一粒の砂として
しかし歴史を顧みれば、実は国どころか世界でさえも、ひとりの人間で変わる実例は、案外少なくありません。
もちろん、ほとんどの人は「国や世界を変え得るひとりの人間」ではないでしょうし、なろうと思えばなれるというものでもありません。しかし、そういう「国や世界を変え得るひとりの人間」を生み出すためには、有名無名を問わず、たくさんの人間の意見が必要です。
そもそも、「国や世界を変え得るひとりの人間」などというものにうじゃうじゃ出てこられて、「船頭多くして」状態になっても困ります。
どれほど高い建物であっても、地下にそれを支え得るだけの基礎を打ち込まないと、建てる事は出来ません。またどれほど高い建物を支え得る基礎を打ち込んでも、1階を作らねば2階は作れず、2階が出来なければ3階も出来ません。
100階、200階という建物の最上階を作るには、それを支える基礎と下の階が無ければならないのです。さらに、そういう高層建築を実際に運用するには、もっと細々とした目に見えない部分のシステムが、滞りなく連動していなければなりません。それがなければどれほどの豪壮な建築物も、ただの産業廃棄物の塊です。例えば北朝鮮の柳京ホテルなどは、その好例でしょう。
そういう意味で、100階、200階という高層建築の最上階を素晴らしいというならば、それを支える基礎や下の階、その高層建築を運用する目に見えないシステムなどの価値も、同じと言えば口幅ったいかもしれませんが、決して引けを取るものではないと思います。
誰もが「国や世界を変え得るひとりの人間」になることは出来ません。しかし「国や世界を変え得るひとりの人間」を生み出すための人間にならば、誰でもなることが出来るのです。そうなろうと思いさえすれば。
誰もが皆、力があるわけではありません。国とか世界とか、そんな途方もない話なんかより、自分の身の回りの人間関係だけで、人によっては自分自身のことだけで手一杯という人の方が普通でしょう。
それでも、「自分の周囲の環境が悪化すればよい」と願う人はいないでしょう。極端な話、「日本列島は日本人の所有物ではない」と言い切った某政党の某幹事長でさえ、「自分の周囲の環境が悪化すればよい」とは思っていないと思います。彼はああいうことによって、「自分の周囲の環境が良くなる」と信じているのでしょう。
誰もが一様に「自分の住む環境が良くなりますように」と願っています。その「自分にとって良い環境」というのが人によって違うだけなのです。
例えば「日本は日本であり、これからも日本であり続けること」が「日本にとって良い環境」と考える人もいれば、「日本が日本であること」自体を「悪い環境」と考える人も、この日本には結構いるのです。
日本が日本であり続けることが良いことなのか、それとも日本が日本でなくなることが、日本の進むべき道なのか、これを決するのが「国や世界を変え得るひとりの人間」であったとしても、その「ひとりの人間」を生み出し動かすのは、名も無き多くの、私たちなのです。
しがない弊ブログではありますが、この日本にいつの日か「国や世界を変え得るひとりの人間」を生み出すために打つ基礎の一粒の砂にでもなれればと願って、こうしてぐだぐだと駄文を書き続けております。同時に、ひとりでも多くの人が意見を述べる場としても、弊ブログのコメント欄が活用されればと願っております。
電子の海に放たれた無数の意見が寄り集まり、色んな刺激を受けて進化し、互いに互いを取り込んで成長し、多くの人々の心に広がって、やがて完成されたものになって、「国や世界を変え得るひとりの人間」の心に宿ればと思います。
司馬史観と司馬朝鮮観について
いわゆる【司馬史観】というものの是非功罪は、しばしばさまざまなシーンで取り上げられることがあります。それだけ司馬遼太郎氏の作品が、日本人に愛されているということでもありましょう。
【司馬史観】が取り沙汰される背景には、氏の歴史小説では史実に忠実な部分が多く、また氏の筆名からも、中国の史記の著者である司馬遷を連想してしまうために、ややもすると氏を「歴史家」と誤認してしまうからだと思います。
しかし氏は、言うまでもなく「作家」であり、「小説家」です。氏の書いたものがどれほど史実に忠実であろうとも、その主眼は「史実を記すこと」ではありません。正しい史実を誤解を生じない表現で書くか、たとえ史実との齟齬が生じようとも、小説として読んだ時に楽しめる表現で書くかを天秤にかけた時、「小説家」である司馬遼太郎氏がどちらを重要としたかは、考えるまでもありません。
また「歴史家」でも「歴史学者」でもない氏にとって、それがたとえ史実に対する誤解を生じさせるものであったとしても、自分の作品において「自分が感じたとおりに表現したい」という欲求を抑える理由には、全くなりません。それが「作家」であり「小説家」というものではないかと思います。
歴史を歴史として見ようとする時、氏の著書に引かれた史料に直接当たるならばともかく、氏の主観を経た記述をそのまま史料とすることは出来ないし、やってはならないと思います。おそらくは、司馬遼太郎氏本人もそれを望んではいないでしょう。
どれほどノンフィクションが混ざっていようとも、フィクションとして書かれた作品はフィクションとして受け取るべきです。どうしても作中のノンフィクションの部分を抽出したいのであれば、それは作品の読解とはまた別の作業になります。
いわゆる【司馬史観】の是非功罪をここで全て論うのは、氏の作品を一点余さず読んだわけでもない私には、あまりにも荷が重過ぎますが、ただ、氏の朝鮮に関する認識や表現、述懐については、些かながら言上したいことはあります。
それは、氏がかなりの偏見を持って朝鮮を見ていたということです。その根源は、昭和初期の日本への憤怒、もっと突き詰めて言うならば、若かりし頃の氏を戦地へ送り込み、そこで死ねと自分に強要した【日本軍部】というものへの憤怒の裏返しと言っても良いでしょう。
その憤怒の余り、氏は朝鮮に対しては極めて同情的だったと思います。それは、共に【日本軍部】の暴力の被害者であったことについての共感と、氏自身が【日本軍部】の部品のひとつとして戦争に、ひいては朝鮮に対する加害に関与したことについての自責の念とがない交ぜになったためではないかと思います。
この複合感情は、あの時代の日本人には極めて共感を得やすい感情だったのではないでしょうか。当時日本人の多くは、戦争被害者でありながら同時に敗戦国の国民として、加害責任を感じることを強要されていたからです。
加えて、司馬遼太郎氏の朝鮮観は極めて散漫で断片的な知識に基づいています。それについては氏自身、「街道をゆく」シリーズの耽羅紀行
「両班」 これこそ朝鮮を知るための手がかりの一つだといわれてきたが、私は本気で関心をもったことがない。 「ボクは両班の子なんだ」 ということばを、こどものころから何度もきいた。 わりあい数が多かったから、朝鮮人はみな両班だと思うことにした。そういうように、概念や実態を朦朧とさせておくほうが、かえって正確なのではないか。 |
氏にとって朝鮮は、興味の対象ではなかったのでしょう。仮に興味を持ったとしても、朝鮮自体には資料も史料も、絶望的なほどにありません。日本や中国にある朝鮮の資料や史料に当たるとしても、それらを素直に且つ詳細に読めばどうなるかは、言うまでもありません。
ならば曖昧に、たとえて言うならばモザイクのかかった画像を目を細めて見たり、近視の人なら眼鏡を外して見れば、鮮明に見える「ような気がする」ということを、氏は朝鮮に対して行なっていたのではないかと思います。
氏は、日韓併合について「そろばんに合わぬことをした」「日本は損をした上に朝鮮人の怨みまで買った。ばかげたことをしたものだ」というような言い回しを用いて批判しておられるのを、幾度か見聞きしたことがあります。これは当時の日本人の日韓併合に対する視点としては、かなり珍しいものであったのではないかと思いますが、おそらく氏が日本の明治期の史料を読み解くうちに気づいたことだと思います。
もっとも、NHKか何かで放送された氏のこの手の発言を聞いた在日朝鮮人が、「朝鮮を馬鹿にしている」という意味のことを怒りを込めて書いていたのを読んだ記憶があります(確か金両基ではなかったかと思うのですが、記憶が曖昧で確信はありません)。
この程度のことを言っただけでも、朝鮮人の不興を買うとなれば、興味も関心もない上に、作品の素材とすることも出来ない朝鮮については、氏は当たり障りの無さそうなことか、少なくとも朝鮮人の機嫌を損なわぬようなことだけしか言わぬように気を配っていたと思われます。
このことは確か、日本人である司馬遼太郎氏と、在日中国人の陳舜臣氏、在日朝鮮人の金達寿氏らとの鼎談に先立ち、司馬氏が「朝鮮」という語を使う理由を縷々述べ、使用の了承を求めていた点からも間違いないと思います。
司馬史観と、氏の作中に表れる朝鮮観の共通点は、どちらも「資料や史料に忠実な部分もあるが、齟齬や虚構に基づく創作も多分に含まれており、且つ執筆に当たって最も重視されていたのは、作者自身の表現欲と、読者の「受け」である」という点だと思います。
ただし、氏がそういう姿勢で書いた物が、「韓国起源説」や「朝鮮文化大国説」のブースター的役割を果たし、今もなおその後遺症を残しているという一点については、氏の迂闊さを責めたいと思います。
憧れの素晴らしき韓国
もちろん、韓国人が言う時には「文禄・慶長の役」ではなく「壬辰倭乱」となるわけですが、この際に彼らがしばしばこの戦役を「陶磁器戦争」と言うのが、私には大変気になりました。
「陶磁器戦争とは何か?」と彼らに問うと、「日本は朝鮮の陶磁器が欲しくて朝鮮を攻めたのだから、壬辰倭乱のことを、日本人はそう言ってるのではないのか」という答えが返ってきました。
日本史や朝鮮について、今ほど知識の無かった当時でも、文禄・慶長の役については、本来は明を狙った戦争だとか「朝鮮征伐」と呼ばれていたということは記憶にありました。しかしそれを「陶磁器戦争」と言ったというのは初耳でした。
それは単に私が知らなかっただけで、陶磁器関連に詳しい方ならば、そういう言い回しもさほどに特異ではないのかもしれません。しかし学校の授業で、「文禄・慶長の役」の別名を「陶磁器戦争」と言うと教わった記憶は、全くありません。
前述の「故郷忘じがたく候
これは想像だが、島津勢はこの全羅道の文化の一中心である南原城を攻撃するにあたって、最初から、特別な意図を持っていたようにおもわれる。陶磁の工人を捕獲することであった。この奇抜な着想は島津の独創によるものか、それとも他の九州の大名がそれをやったのをまねたのか、とにかく城内に突入しつつ工人をさがすことに意を用いたに相違ない。 当時、日本の貴族、武将、富商のあいだで茶道が隆盛している。茶器はとくに渡来物が珍重され、たとえば韓人が日常の飯盛茶碗にしている程度のものが日本に入り、利休などの茶頭の折り紙がつくことによって千金の価をよび、この国にきた南蛮人たちまでが、「ちょうどヨーロッパにおける宝石のような扱いをうけている」と驚嘆するまでになっている。ときに茶器は武功の恩賞としてあたえられた。一国に相当する茶器まであらわれた。 島津勢は、そういう時代の流行のなかで朝鮮に討ち入っている。宝の山に入ったような思いであったであろう。しかもこの宝というのは素材(もと)はといえば土と火であるにすぎず、土と火からそれを生まれしめる工人こそいわば錬金術師であった。 (中略)粗笨なやきものにかけては薩摩は古墳時代からすこしの進歩もなく、あの華麗な釉薬(うわぐすり)をかけて強度の火力で化学変化をおこさしめ玉(ぎょく)に似た膚質(はだしつ)をつくるという製陶にかけては未開人も同様であった。 |
司馬遼太郎氏と言えば、昭和の日本を代表する国民的歴史小説の大家であり、私もファンの一人です。氏の作品は、膨大な資料から得た史実を骨格として、実際に現地に赴いて感じた空気や、登場人物ゆかりの人たちとのふれあいから得た着想を、氏の豊かな想像力で練り上げて骨格に肉付けし、それを生き生きと動かしてみせ、まるで当時その場で見ていたかのように、場合によってはまるで氏自身が登場人物その人であったかのように表現するのが特徴です。
上述の文章も、最初に「これは想像だが」と断ってはいますが、氏の作風の特徴が尽くされております。
問題はこの文章が一人歩きしているのではないかと思われる点です。あるいは逆に、氏がこれを書くにあたって読んだ資料や聞いた話などに、このような話が入っていたのかもしれません。
鶏が先か卵が先かはわかりませんが、いずれにしても日本の文化人と呼ばれる人と朝鮮人の間で、上述のような認識が存在したのは事実でしょう。
この認識は、日本人にとっては「ああ、そういうこともあったかもね」程度のものです。当時の日本で、朝鮮のやきものが珍重されたのは事実ですし、文禄・慶長の役で朝鮮の陶工を日本へ連れ帰ったのも、また事実だからです。
こういった日本人の認識は、現在の韓国人の優越感を絶妙にくすぐるものだったのでしょう。即ち、「文化の遅れたチョッパリは、ウリが日常雑器として使ってた茶碗を、ありがたがって宝物のように扱っていたニダ♪ホルホルホル」というものです。
これがやがて煮詰まると、「チョッパリはウリの陶磁器が羨ましくて、その技術が欲しくて、だからウリナラを攻めたニダ」となります。事実、私が日韓チャットを始めた頃に「日本では、壬辰倭乱を陶磁器戦争と言っている」と言っていた韓国人たちは、皆そう認識していたのです。
先日、日韓チャットで韓国人と話をしていた時に、「韓国人は、今も日本人が、韓国に対して領土的野欲を持っていると信じているのではないか?」と聞いてみました。
韓国人は「そうですね、そう疑っている韓国人は多いと思います」と答えたので、私は「現在の日本人は、韓国に領土的野欲なんて欠片も持ってないよ。何ならためしに、誰でも良いから日本人に「日本人は韓国を再び奪おうと思っているのではないか」と聞いてみろ。聞かれた日本人は、思想の左右を問わず、焼け火箸でも押し付けられたかのような勢いで否定するだろうよ」と答えたのですが、その時思ったことがありました。
「日本人は誰一人韓国併合を今後二度と断じて望まないと言えば、韓国人は安心するよりも、不満に思う方が強いのではないだろうか?」
韓国のメディアは、しばしば「ウリナラ芸能人何某に日本列島が熱狂した」とか「日本が注目する韓国のホニャララ」などという報道をしますし、今でこそ日本の嫌韓の存在も韓国人に知られるようになりましたが、ほんの数年前には、日本人が「韓国(人)なんか大嫌いだ」と言えば、韓国人の驚愕と狼狽は甚だしいものがありました。
韓国人は、「韓国は素晴らしい国であり、韓国人は素晴らしい人々(であるべき)」という意識を濃厚に持っています。それは彼らの教育や国家ブランド戦略の方針などにも如実に表れています。日本人やその他の外国人が、ほんのわずかでも社交辞令であっても、彼らのそういった意識を肯定するような言動を取れば、彼らの優越意識は更に高揚されます。それが多少なりとも権威を持つ人の言動であれば、彼らの優越意識は確信に変わるでしょう。前述の「陶磁器戦争」などは、その好例だと思います。
更にかつて日本が朝鮮を併合したという事実は、彼らにとって「チョッパリは素晴らしいウリナラが欲しくてしかたないニダ」ということを確信させる材料になっているのかもしれません。つまり「チョッパリが憧れる素晴らしきウリナラ」であるからこそ、日本は朝鮮を(彼らの意識上では強制的に)併合したのだと理解し、それによって彼らの燃えたぎるような愛国心が満たされるのでしょう。彼らの愛国心を維持するために「彼らが考える日本」は、今現在も、「素晴らしき韓国」に憧れる余りに、韓国に対する領土的野欲を持っていなければならないのです。
逆を返せば、韓国が「チョッパリが憧れる素晴らしきウリナラ」でなければ、彼らの愛国心は維持出来ないということになってしまうわけで、実際のところ、口で言うほど韓国を愛していない韓国人が多いのも、むべなるかなと思います。
日本人として自信を持つということ
原因はわかりませんが、もしかするとご利用のブラウザがIE6.0の後方互換モードだからではないでしょうか。この辺の専門的な理屈や事情は、当方のスキルではよくわかりませんが、とりあえずの対策といたしまして、ブログのテンプレートからxtml宣言を外してみました(IE6.0の後方互換モードでは、xtml宣言をするとバグが発生するそうです)。
申し訳ございませんが弊ブログといたしましては、ブログのテンプレートを以前のものに戻すことは致しかねますので、現在出来る対応はこれが精一杯です。あしからずご理解ください。
さて、前回の記事に「(朝鮮は)これはもうストーカーじゃなく乗っ取りですね」というコメントがありましたが、まさにそれが彼らの狙いだと、私は思っています。
古くは日東壮遊歌における「惜しんで余りあることは、この豊かな金城湯池が、倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである、この犬にも等しい輩(【犬にも等しい】の部分は、原著では【犬の陰茎】だそうですw)を皆ことごとく掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳をもって礼節の国にしたいものだ」という文言から、新しくは在日朝鮮人による「日本人は日本から出て行きなさい」という投稿に至るまで、彼らは意識的か無意識的かはともかく、「倭可取而代也」と考えているようです。
しかし、朝鮮人がそう考えているだけならまだマシです。問題は、先日ニコニコ動画の生放送で、民主党の鳩山由紀夫幹事長が「日本列島は日本人だけの所有物ではない」と発言しておりますように(ニコニコ動画見れない方はこちら→you tube版)、日本人の中に、朝鮮人の「倭可取而代也」という思想を支援する者がいるということです。
日本では、小学校高学年から中学生ぐらいまでに「国家の三要素」について教わると思います。即ち【領域】【国民】【主権】です。
今回鳩山民主党幹事長は、日本国民の【主権】のひとつである参政権を、【国民】になろうとしない定住外国人にも渡すべきであると主張し、更に日本の【領域】である日本列島そのものを、「日本人の所有物ではない」と、さらっと断言してしまったわけです。これは「国家としての日本」を、根本から否定したも同然です。
こういう人は、自称地球市民にはさほど珍しくありません。しかし、その辺の一市民が世間話程度にこの手の電波を飛ばすだけであれば、「あの人頭おかしい」程度で済ませても良いのですが、鳩山由紀夫民主党幹事長はその辺の一市民ではありません。日本国民の代表として選出された日本の国会議員です。
その日本の国会議員が、韓国を引き合いに出して「参政権ぐらい定住外国人(皆様既にご存知の通り、日本の定住外国人の圧倒多数は朝鮮人です)に付与すべき」と発言し、「日本列島は、日本人の所有物ではない」と、平然且つ堂々と断言したのです。これは「あの人頭おかしい」では済まされません。
この事実は、朝鮮人の「日本乗っ取り計画」がもはや相当のレベルまで進んでいるということを示唆するとしか考えられません。
また、鳩山由紀夫民主党幹事長がニコニコ動画中で「日本人は自信を失っている」と述べておりましたが、これは確かにその通りだと思います。戦後60年間、「日本人は日本に自信を持ってはいけない」という教育を行なってきたのですから。
その為に日本人は、「アメリカが」とか「ドイツなら」とか「中国には」とか、今回のように「韓国では」などと他国を引き合いに出されると、その歴史的地理的文化的背景も考えずに、脊髄反射的に「日本は間違ってる」「日本はおかしい」「日本は悪い」と思うようになってしまったのでしょう。私自身、確かにそういう教育を受けてきたと思います。
日本には、日本としての歴史的地理的文化的背景があり、日本人はそれに基づいて考え判断し行動して、日本という国を形成してきました。そうして出来上がった日本を自ら卑下し、他国の人間が日本を乗っ取ろうとするのを助けることが、日本人としての自信の表れだなどという理屈は、まるで逆です。日本人としての自信があればこそ、「日本は日本人のための国である」と確信し、明言することが出来るのです。
「日本列島は日本人の所有物ではない」と言われて、素直に「そうだったのか」などと思う日本人がいれば、その日本人こそが、日本人としての自信を喪失していると私は断言します。この日本列島が日本人の所有物でないとすれば、いったい誰の所有物だと言うのでしょうか。あるいは日本列島は、世界の共有物なのでしょうか。笑えない冗談は、朝鮮半島だけにしてほしいと思います。
そんな考えは、日本人として自信を持つ者であれば断じて認めることの出来ないものですが、日本国民を代表する国会議員にまで、こういう発言をして憚らぬ者が出てきているということは、事態はかなり逼迫していると見て間違いありません。
我々日本人は一刻も早く、自信を持って「日本列島は日本人の所有物である」と声を上げ、日本を乗っ取ろうとする朝鮮人と、それを支援・助長する日本人を徹底的に糾弾していかなければ、間に合わなくなるかもしれません。現在の日本に在日特権などというものが暗黙的に存在するという点だけを見ても、既に日本はかなり酷く朝鮮人に侵食されているのです。
今後日本は、在日特権に代表される朝鮮人による日本侵食を食い止め、更に朝鮮人による日本侵食を許すのみならず、支援を行なおうとしたり、あるいは実際に支援を行なっている反日日本人(特に政治家)を厳しく監視・糾弾し、侵食された部分を是正し、日本が日本であるために、日本人が日本人として、自信を持って日本は日本人のものであると言える日本にしていかなければならないと、日本国民の一人として強く思った次第です。
韓国人が「朝鮮人」と呼ばれることを嫌う理由
日韓チャットでは、朝鮮人に対する「朝鮮」「朝鮮人」という言葉は侮蔑語ではないと、数え切れないほどの韓国人に説明してきましたが、それを理解出来た韓国人は片手の指の数で数えるほどしかおりません。
何故韓国人は「朝鮮」「朝鮮人」という言葉をあれほど忌み嫌うのでしょうか。
日韓チャットの韓国人に言わせると、「朝鮮」「朝鮮人」という言葉は、かつて日本が朝鮮を支配した時代を想起させられるからだと言います。また、その時代に日本人が「朝鮮人」という言葉を侮蔑語として使ったからだとも言います。
しかし日本による支配の時代は、彼らの歴史観から言えば、つらく悲しく苦しい時代ではあったとしても、それでも民族の誇りを失わず、日本に屈することなく抵抗し続けた時代とされているはずですし、当時の朝鮮半島で、日本人が朝鮮人に対して実際に用いた侮蔑語は「朝鮮人」ではありません。
仮にその時代に、朝鮮人が日本人から「朝鮮人」と侮蔑的に言われることがあったとしても、彼らにとってそれは民族意識を再認識し、一層奮起する材料になるだけであって、「侮蔑」と感じる理由には、本来ならないはずです。
ところで、「朝鮮人」という言葉が侮蔑語たり得る事例があります。それは日本人に対して「朝鮮人」と言う場合です(その他の外国人に対しても、「朝鮮人」と言えば侮蔑語になり得るようですがw)。
何故日本人に「朝鮮人」と言うのが侮蔑語になるのでしょうか。日本人が国の差を傘にw、無条件で朝鮮人を見下していたり、朝鮮人に対して人種差別的意識を持っているからでしょうか。
人によっては、そういう理由を持っている日本人も皆無ではないかもしれません。しかし、最も大きな理由は「日本人的美意識や道徳観から見た朝鮮人的な行動や思考は見苦しい」という点だと、私は確信しています。
立て膝も、卓上に置いたままの茶碗に直接口を寄せて食べる犬食いも、朝鮮語で多用される粘着音や痰が絡んだ時に出すような音も、容易に激昂して聞くに堪えぬ罵詈雑言を呼吸困難になるほど喚き散らす様子も、それでも飽き足らず他人はおろか自分の身体を傷つけることさえ躊躇わぬ激情も、過程を飛ばして結果だけを求めるあまりに卑怯で姑息な手段を厭わぬ性癖も、中身よりも外見を整えることを重視する点も、実際の能力を磨かずに能力があるように見せかけることばかりに躍起になることも、弱きを挫き強きに阿る性向も、日本人的美意識や道徳観では見苦しいことばかりです。
しかしそれらは、日本人が日本人的美意識や道徳観を当然のものと思うように、朝鮮人社会においては当然の行為であり、彼らが育んだ独自文化のはずです。ですから日本人に「朝鮮人」と言うのが侮蔑語になり得たとしても、それをそのまま朝鮮人に引き当てることは出来ません。
ですが現実問題として、韓国人に「朝鮮人」と言うと凄まじい勢いで激昂します。それは先日、新風の街頭演説者を襲った在日韓国人を見てもご理解いただけるでしょう。
ここで思うのは、「日本人に対して「朝鮮人」と言う場合は、「朝鮮人」という言葉は侮蔑語となる」という点です。例えば日帝統治期の朝鮮は、日本です。当時の朝鮮人は、即ち日本人だったわけですから、それに対する「朝鮮人」という言葉は、侮蔑語として成立し得るでしょう。
ところが、「日帝統治期に、日本人が「朝鮮人」という言葉を侮蔑語として用いていた」というのは、現在の韓国人によって捏造されたものです。つまり「朝鮮人」という言葉を侮蔑語と認識しているのは、当時の朝鮮人ではなく、現在の韓国人なのです。
現在の韓国人の多くは、韓国に対する愛国心を教育によって植えつけられております。また日本に対する否定的な意識は、遺伝子レベルで備わっているではないかと思うほどです。
しかし同時に、韓国で「日本」の二文字を目にしない日はないほど、彼らは日本を強く意識しております。「日本に出来たことならウリにも出来るはず」という意識から来る「日本に学べ」という意識を、多くの韓国人が持っていることは有名です。
更に韓国人がいくら日本の文化を馬鹿にしたり否定したりしてみても、日本や日本の文化を認め高く評価する国や人が多いのは、厳然たる事実です。それは韓国人にすれば、「日本が出来たならウリにも出来る」という意識から来るもうひとつの意識、即ち「本来なら日本が得ている評価はウリが得るはずだったものなのに」という意識によって「日本人はずるい」という理屈を成立させ、「ずるい日本人なんかより、日本人が得ている評価に相応しいのはウリニダ」という理屈に到達します。
つまり彼らは、「ウリは日本人より、日本人が得ている評価に相応しい」と考える余り、「即ちウリこそが日本人と呼ばれるに相応しい」という意識を、無意識的に持っているのではないでしょうか。
そう考えれば、韓国人が「朝鮮人」と呼ばれることにあれほどまでに激昂する理由はわかりますし、彼らがあれほど竹島や対馬に執着したり、嫌いなはずの日本に来たがる理由も説明が付くように思います。
ちなみに北朝鮮人は国名に「朝鮮」が入っているために、「朝鮮」という単語に韓国人ほどの抵抗がないようですが、それでも日本語で「チョウセン」と呼ばれることは侮蔑と感じ、国名を省略せず読めと言ったり、朝鮮語の「チョソン」を使えと言う北朝鮮人もいるようです。
Easy burning
しかし何度も同じネタを蒸し返し続けて、こちらが飽きてギブアップすれば勝ちと思ってるのが朝鮮人ですから、飽きたと言っても連中が繰り返す限り、こちらも倦まず弛まずぶん殴ってやらなけらばなりません。ホント面倒くさいったらありゃしねえ。
もっとも最近の日韓チャットでは、韓国人がソメイヨシノの起源云々を言う前にぶん殴ったり蹴り飛ばしたりするので、今年はまだ聞いてません。多分、このまま聞かずに桜の季節を終えられると思っていますw
さて今回は久々のチャットログです。珍しく私も登場します。
今回の日本人連中は普段よりかなり抑え目であるにも関わらず、韓国人は簡単確実即着火。これを有効活用することが出来れば、韓国の燃料費はずいぶん賄えると思うのですが。
韓 CHEMISTRY(K) 様が入場しました。
CHEMISTRY(K):こんにちは
CHEMISTRY(K):嬉しいです
(筆者註:【嬉しいです】=【バンガプスムニダ】で、日本語では【お会い出来て光栄です】、英語では【Nice to meet you】の意)
SmileMan(K):こんにちは
CHEMISTRY(K):私は蔚山居住下車
(筆者註:ハングルの入力ミスに起因する誤訳。こいつ、ハングルの入力ミスが非常に多かったです)
CHEMISTRY(K):私は蔚山居住して
CHEMISTRY(K):来年に東京に居住しに行きます
SmileMan(K):それで?
CHEMISTRY(K):全部日本人多くてきまり悪いですね
CHEMISTRY(K):そうなんです^^
CHEMISTRY(K):紹介するんです
SmileMan(K):そうですか-
摩天楼(J):ゴンニチと
(筆者註:【ゴンニチと】と日本語で入力すると、ハングルに翻訳された時に【コンニチワ】になります)
CHEMISTRY(K):はい
CHEMISTRY(K):こんにちは
loaded(J):何しに来るんだかねぇ
摩天楼(J):東京ですか。何しに東京へ?
CHEMISTRY(K):嬉しいです
CHEMISTRY(K):社会福祉士しに行きます
loaded(J):朝鮮人が介護の仕事するのか
CHEMISTRY(K):結婚もする目的も引き継ぎます
摩天楼(J):ボランティア?
CHEMISTRY(K):いいえ、職業で
摩天楼(J):介護士?
loaded(J):朝鮮で取った資格で仕事できるのかねぇ?
摩天楼(J):日本では免許必要なんでしょ?
CHEMISTRY(K):朝鮮人が仕事しに来てはいけないですか
CHEMISTRY(K):無視しますか
CHEMISTRY(K):当然分かっていました
CHEMISTRY(K):ガールフレンドが日本人なので分からなくて行くことアニムニだ
loaded(J):朝鮮の資格で仕事できるかどうか、疑問がある
CHEMISTRY(K):分からなくて行くことではないです
(筆者註:直前の自分の発言を修正しています)
SmileMan(K):何の仕事ができますか?
摩天楼(J):日本での資格はあるの?介護の仕事をやる資格
CHEMISTRY(K):はい、何の仕事でもできます
CHEMISTRY(K):ところでスマイル様、ゾムマドル私にパンマル使って礼儀がちょっと無いですね
(筆者註:【ゾムマドル】はおそらく【チョンマル】=【本当に】の誤入力。【パンマル】はご存知【半言葉】=【ぞんざい語】で、目下の相手に使う言葉遣い)
fetia(J):社会福祉士と、介護福祉士はちがうのではないか?
Guicho(J):社会福祉士と介護福祉士は別モノにございます。
loaded(J):違いますよ
CHEMISTRY(K):老人福祉にいきます
SmileMan(K):いや, ただ問って見ること思うが.>CHEMISTRY
CHEMISTRY(K):そうですか
CHEMISTRY(K):自尊人を傷つけられるからです
Guicho(J):社会福祉主事もまた違う。
CHEMISTRY(K):できるか疑問だと言うから
loaded(J):社会福祉士にしろ、介護福祉士にしろ、国家資格なんだけどね。
CHEMISTRY(K):することができるから行くのですよ
摩天楼(J):社会福祉の仕事って例えば何?
loaded(J):朝鮮で取った資格で仕事ができるとは思えん。
CHEMISTRY(K):分からなければじっといてください
(筆者註:満足な説明を一切していないのに、相手の理解力に問題があるかのようにいうのは、典型的な朝鮮話法です)
SmileMan(K):最近在日問題があるから. 朝鮮人は信用することができない,と言う風潮です>CHEMISTRY
SmileMan(K):最近ではないね(修正)
fetia(J):在日だけではない。来日朝鮮人に対する信用も、日本では極めて低い。
CHEMISTRY(K):あなたに詳らかに言いたくないから尋ねないで下さい
loaded(J):「わからない」のではなく、「仕事できないだろ」と言っているのだ。
CHEMISTRY(K):そのように思ってください
(筆者註:これも朝鮮人の典型的な話法です)
junchan(J):在日が信用できないとか、そういう問題じゃない
CHEMISTRY(K):私は日本人といっても悪く思わないからです
loaded(J):なぜ、「朝鮮の資格も通用する」と言わないのだ?w
SmileMan(K):具体的に何の事をしますか?>CHEMISTRY
CHEMISTRY(K):パンマル使うな
loaded(J):お前が知らないから答えられないんだろ、この馬鹿野郎 w
CHEMISTRY(K):子犬野郎
fetia(J):丁寧だよな、今のSmileの発言はw
(筆者註:私は「パンマル使うな」という発言がSmileManに対してのものだと思ったのですが、loadedに対してのものかもしれませんね)
CHEMISTRY(K):死にたいか
CHEMISTRY(K):どこで
CHEMISTRY(K):分からないのに
loaded(J):試してみるか?w
摩天楼(J):なあ、本当は 社会福祉の仕事をこれから探すつもり なだけだろ?
CHEMISTRY(K):勝手に思ってろ
fetia(J):廃棄で良いでしょ。バカは構う値打ちも無い。
(筆者註:火病ったのを見てウンザリしています)
CHEMISTRY(K):お前が私に飯を食わせてくれるのか
loaded(J):朝鮮人をぶん殴るのは得意だぞ。試してみるか?w
摩天楼(J):で、国家資格が必要なことを 今知ったとか?
SmileMan(K):いや, 怒らずに, 話してください>CHEMISTRY
摩天楼(J):そのレベルじゃねえの?ww
loaded(J):知らなかったんだろう w
CHEMISTRY(K):やいガキども、来てみやがれ
Guicho(J):いずれも数年の実務経験を必要とするw
loaded(J):そもそも、朝鮮の資格すら持ってないのでは?
CHEMISTRY(K):ロデド
junchan(J):福祉の仕事で、国家資格なしにできることはあるんじゃないかな?
摩天楼(J):おまえには VISAと 日本の国家資格の両方が必要だぞw
CHEMISTRY(K):黙れ
CHEMISTRY(K):会ってバカみたいだ
SmileMan(K):ウワー- こんな人が社会福祉できるか?
fetia(J):【日本の介護職は人手不足だから、就職しやすいよ♪】とか言われたんじゃね?
CHEMISTRY(K):あなたまでそうですね
loaded(J):補助職みたいなもんじゃないの?>資格無しでできる仕事
junchan(J):何、怒り出してるんだ?
CHEMISTRY(K):韓国人ではないのですか
摩天楼(J):福祉といっても たぶんいろいろだろうけど
Guicho(J):資格なしでも可能は可能ですね。
CHEMISTRY(K):人にあのように好き勝手言って気持ち良い人がどこにあります
fetia(J):つっか、専門家だよねえw
(筆者註:実は日本人側、福祉関係に詳しい方が多いですw)
Guicho(J):うむw
loaded(J):この朝鮮人は痴呆の老人に悪態つかれたら、老人を殴り倒しそうだな w
CHEMISTRY(K):fetia、病身のように遊ぶな
junchan(J):補助職でも2年とかの現場経験すると、資格試験が受けられるんじゃないっけね
loaded(J):受験資格を得られるというだけ。
CHEMISTRY(K):朝鮮人なのになぜ
摩天楼(J):ただ、社会福祉って言っても言葉の意味も広いから
CHEMISTRY(K):お前、行けば殺してやる
fetia(J):うんざり。
SmileMan(K):日本へ行けば社会も環境も違って大変だろうなのにこういう話で怒っていればどんなに生きて行くことができるか疑問です>CHEMISTRY
CHEMISTRY(K):ところで
loaded(J):頭の悪い朝鮮人が試験にパスするとは思えん。問題は日本語だし。
CHEMISTRY(K):それではあの人たちが
摩天楼(J):彼女がいるから 平気ってか?ww
junchan(J):受験資格もらえたら、資格試験受ければいいじゃないか
gorubii(J):いや実は韓国では無資格でも出来るのだよw
gorubii(J):知人の韓国人も免許無いけど看護婦してたよw
fetia(J):看護助手でしょ?
gorubii(J):いや、「普通に看護婦として働いてた」w これがポイントw
CHEMISTRY(K):人にこれでもなります
CHEMISTRY(K):多分チャットであるが
摩天楼(J):おまえの自尊心もボロボロになるぞきっとw
CHEMISTRY(K):これはないよ
CHEMISTRY(K):私も悪口を言いたくないですが
fetia(J):違法じゃん。
gorubii(J):違法が基本じゃん?w
junchan(J):因みに、福祉の現場の仕事は、儲かる仕事ではないよ
CHEMISTRY(K):見えないところで言う人は嫌いです
CHEMISTRY(K):堂堂と男らしく
CHEMISTRY(K):軍隊も行かない病身子たちが
CHEMISTRY(K):うるさい
fetia(J):って言うか廃棄でいいっしょ。うぜえよ、これ。
(筆者註:多分、私が一番こういう韓国人に対する堪え性がありませんw)
摩天楼(J):彼女を頼って日本にくるやつが、男らしくってかw
CHEMISTRY(K):やい、ズケジマラ
(筆者註:多分何か罵ってるんだと思いますが、誤入力なのか翻訳不能です)
junchan(J):駆除
韓 CHEMISTRY(K) 様が部屋から出ました。. (筆者註:蹴り飛ばしました)
摩天楼(J):軍隊行ったら男らしいじゃとんだ右翼だよねwwww
SmileMan(K):あら
fetia(J):バカ相手にする根気なんか持ち合わせてねえ。
junchan(J):みんな軍隊行ったら怖いだろうにw
摩天楼(J):そんなこと言ってさ、実は全然軍隊なんて行きたくないのが本音なことを知ってるのにw
loaded(J):資格が必要だって知らなかったのかな?
loaded(J):朝鮮人は外国ナメすぎだよな。
fetia(J):実際に、ナメても通用する国があるからな。
loaded(J):能無しのバカがポコっと行ってそんな簡単に生活できるわけないじゃんね。
fetia(J):「サベツ」と「ジンケン」っていう呪文を唱えたら、簡単に生活できる国があるんだよ。
韓 HERO(K) 様が入場しました。
SmileMan(K):できる. ない, 前の問題もあったが.
fetia(J):これだよ
(筆者註:【これ】=【今入ってきた韓国人 HERO(K)】 IDで判別しています)
loaded(J):おお、これだな w
gorubii(J):というか朝鮮人で火病になるのにもううんざり
fetia(J):ハンドルネームを変えたら騙せると思ってる辺り、朝鮮人らしさ全開ですね。
loaded(J):火病癖のある奴が福祉職なんか勤まるわけないだろ。
fetia(J):だなあ。
摩天楼(J):火病が戻ってきたのかw
loaded(J):日本の福祉をナメてんのか、この馬鹿朝鮮人
HERO(K):病身ガキども、口に気をつけろ、直接会えば逃げだすくせに
(筆者註:この手の台詞は、概ね自己投影と思って間違いありません)
loaded(J):老人に手を上げて一発でクビだな。w
韓 HERO(K) 様が部屋から出ました。.(筆者註:再び蹴り出されました)
ログ採取日 2009年4月13日午前零時頃
朝鮮についての知識が必要な理由
そんな気の遠くなるような、訪れるかどうかもわからない未来に期待して、二度と戻らぬ時間を費やすぐらいであれば、日本人の方が変わる方が間違いなく確実に早く問題を解決することが出来るであろうことは、義務教育修了程度の教養がある人ならば、誰にでも理解出来るでしょう。
ところが、義務教育修了より高度な教養を持っていながら、朝鮮人の与太や寝言、難癖に素直に振り回される日本人は、相当数実在します。またそういう日本人は、朝鮮人の吐き散らかす与太や寝言、難癖を受け入れ、あるいは補強し、再び拡散することが珍しくありません。そうして日本人のお墨付きを得ることで、朝鮮人が再び日本人に向かってさらなる与太や寝言、難癖を吐き散らかすという悪循環が、日本と朝鮮半島の間の問題を更にややこしくしております。
この「朝鮮人の与太や寝言、難癖に素直に振り回される日本人」=「いわゆる良心的日本人」と朝鮮人とは、一種の共依存と言って良い関係だと思います。
茨城大学人文学部人文コミュニケーション学科加藤篤志准教授によれば、【共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひいては他者自身を)コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである】となっております。
「いわゆる良心的日本人」と朝鮮人の関係は、この構図によく符合すると思います。しかしここで話がややこしくなってくるのは、朝鮮人が望む共依存の対象は「いわゆる良心的日本人」を含む日本人全般なのですが、「いわゆる良心的日本人」が共依存によってコントロールしたいと思っている【他者】は朝鮮人そのものではなく、朝鮮人と同じく「日本人全般」であったりするためではないかと思います。
「いわゆる良心的日本人」が、朝鮮人と共依存に陥り、互いに互いの心身を損なう関係を構築するだけであるならば、ある意味相思相愛というものです。互いの心身に取り戻せない傷を負うことになろうとも、心行くまで損ない合っていれば良いと思います。私には理解出来ませんが、それもひとつの愛の形なのでしょう。
しかし「いわゆる良心的日本人」が共依存によって本当にコントロールしたい対象は、共依存関係にある朝鮮人ではなく、日本人全般であるために、これを放置して心身を損なわれるのは、相思相愛の彼らだけではありません。それどころか、おそらく最も真っ先に狙われ損なわれるのは、日本人の中でも最大多数派であるだろう「朝鮮に無関心で、朝鮮のことはよく知らないし、特に知りたいとも思っていない日本人」でしょう。
朝鮮を多少なりとも知っている日本人としては、それが何とも歯痒く憤(いきどお)ろしいのです。
単に朝鮮人と対峙するだけならば、朝鮮を知っているか否かは、実はさほどに重要な要素ではありません。なぜなら日本人が朝鮮を知らなければ、朝鮮人は「朝鮮を知らない」ということを責めますが、もし日本人が朝鮮をよく知っていれば、「知っているが故に手放しで朝鮮を褒め称えない」ということを責めるからです。つまり「日本人が朝鮮を知っているか知らないか」は朝鮮人の関心事ではありません。「日本人が朝鮮を褒め称えるか否か」が朝鮮人の関心事なのです。
にもかかわらず、朝鮮人と多少なりとも関わる日本人は、朝鮮を知る必要があります。それは何故かと言うと、前述の「いわゆる良心的日本人」と朝鮮人の、屈折した共依存関係に巻き込まれないためです。
アメリカ軍の朝鮮人取り扱いマニュアルのように、「理由は聞くな。どうせ大したことは言っていない」という姿勢を日本人が貫くことが出来るのならば、朝鮮のことなど特に知る必要はありません。しかし日本人は、「大したこと」に聞こえるようなことが耳に入ってしまうと、思わず聞いてしまう人が多いのです。
朝鮮人は、既に論破されたり解決済みの問題を、幾度も幾度も蒸し返し繰り返します。多少なりとも朝鮮を知る日本人ならば、最初のワンフレーズで「ああ、あのネタか」とわかるようなことであっても、朝鮮を知らない日本人や朝鮮に関心の無い日本人にとってそれは、「初めて聞く大したこと」に思えてしまう場合が少なからずあります。
更に、単に同じネタを繰り返し出してくるだけならばまだ対処のしようもありますが、彼らはそれにさまざまなフェイクを噛まし、カスタマイズを施します。しかし芯の部分は同じなので、朝鮮に関する知識を元に、彼らの主張の中のキーワードをキャッチすることが出来れば、「ああ、あのネタにこんなフェイクを噛ませたのか」「あのネタをこういう風にカスタマイズしたのか」ということが、朝鮮を知る日本人には比較的容易に察知出来ます。ところが朝鮮を知らない日本人にとっては、それらが驚くべき新事実に聞こえてしまう場合があるのです。
そういう朝鮮人の手練手管に引っかかれば、「朝鮮を知らない日本人」は、容易に「いわゆる良心的日本人」になります。
朝鮮人の手練手管に引っかかって自分ひとりが「いわゆる良心的日本人」になって心身を損なうことになったとしても、それは自業自得というものですが、更なる問題は「いわゆる良心的日本人」になった日本人が、「朝鮮を知らない日本人」を「いわゆる良心的日本人」にしてしまうことがあることです。
それは丁度、ゾンビに襲われた人が自身もゾンビになって別の人を襲い、襲った相手をゾンビにしてしまうのに似ているかもしれません。
ゾンビがゾンビ同士で食い合い殺しあうだけならば、人間としては関わりを持たぬようにさえしておれば良いことですが、ゾンビは生きている人を憎み襲います。
ゾンビになりたいと願う人は別として、そうでない人は、ゾンビに襲われぬためにはどうすれば良いか、もしゾンビに襲われた時はどのようにすれば良いかを知っておく必要があるのと同じで、「いわゆる良心的日本人」や朝鮮人によって、新たな「いわゆる良心的日本人」に仕立て上げられぬようにするために、日本人はある程度、朝鮮についての知識や情報は得ておく必要があるのではないかと、先日の在日の暴行動画を見ながら思った次第です。
在日特権の根源になっているもの
そう言えば、北朝鮮のミサイル発射問題に絡んで弊ブログのコメント欄に、「どこを縦読み?」なコメントが湧いております。せっかくなので全力で釣られて見せても良いのですが、既にコメンテーターの皆様で調理済みな感じですので、あえて本記事で釣られる必要もないかなと思います。
あのコメントに関してひとつだけ言うことがあるならば、それはあのコメントが、今回ミサイルの飛行方向に当たっていた東北地方からのものだったということです。
北朝鮮のミサイル発射に関して、日本で最も被害の可能性が高いと予想されていたはずのエリアからの、日本批判・北朝鮮擁護のコメントというのは、いったい何を示唆するのだろうと考えさせられるものがありました。
さてそんなこんなで、本日取り上げようと思うのは、コメント欄でも情報提供のあった「維新政党・新風」の街頭演説者に挑発され、激昂した在日が、演説者に暴行を加えた件です。
その場面はビデオに録画され、you tubeで公開されているのですが、何故か盛んに削除されているようです。私が見たものは、これですが、これも果たしていつまで残っているかわかりません。
この動画を見て思ったのは、日本には在日特権というものが、確実に存在するということです。
逆に考えてみましょう。北朝鮮は国民による街頭演説そのものが存在しなさそうですが、例えば韓国の街頭で反日演説を行なっている韓国人に、在韓日本人が食って掛かったとしたら、いったいどうなるでしょうか。
おそらく無事では済みますまい。命があれば幸いでしょう。
ところが日本では、日本人に在日が襲い掛かっても、誰も襲った在日を袋叩きにしたりしません。それどころか、在日の方がそれを「当然で正当な行為」と確信している風情が、ありありと見受けられます。
この在日は見た感じ、10代後半から20代前半ぐらいでしょうか。この動画を見たとき連想したのは、あるテレビ番組で、在日の青年が自転車の二人乗りを警察官に咎められ、外国人登録証を持っていなかったことから逃げたら捕まったということを「今までで最高のイジメを受けた」と言ったシーンでした。
そのテレビ番組は、今から数年以上前のもので、その時点で過去の事件とされているのですから、今から数えれば結構前のものになると思いますが、それと同じように今回の在日も「日本人が在日を卑下したり罵ったりすることは言うまでもないが、日本人が在日の犯罪を咎めることさえも、許すべからざる差別行為であり、それを制裁することは在日の当然の権利である」と確信しています。実際に動画中でこの在日は警察官に向かって、「俺悪ない」と言っております。
「悪ない」も何も、暴行の現行犯であり、警察官に拘束されておりながらそれを振り切って再び暴行を行なおうとした時点で、公務執行妨害であるにも関わらずです。
また複数の警察官に取り囲まれながら、警察官をひとりひとり指差して、「日本人?日本人?日本人?」と聞き、「俺韓国人」と胸を張って、「(新風の演説者の)言うこと聞いてみ」と訴えています。
警察官が日本人であることと、この在日が犯罪を行なったこととは全く関係がありません。彼は何のためにそういうことを言ったのでしょうか。私には「韓国人の俺様が言うことなんだから、日本人のお前たちは俺様の言うことを素直に聞け」という仕草に見えてしかたありませんでした。
私たちが日韓チャットで韓国人を追い詰めると、「韓国人と同じレベルに堕ちている」と揶揄したり非難したり批判したりされるのと同じで、維新政党・新風の演説者の言動も手放しで褒められたものではないかもしれません。しかし、ここまでしなければ、あれだけ言わなければ、見えてこない何かが日本にはあるということの方を、私たち日本人はそろそろ自覚しなければならないのではないでしょうか。
在日特権と呼ばれるものはいくつもありますが、今回の動画で感じたことは「在日は、日本人よりも尊重されるべき存在である」という彼らの確信が全ての在日特権を要求させ、実現させようとする根源になっているのではないだろうかということでした。
「だろう運転」を推奨?
引き鉄に指をかけた状態でこちらに銃口を向けておいて、「これ空砲だから大丈夫!って、お前何身構えてんだよ!これは空砲だっつってんだろうが!何だその目は!その握り拳は!もし俺が引き鉄引いた時に、お前が俺に反撃しようとしたら、今度は本当に実弾込めて撃つぞ!」と言ってるようなものですね。
相手が引き鉄に指をかけたままこちらに銃口を向けた時点で、弾が入ってようがいまいが、速やかに相手を無力化するべきですし、その行為は当然に正当防衛が成立すると思うんです。
ですから北朝鮮が誰に対して何を言おうと、粛々とこちらに銃口を向けてる奴らの無力化のための態勢作りを行なえば良いだけですし、実際そういう態度こそが、北朝鮮が最も恐れているものであろうと思います。
ところが、日本人(かどうか定かでない人含む)の中には、【「ミサイル発射」に過剰反応 日本政府の対応は北の“思う壺”】などと言う人が、どこぞのバカ政党のバカ党首以外にも、実は結構いたりします。
「ミサイル発射」に過剰反応 日本政府の対応は北の“思う壺” NEW 04月03日(金) 18時00分 文:東 「人工衛星と称するミサイル発射」の実態は、“ミサイル性能向上のための人工衛星打ち上げ”のはず。 「ならず者国家」「瀬戸際外交」…独裁国家・北朝鮮を指弾する言葉は数多い。 それでも、今回のミサイル発射問題に関する日本政府やマスコミの報道は、北の喧伝、謀略に欺かれたというほかない。 日本では、北が国際民間航空機関(ICAO)と国際海事機関(IMO)に、「人工衛星」と称する長距離弾道ミサイルを4月4日から8日の午前11時から午後4時にかけて発射すると通告したことを受け、過剰ともいえる反応を示している。 政府は3月27日、ミサイルが日本の領土や領海に落下する場合、MD(ミサイル防衛)システムで迎撃することを決め、浜田靖一防衛相が自衛隊に「破壊措置命令」(自衛隊法第82条の2 弾道ミサイル等に対する破壊措置)を発令した。 迎撃命令は、莫大な費用を投じて配備したMDシステムの必要性を強調するばかりか、迎撃に成功すれば、低迷する麻生政権の延命にも寄与するはずだ。 政府は3月27日、ミサイルが日本の領土や領海に落下する場合、MD(ミサイル防衛)システムで迎撃することを決め、浜田靖一防衛相が自衛隊に「破壊措置命令」(自衛隊法第82条の2 弾道ミサイル等に対する破壊措置)を発令した。 迎撃命令は、莫大な費用を投じて配備したMDシステムの必要性を強調するばかりか、迎撃に成功すれば、低迷する麻生政権の延命にも寄与するはずだ。 しかし、軍事や北朝鮮問題に精通するジャーナリスト・惠谷治氏は「北が打ち上げるのは人工衛星以外に考えられない。ロケットの発射を傍受したり落下物を調べることは、性能を把握する絶好のチャンス。その機会を失ってしまうことになる迎撃の可能性はない」と話す。 ミサイルと人工衛星の違いは、先端に搭載されているものが「爆弾」か「人工衛星」かということ。北の保有する弾道ミサイルは、「スカッド」(射程 300~500キロ)、「ノドン」(同1,300キロ)、「テポドン」(同6,000キロ)の3種。それぞれの射程から標的となるのは「スカッド」が韓国(在韓米軍)、「ノドン」が日本(在日米軍)、「テポドン」が米・アラスカになる。「テポドン2号」は射程が長すぎるため、日本を狙うことはできない。 これまでにも北は「テポドン」の打ち上げに失敗しており、巷間報じられている「人工衛星の打ち上げを名目とした弾道ミサイル発射」の実態は、「技術的に未完成である弾道ミサイル(テポドン2号)の性能向上を目的とした人工衛星の打ち上げ」である可能性が濃厚。 にもかかわらず、海上自衛隊はイージス艦に搭載されるSM3(スタンダード・ミサイル3)の発射による大気圏外での迎撃、さらに地上からは航空自衛隊のPAC3(地対空誘導弾パトリオット・ミサイル3)を発射して迎撃を計画している。 北からすれば、政府のこうした措置は「日本がミサイル発射に恐れをなしている」と内外に喧伝できる好機にほかならない。万が一、人工衛星が迎撃された場合でも、国際社会に自国の正当性を主張できるばかりか、日本からさまざまな外交カードを引き出す材料になり得るものだ。 北の謀略は決して座視できないが、「テポドン2号」の脅威よりも、結果として北を利するかのように振舞っている日本政府の対応こそが、日本の安全保障を損ないかねない脅威である。 |
こちらに向けられているのが銃である限り、それが空砲か実弾入りかは問題ではありません。にも関わらず「相手が銃を向けてると言っても、それは空砲の可能性が極めて高い。それに反応して身構えたり反撃したりするのは過剰反応。過剰反応は相手の利益になる。相手に利する過剰反応はこちらの安全保障を損なう脅威」という訳のわからない論法に、膝から力が抜けていくのを覚えました。
これはまるで運転免許を持っている者なら、誰もが一度は聞いたことのある「だろう運転」と同様の、「楽観的な予測に基づいた行動」を推奨しているようなものです。
車両を運転する場合には、厳に戒められる「だろう運転」を、国家を運営する人々に向けて推奨するのは、その結果「危機回避が遅れて事故につながる」ことを、積極的に望んでいないとしても、「その結果そうなったとしてもしかたない」ということなのでしょうか。
たとえわずかな可能性であったとしても、国を、国民を危機に陥らせる可能性がある事柄に対して万全の姿勢で臨むという、極めて当然のことを批判あるいは非難する真意は何処から来ているのか、日本に「だろう運転」をさせることで得をするのは誰なのかを、どうしても勘繰ってしまう私でした。
勘違いイメージアップ戦略
以前、私も引っかかったことがありますが、週刊アカシックレコードというサイトが発信しているメールマガジンでは、4月1日は恒例の嘘ニュース配信デーになっております。
この週刊アカシックレコードは、普段から割と一般には知られていない裏情報的なネタを取り上げることが多いために、年に一度の嘘ニュースはかなりの威力を持っております。
更にそのネタが朝鮮絡みとなった日には、その破壊力は倍プッシュになります。何しろ普段から文明人的常識に照らして斜め上二回半ひねりみたいなことを日常的かつ平然とやってのけ、嘘が呼吸同然の連中です。
それが他の国なら「ありえねえ」「いくらエイプリルフールでも程々にしとけ」と一笑に付されるような内容であっても、北朝鮮や韓国絡みとなれば、多少なりとも朝鮮人を知ってる人ほど「ああ、あいつらならそういうこともありそうだ」と思ってしまうのです。
ネットの巷で放った発言は、電子の海を漂泊して、時に思わぬところに根を下ろし芽を吹くことがあります。たとえ「エイプリルフールのネタだ」と断っていても、そのネタの全文を正しく読まなければそれはわかりませんし、不思議と人は文章の中の「読みたい部分だけを読む」ものです。
と言うわけで、いくらエイプリルフールと言っても、朝鮮絡みのネタを扱う弊ブログで、下手に嘘情報を発信した日には、全然洒落にならないと思われますので、弊ブログではそういうお遊びには参加いたしません。もともと、嘘はあんまり上手くありませんしね…(´・ω・`)
更新日が4月1日じゃなかったら、華麗にスルーしてたのですが、今年は運悪く更新日と4月1日が重なってしまったので、長くなりましたがあらかじめお断りしておきます。
さて先日、李明博韓国大酋長がウォールストリートジャーナルに「経済危機の克服、韓国を参考に」と題する稿を寄せたという報道がありました。
これはおそらく、李明博大酋長が主導で提唱している「韓国のイメージアップ戦略」の一環ではないかと思います。
要するに、「ウリの高説を聞かせてやるから承れ」ということなわけですが、実は朝鮮人の間ではこの態度は結構通用するみたいです(実際、映画「漢半島」(【漢】の字はわざとです)において、そういうシーンを見たことがありますが、言われた方は「ウリは無知な労働者なので、先生の教えをどうぞ授けてください」的返答をしておりました)。
ただ国際標準はともかく、日本ではこういう態度はかなり危険です。下手にそういう態度を見せる者は、どんな高説を垂れても「そういう態度」だけで軽蔑の対象となりかねません。
案の定、某巨大匿名掲示板では、李明博の寄稿は「さすが恥知らず」の集中砲火を浴び倒しております。
ここで私が思うのは、何故彼らは尊敬される韓国とか、愛される韓国とか、こうも他者や他国より上位に立とう、優位に座ろうとするのだろうということです。
大統領直属委員会として李明博政権が作ったのが、国家ブランド委員会ですが、その委員会が提唱する「韓国のブランド向上10大推進課題」は次の通りです。
1.開発途上国と経済発展経験の共有
2.海外の学生との交流拡大
3.海外ボランティアの名称統一
4.在外同胞ネットワークの構築
5.ハングル普及拡大とテコンドーのブランド化
6.グローバル市民意識の養成
7.大韓民国のブランド発掘・広報
8.温かい多文化社会づくり
9.デジタル技術を活用した海外との疎通強化
10.国家ブランド指数の開発・活用
この10大推進課題をひとつひとつあげつらう前に私が思うのは、韓国が国家のイメージアップを図るためには、何も尊敬されたり愛されたりする必要はないのではないかということです。
単に、軽蔑されない韓国、嫌われない韓国を目指せば良いだけではないかと思うのですが、そんなことは彼らの念頭には微塵もなさそうです。
彼らは国家であれ個人であれ、常に必ず自分が上位であり優位であるべきだという発想しかありません。その発想は、裏返せば、他者や他国に対する卑下や侮蔑となります。ましてや、彼らは「対等」という概念を持たない朝鮮人なのです。
客観的に見てそのための材料が極めて少ないのに、一方的にウリを尊敬汁、ウリナラを愛すジマなどと言ってはばからず、そのくせ他者や他国を尊重も敬愛もしないという態度そのものが、彼らの国家イメージを貶めているということなど、彼らには想像もつかないのでしょう。
あるいは、彼らとしては「他者や他国を尊重したり敬愛したら負けかと思ってる」というのが、正解かもしれません。