綻しても単に、今から30年前の韓国の生活水準に戻るだけでしょう。むしろ、韓国人はこの四半世紀を「良い夢を見れた」と思えば…ってそれが出来たら朝鮮人じゃないですね。
しかもこのタイミングで世界恐慌とくれば、破綻した韓国が支援を求めても、どこの国も(もちろん日本も)「ゴメン、うちも台所事情が厳しくて」と体よく断われます。昨日の日韓チャットでは、これを「逆崖っぷち外交」と言っていた常連日本人がおりましたが、まことに言い得て妙です。
それに韓国の場合、歴史的に見ても経済破綻や国家滅亡は、一種の恒例行事と言うか、予定調和のようなもの。ある意味彼らの趣味だと思って、私は生暖かく見守っています。
町と動物園
やがてこの小さな動物園は、当然のように経営破綻します。丁度その頃、その小さな動物園に隣接した町は急成長しておりましたので、動物園のような文化的施設を持っていても良いのではないかという意見もあり、この小さな動物園を丸ごと町で引き受け、動物の管理体制を整え、経営を立て直しました。
ところがその後、町が酷い不況に陥り傾くと、動物園の従業員は落ちぶれた町に管理されることを嫌って、園の直接経営権を要求するようになりました。そこで、町は動物園を従業員に任せることにしましたが、色んな形で町からは補助金を支給しておりました。
その後町の景気が回復すると、町からの動物園に対する補助金の支給額も増え、動物園もそれなりに充実してきました。
しかし、動物園の経営体質は変わっておらず、動物の管理は不適切ですし、相変わらずの放漫経営でした。ただ、昔と違って、町からの補助金があるので、動物園は体裁を繕うことが出来ていました。
それでも、放漫経営のツケは回ってきます。何とか体裁を取り繕ってはいても、動物園の経営はどんどん危なくなっていきました。
動物園の経営者や従業員は、町や町の人々に言います。「この町の人々が動物園に来て、沢山お金を使ってこそ、動物園と町との共存関係を良好に出来る。だから町民は積極的に我が園に来て、町は動物園に補助金をもっとたくさん支給するべきである」と。
しかし昔と違って、町にはこの小さな動物園に代わる施設はいくらでもあります。もはやこの小さな動物園は、町と町民にとっては、あってもなくてもどうでも良い施設なのです。ましてや、この小さな動物園は、入場料は安いのですが、園内で要らない物を買わされることが多いので、結果的にはさほどに安くはありませんし、珍しい動物がいるわけでもありませんし、動物の管理も杜撰で安全性が低く、町にある他の娯楽施設などと比べれば、特筆するほど楽しい施設ではありません。
しかもこの動物園は、園から出る廃棄物を町内の池に不法投棄したり、はなはだしくは町内の施設を不法占拠して私物化しようとしたりします。
それでも動物園の経営者や従業員は言います。
「動物園と町の良好な共存関係のために、町はウリ動物園に補助金をどんどん出すニダ!!」
その小さな動物園にとって、町との共存関係は確かに死活問題ですが、町にとっては、その小さな動物園が潰れても、たくさんある娯楽施設のひとつが潰れるだけです。
中には、「あの動物園が潰れたら、この町は困るでしょう?」と言って町や町民に動物園の救済と支援を求める町民もいないことはないのですが、「あの動物園がなくなったら、町は何に困るのですか?」と尋ねても、何故か明確な答えはありません。
町として困ることがあるとすれば、動物園が破綻することで、管理している動物が一斉に檻から町に放たれ、町内で暴れまわることぐらいしか、私には思いつきません。
もっとも、それは動物園が出来てから現在に至るまで、一斉にではないにせよ、しばしば発生している問題であって、動物園側の管理体制に期待出来ない以上、動物園の破綻とは無関係に、町側で厳正に対処するべき問題だと思っています。
韓国がノーベル賞を取れない理由
「ああ、そうなの?」と軽く受け流すと、韓国人は「はい、今テレビのニュースでやっていました。おめでとうございます」と言います。
「おめでとうございます」と言われても、別に私がノーベル賞を取ったわけでもないし、多分受賞者は私の親戚でもないだろうし(その時は誰が受賞したか知りませんでした)、と困惑していると、韓国人は「謙遜ですね。自制的です!」と褒めてくれました(この韓国人は常連の一人で、かなり親日的)。
「いや、別に謙遜じゃないし」と私が言うと、その韓国人は「日本人がノーベル賞を取って嬉しくないのですか?」と不思議そうでした。
日本人がノーベル賞を取ったことそのものは、日本人として嬉しいことだとは思うけれど、それをまるで自分の手柄のように他国人に言いふらすことは、何だか違うような気がする、とその韓国人に説明したのですが、そういう考えは、韓国人的にはどこまでも謙遜に見えたようです。
実際、韓国の新聞などでは、日本人のノーベル賞受賞について剥き出しの嫉妬心を隠そうともせず、色々と論説をぶっております。中央日報では【「日本人がノーベル物理学賞を席巻」日本列島興奮】などという見出しを打っておりますが、実際のところは、日本より韓国の方がよほど興奮していたと思います。
この時期、毎年のように韓国では「何故韓国人がノーベル賞を取れないニカ?」と大騒ぎしているようです。
オリンピックやサッカーW杯などのスポーツであれば、どんな手段を用いようとも、その試合で結果を出せれば良いわけです。極端な話、ドーピングも、試合前の選手への妨害も、試合中の反則も、バレなければやった方が断然有利です。審判を買収するという手もあります。
どんなに卑怯でも不正な手段を用いたとしても、スポーツの場合は、それがバレなければ勝った者が勝ちです。後から多少不正を指摘されたとしても、それが疑惑に留まる限り、一度出た結果はまず覆りません。
しかし学術研究は違います。論文に矛盾や誤謬、牽強付会があれば別の研究者から激しく突っ込まれますし、資料に不備があればこれもまた厳しく追及されます。試験結果は追試で同様の結果が出なければ認められません。捏造した試験結果や資料などは論外です。
韓国人が学術研究で国際的な評価を得られない理由には、彼らが自分で分析しているようなものもあるでしょうが、それ以外にも、彼らがあえて目を逸らしている理由がいくつもあります。
ハングル専用もその理由のひとつにあげられるでしょうし、教育制度が整っている割に、教育のレベルが低いということもあげられるでしょう。
彼らの【8割でパペクト】という考えも一役買っているでしょうし、願望と研究結果が一致しない場合は願望を優先する彼らの習性も、大きな理由のひとつと言えます。あるいは、願望に基づいて研究を行なうという例もあるようです。
また他人の研究論文を剽窃することに躊躇がないのも、研究そのものよりも、それによって得られる富や名誉や権力に重点を置いていることも、かなり大きな理由になっているのではないかと思います。
これらの理由と、韓国人自身が掲げる【韓国人がノーベル賞を取れない理由】の全てが改善されれば、韓国人学者がノーベル賞の受賞レースのスタートラインに立つことが出来る日が来るかもしれません。
その日は、きっと来世紀中までには来るのではないかと思います。
それまで韓国が存在するかどうかはわかりませんが。
いただいたコメントについて、思うことなど
本当に、今まで何度もへこたれそうになったことを思うと、私一人では絶対に続かなかったでしょう。改めて皆様方に深く御礼申し上げます<(_"_)>
ところで、弊ブログのネタ元である日韓チャットですが、相変わらず過疎っている上に、私が気に入らない韓国人の相手をまったくしないため、あまりネタがありません。
チャット以外で見つけた小ネタ的なものとしては、私が最近はまっているサボテンと多肉植物関連のサイトを見ていたら、施肥関連について、【私は幼苗にも施肥を行う。幼苗は成株とは生理学的に大きく異なる。人間でも低養分や香辛料の利いた食事を赤ん坊には与えない。(韓国人は生後6ヵ月でキムチを食べ始めるらしいが。)植物でも同様で,なるべく急速かつ穏やかに育つ必要がある。毎日の極低濃度の肥料含有水の霧吹きは非常に有効である。】という記述に不意を突かれて、笑ってしまったことぐらいでしょうか。
ちなみにこれは国際的な多肉植物の権威の、とあるアメリカ人の著書にある記述だそうです。
笑うと同時に、韓国人が本当にキムチを生後半年の乳児に与えているかどうかはさておき、そういう情報が、おそらくは韓国にさほど興味のないアメリカ人にも伝わっているということに、少々驚きました。他者から関心を持たれることを常に強く望んでいる韓国人にとっては、喜ばしいことではないかと思いました。
という小ネタはここまでにしておいて、今回は最近のコメント欄からのお題を取り上げてみたいと思います。
最近のコメント欄には、弊ブログで取り上げて欲しいというご要望を添えたコメントが時々入ります。例えば以下のコメントです。
話題違いでもうしわけないのですが SAPIOでやってる関東大震災時の朝鮮人に関する連載を とりあげていただけないでしょうか。咀嚼できなくて気持ち悪い という個人的な動機です。 色んな意見、感想を知りたいなという独善的な願望。 2008.10.07 00:23 | 名無櫓 URL [Edit] Page top △ |
ごめんなさい、SAPIO読んでません<(_"_)> 弊ブログで取り上げることそのものについては、やぶさかではありませんが、その連載がどんな内容なのかも知らないので、残念ながらご期待に沿うことは出来ません。
他には、以下のようなご意見もありました。
韓国語というもの 韓国語と言わずに朝鮮語と正しく言上げしませんか。 「韓国語」なる言葉は、「朝鮮又は朝鮮人」なる言葉を侮蔑語だから使うな、と言う在日の要求により創出されたものです。 「韓国語」をお使いの方にお尋ねしますが、北朝鮮と南朝鮮(韓国)の言語に方言を除いて根本的な差異は在るのでしょうか。 言語分類からも朝鮮語と称するのが、正です。 「韓国語」なる言葉は、悲しいかな在日及び曲学阿世の日本人により流布されたものです。 言葉の定義を大事になさる方々が集う場ですので、ご賛同いただければ幸いです。 2008.10.04 13:38 | 森の風 URL [Edit] Page top △ |
これは実は私自身もジレンマを感じている部分ではあります。確かに、朝鮮語と韓国語の違いは、方言以外にほとんどありません。あえて言うなら、朝鮮語より韓国語の方が罵倒語の語彙数が豊富ということぐらいでしょうか。
しかしこれを言い出すと、朝鮮と北朝鮮と韓国、及び朝鮮人と北朝鮮人と韓国人との区分も錯綜しており、韓国在外同胞や朝鮮族もそうですが、更に在日という存在がそれを一層ややこしいものにしております。
このジレンマと混乱は、そのまま朝鮮半島のジレンマと混乱そのものであると考え、現状ではその時と場合に応じて、適宜使い分ける以外にないのではないかと思っております。ただ「朝鮮語」を「ハングル語」ということについては、明らかに変だと思いますので、そういう使い方に対しては否定的な立場をとっています。
「朝鮮」で総称される事柄関連では、以下のようなコメントも頂戴いたしました。
クレームという訳ではありませんがw 「朝鮮人の様な真似」というのは差別語に当たるそうなので 「チョソン(chosun)の様な真似」に訂正してはいかがでしょうかw 2008.10.06 22:40 | 名無櫓 URL [Edit] Page top △ |
これについて、隠語で呼ぼうというお話がコメント欄で盛り上がっているようです。
弊ブログでも、以前、韓国人があまりにも「朝鮮人」と呼ばれることにグダグダ文句を言うので、面倒くさくなって「じゃあ高麗人なら良いのか」と言うと、「日本でそんな呼び方をしてたことはない」と言うので、「高麗人をコマビトと呼んでたことならある。だからコマ人なら良いのだな」と言って、しばらく「コマ人」という呼称を用いてたことがあります。
しかしこれも結局使わなくなりました。理由は、「コマ人」じゃ通じないことが多く、使うたびに注釈や説明を加えるのが面倒くさいからです。同じ面倒くさいなら、日本人相手に「何故朝鮮人をコマ人と呼ぶのか」という説明をするよりも、韓国人相手に「何故韓国人を朝鮮人と言ってはいけないのか」と問い詰める方が、何だか筋が通っているような気がします。
そもそも、「朝鮮人のような真似」が何故差別語に当たるのでしょうか?それならば、「日本人のような真似」や「アメリカ人のような真似」「フランス人のような真似」「ドイツ人のような真似」等も差別語になるのでしょうか?
かなり初期の記事なので、最近弊ブログにお越しになるようになった方はご覧になっていないかもしれませんが、この問題については既に言及しておりますので、よろしければこの記事をご参照ください。
個人的には、以下のコメントについて、強く考えさせられるものがありました。
【一見すると、其の通り、だが・・・】 彼らは【その背景の無さだけを理由に問答無用でシャットアウト】しているのではない。 実際は・・・ 【自分の都合に合わない意見や理論に対しては】←という不文律が大前提にある。 ひとたび、【自分の都合に合わない理論】に出会ったときは、【背景があろうと無かろうと】【シャットアウトしようとする】のが実際の特徴である。 例:李栄薫(ソウル経済学部教授) 金完燮(光州事件国家偉功者、ソウル大学物理学部卒、評論家、作家) 李明博(現韓国大統領) etc. つまり・・ 【むちゃくちゃなのである】、しかも、これは常に【民間】によって自発的に行われている。【民間による】【言論統制的機能】なのであり、これこそが彼らの思い込んでいる【デモ暮らし】の正体ということになる。 結局・・ 【幼稚なのだ】 2008.10.06 16:31 | junchan URL [Edit] Page top △ |
特に【幼稚なのだ】という部分についてです。
実は、韓国と韓国人については概ねこの【幼稚なのだ】の一言で説明がついてしまうのですが、これではあまりにも簡潔過ぎて俄かに受け入れられない人が少なくないのではないかと思います。
そこで弊ブログではこれをご理解いただくために、多くの言葉を費やしているわけですが、そのことがかえって話を複雑化させ、結果的に混乱を招いているのではないかという懸念もつきまといます。
説明を簡潔にすれば疑問を差し挟む余地が生じ、疑問を差し挟む余地を潰していこうとすると話がややこしくなるというこのジレンマに、如何に対処するかが、弊ブログの今後の課題かなあなどと思った次第でありました。
論より権威
朝鮮人の非礼や暴力、無作法その他、他者に不快を催させる所業等について、いくら実例をあげて指摘しても、「文化の差だ」などと言って看過しようとしたり黙認したり理解しようとする日本人は、本当に少なくありません。しかし、もし同様の行為を日本人(の看板を掲げた者含む)が行なえば、これはたちまち非難の対象になります。
ですから、「日本人(の看板を掲げた者)」が「朝鮮人のような真似」を弊ブログでするのは、見るに不快と感じる方も少なからずいらっしゃるようですが、反面、非常に良いサンプルになると私は思っております。
と言いつつ、寛大であることにはそこそこ自信のある私ですが、さすがにそろそろ調子の乗るのは大概にしとけよと思っています。他人のブログの構成にケチつけるだけでは飽き足りず、そのケチをつけた他人のブログのコメント欄に乗っかって、自前のブログの宣伝と連載を始めるな、馬鹿者。
こういう風に、ところをわきまえられないというのと、優しくしてやると際限なくつけあがるという性質も、朝鮮人に非常によくある習性です。「朝鮮人のような真似は止せ」と何度言ってやっても、この馬鹿は一向に朝鮮人のような真似を止めません。それも馬鹿故のことなのでしょう。ご存知かもしれませんが、馬鹿は治ることもあるようですので、早めに治されることを強く祈念します。
ところで、今回一連の流れで面白いなと思ったことがあります。
今回「言葉のイメージ」論について語る場合、日本人同士であれば誰が意見を述べようとも、意見の発信者に対して「あなたは言語学者ですか?」などと問う人がありません。
日本人は、門外漢であろうと在野であろうと無名であろうと、その時の話題の内容に沿っていれば、互いの持つ知識を披露し合い、論じ合うことに抵抗を感じる人は少ないようです。
ところが日韓チャットで、日本人同士が論じ合っているところへ韓国人が紛れ込んだ場合、その韓国人は「お前たちは学者なの?」とか「専門家なの?」などと言うことがあります。
日本では、基本的に雑談の延長線上における議論程度であれば、互いに非専門家であることを暗黙の前提としております。しかし、ある事柄に対して驚くほど詳しい人がいれば、「専門家ですか?」と聞くことはあります。それは「知識が素人の域を超えてる」という理由で聞いているのだろうと思います。
同じ質問であっても、韓国人の「専門家なの?」は違います。もしこれに対して「私は専門家ではない」と答えれば、韓国人は「専門家でない者がべらべらしゃべらないでね」と言います。
これは穿った見方をするならば、韓国では権威を背景に持っていない者は、語ることを認められないということでもあります。
日本人は割とその辺が鷹揚で、語る者が専門家や著名人であるか否かよりも、開陳された知識や理論に説得力があるか否かを、まず問います。もちろん、その知識や理論の発表の場にもよりますが、それが雑談の延長線上にある議論程度であれば、無名であろうと在野であろうと、専門的な知識や理論を持つ者が意見を述べることを、その背景の無さだけを理由に問答無用でシャットアウトすることはありません。これはインターネット普及以前からの、知識や議論に対する、日本の伝統的な傾向ではないかと思います。
逆に韓国では、どんなに有意義な意見や理論を持つ者であっても、その背景に誰もが認める権威を持っていなければ誰も聞く耳を持たず、逆にどんなにぶっ飛んだ意見や理論であっても、誰もが認める権威を背景にしていれば、鵜呑みにする者が少なくないのでしょう
これは一種の言論統制的機能を持っていると思います。事実、日韓チャットの韓国人は、日本人たちの議論を妨げ、止めさせるために、「専門家でないのにべらべらしゃべらないでね」と言います。おそらく韓国人同士でも、相手の言説を封じるための決まり文句として使われるのでしょう。
では韓国人は、雑談の延長線上における議論で「専門家でないのにべらべらしゃべらない」のでしょうか。もちろんそんなことはありません。むしろ彼らは鬱陶しいぐらいしゃべります。ただ、その「べらべらしゃべる」内容に、根拠も資料もないことが多いだけなのです。
そういう韓国人と接した日本人は、ついつい日本人同士の議論の時と同様に、彼らに根拠や資料を求めますが、そうしたところで、長文の外国語資料を放り投げるように提示したり(もちろん、その膨大な外国語資料のどの箇所が、論者の根拠や資料に該当するのかの説明はありません)、恣意的に資料の解釈を枉げて用いたり、甚だしくは改竄や捏造した資料やデータを提示したりするだけということが少なくないことは、以前にも述べたことがあるかと思います。
それよりも、韓国人に対しては「あなたは専門家か」と問う方が効果的なのですが、ネット上ならばばれないと思って専門家を詐称したり、あるいは自分の主張は「専門家」の意見と同じであると言って、反論を封じようとすることは少なくありません。
例えば、「ハングルは世界的な言語学者が、世界で最も科学的で合理的で優秀な文字だと認めた」と彼らは主張します。この場合「世界的な言語学者」がいったいどこの誰なのかさえはっきりしませんが、「世界的な言語学者」が認めたと言えば、専門家ではない者は、反論する余地がないと彼らは考えているのです。
これは韓国と言うか、朝鮮の伝統的な「議論」に対する伝統と言えるでしょう。この伝統のために、彼らは数え切れないほど民を損ない、幾度となく国を滅ぼしてきました。そして現在、切迫する経済危機に対しても、韓国は同様の態度を取っているようです。
「裸の王様」という有名な童話がありますが、もしその舞台が韓国であれば、子供が「王様は裸だ!」と叫んでも、きっと誰もこれに耳を貸さないだろうと思います。
馬鹿は自ら馬鹿であることを喧伝する
お知らせくださった皆様、ありがとうございました<(_"_)>
ところで、先日から、ご自身のブログよりも弊ブログのコメント欄に書き込むことに一所懸命な御仁がいらっしゃいますが、この御仁、「月見櫓」という単語が辞書に載ってないと鬼の首を取ったように仰っておられます。でも「月見」と「櫓」で辞書を引けば、それぞれ載ってると思いますよ?
「名無櫓」も同様ですが、幾つかの単語をくっつけて、ひとつの単語を作ることは、別に日本語に限らず割と何処の国でもどの言語でも普通に行われております。そうして作られた単語(いわゆる複合語)が、そのまま辞書に載っていないことも、さほどに珍しくはありません。また辞書のサイズによっては、収録語数が増減することが当然にあり、大きな辞書なら載っているが、小さい辞書には載っていないということもあります。
そういう時は、その単語を適宜分割して調べ直してみるというやり方を、私は確か初めて辞書を使い始めた小学3年生か4年生ぐらいの頃に教わったと記憶しているのですが、某楼主氏は、さすが辞書など無用という主張の御仁なだけあって、辞書の使い方そのものさえご存知ないようです。
まあ、あれです。「言葉の意味などどうでも良い。意図が伝われば良いのだ」という主張の通り、氏が必死で費やす無意味な語群の底にわだかまる、氏の哀切な意図は読み取れなくもありません。つまり「ウリってすごいでしょ?えらいでしょ?かっこいいでしょ?さあ、褒めて褒めて褒めて!!」ですね、わかります。
しかし面白いなと思ったのは、
>ちなみに結論など出ていないのに自分と同じ意見が結論だと書いた管理人さんには
>☑ฺ 13:勝利宣言をする
>が当てはまりそうだ。
というご意見でした。
私は、「自分と同じ意見が結論だ」とも、私が勝ったとも、楼主氏が負けたとも、一言も書いておりませんし、そもそもこんなこと勝ち負けで論ずることだとも思っておりません。
氏が、「書いてある言葉の意味」を理解出来ないのは、氏の主義に基づくものであるからしようがないにしても、楼主氏の脳内で勝手に作り上げた「書かれてもいない言葉の意図」を、私に投影するのはやめていただけますか?w そういう無様な真似を、「朝鮮人のような真似」というのです。
さて以前、「馬鹿取締法案」という記事を書いたことがあります。最近、本当にこの法案の成立が検討されないものかと、時々思います。
馬鹿は、何故か自分が馬鹿であることを自ら喧伝します。黙っていればわからないのに、必死で自分が馬鹿であることを見せびらかします。
日韓チャットでは、そういう馬鹿を大変よく見かけます。数で言えば韓国人の方が圧倒的に多いのですが、少ない日本人参加者の中にも、たまに馬鹿を見かけることはあります。
私はそういう馬鹿を見ると、いつも「黙ってる方が賢く見えるよ。少なくとも馬鹿であることはバレずに済むよ」と親切に言ってやるのですが、不思議なことにそう言われると、馬鹿は如何に自分が馬鹿であるかを、いっそう強調し始めます。
もちろん馬鹿ですから、自分で自分のことを「馬鹿だ」とは言いません。しかし周囲で見ている者からすれば、馬鹿以外の何者にも見えない言動を、馬鹿は必死で繰り広げるのです。
これは、傍で見ている者にとっては、大変見苦しいものです。そんなものを見たいとも見せてくれとも言ってないばかりではなく、見せるなとはっきり言っているのにも関わらず、馬鹿はひたすら見苦しい言動を続けます。そういう馬鹿を見るたびに、「馬鹿取締法」があればなあと思わざるを得ません。
馬鹿取締法が実現したとして、馬鹿か否かをどうやって判断するのかという疑問を投げかける方もいらっしゃいますが、私はさほどに心配しておりません。何故なら、馬鹿はこちらが判断するまでもなく、馬鹿の方から自ら馬鹿であることを主張するからです。
「馬鹿取締法が実施されたら、自分が馬鹿とみなされてしまうかもしれない」なんて心配する方もいらっしゃるかもしれませんが、大丈夫です。馬鹿はそんなことを考えません。馬鹿には、自らが馬鹿であるという意識がありませんし、他人が教えてやっても理解できません。だからこそ馬鹿なのです。
ただ不思議なことに、馬鹿は馬鹿の自覚がない割に、自分が馬鹿と言われることについては非常に敏感です。馬鹿ですが、野生の勘のようなものを持っており、他人の揚げ足を取ったり、奸計を企てたりすることは、大変に好きです。また馬鹿はその瞬間その刹那の勝ち負けにこだわること非常に甚だしく、私がよく言う「王手飛車取りで飛車を逃がす」という真似を躊躇なくやることがあります。
馬鹿は、自分の利のためなら他人の利を損なうことを厭わぬばかりでなく、自分の利と無関係であっても、甚だしくは自分に多少の利が見込めても、他人が利を得ることを許せません。逆に他人が害を被れば、それが自分の利にならずとも、嬉しくてしかたありません。
昔の日本には、そんな馬鹿を問答無用で叱る大人もいたのですが、最近では馬鹿が「ジンケン」という呪文を覚えたので、それもなかなかままなりません。こういう馬鹿を放置すれば、やがては必ず犯罪へとステップアップする者が出てきます。と言うか、犯罪者の多く、特に累犯者は、馬鹿と認定しても差し支えないと、私は思っております。
馬鹿は、実はどの国どの社会にも必ず存在しており、かつての日本には特別少なく、現在の韓国には特別多いということはないと思います。と言うか、子供を躾けずに育てれば、多分ほとんどが馬鹿に育つと思います。要するに「馬鹿」とは、年齢に関わらず「躾けの入ってない子供」と考えれば、かなり近いものがあるのではないかと思います。
かつての日本は、そういう躾けの入ってない子供=馬鹿を是としない社会でした。しかし現在の日本は、「ジンケン」という呪文を唱えれば、躾けの入ってない子供=馬鹿が容認される社会になりつつあります。
日本がそんな社会になれば、隣にある国家ぐるみで馬鹿な国に侵食されるであろうことは想像に難くありません。
日本の社会では躾けの入ってない子供=馬鹿を許容しない、という不文律がゆるがせになりつつある今日、社会規範の保持だけではなく、安全保障上の観点からも、その不文律を明文化する必要があるのではないかと愚考する次第であります。
ちなみに私が考える「馬鹿取締法」で取り締まる対象は、現在日本の47都道府県全てに存在するという「迷惑防止条例」で取り締まられる対象が近いかなと思います。