一粒の砂として
しかし歴史を顧みれば、実は国どころか世界でさえも、ひとりの人間で変わる実例は、案外少なくありません。
もちろん、ほとんどの人は「国や世界を変え得るひとりの人間」ではないでしょうし、なろうと思えばなれるというものでもありません。しかし、そういう「国や世界を変え得るひとりの人間」を生み出すためには、有名無名を問わず、たくさんの人間の意見が必要です。
そもそも、「国や世界を変え得るひとりの人間」などというものにうじゃうじゃ出てこられて、「船頭多くして」状態になっても困ります。
どれほど高い建物であっても、地下にそれを支え得るだけの基礎を打ち込まないと、建てる事は出来ません。またどれほど高い建物を支え得る基礎を打ち込んでも、1階を作らねば2階は作れず、2階が出来なければ3階も出来ません。
100階、200階という建物の最上階を作るには、それを支える基礎と下の階が無ければならないのです。さらに、そういう高層建築を実際に運用するには、もっと細々とした目に見えない部分のシステムが、滞りなく連動していなければなりません。それがなければどれほどの豪壮な建築物も、ただの産業廃棄物の塊です。例えば北朝鮮の柳京ホテルなどは、その好例でしょう。
そういう意味で、100階、200階という高層建築の最上階を素晴らしいというならば、それを支える基礎や下の階、その高層建築を運用する目に見えないシステムなどの価値も、同じと言えば口幅ったいかもしれませんが、決して引けを取るものではないと思います。
誰もが「国や世界を変え得るひとりの人間」になることは出来ません。しかし「国や世界を変え得るひとりの人間」を生み出すための人間にならば、誰でもなることが出来るのです。そうなろうと思いさえすれば。
誰もが皆、力があるわけではありません。国とか世界とか、そんな途方もない話なんかより、自分の身の回りの人間関係だけで、人によっては自分自身のことだけで手一杯という人の方が普通でしょう。
それでも、「自分の周囲の環境が悪化すればよい」と願う人はいないでしょう。極端な話、「日本列島は日本人の所有物ではない」と言い切った某政党の某幹事長でさえ、「自分の周囲の環境が悪化すればよい」とは思っていないと思います。彼はああいうことによって、「自分の周囲の環境が良くなる」と信じているのでしょう。
誰もが一様に「自分の住む環境が良くなりますように」と願っています。その「自分にとって良い環境」というのが人によって違うだけなのです。
例えば「日本は日本であり、これからも日本であり続けること」が「日本にとって良い環境」と考える人もいれば、「日本が日本であること」自体を「悪い環境」と考える人も、この日本には結構いるのです。
日本が日本であり続けることが良いことなのか、それとも日本が日本でなくなることが、日本の進むべき道なのか、これを決するのが「国や世界を変え得るひとりの人間」であったとしても、その「ひとりの人間」を生み出し動かすのは、名も無き多くの、私たちなのです。
しがない弊ブログではありますが、この日本にいつの日か「国や世界を変え得るひとりの人間」を生み出すために打つ基礎の一粒の砂にでもなれればと願って、こうしてぐだぐだと駄文を書き続けております。同時に、ひとりでも多くの人が意見を述べる場としても、弊ブログのコメント欄が活用されればと願っております。
電子の海に放たれた無数の意見が寄り集まり、色んな刺激を受けて進化し、互いに互いを取り込んで成長し、多くの人々の心に広がって、やがて完成されたものになって、「国や世界を変え得るひとりの人間」の心に宿ればと思います。