結局使う人次第
思い出した勢いで、盧武鉉がらみの中央日報の記事を検索していたら、こんな記事や、こんな記事に紛れて「私は死体にならず、堂々と歩いて出て行く」と題した記事を発見。
リンク先をご覧になればおわかりいただけると存じますが、「死体」というのは、大統領の任期満了直前恒例行事で、マスコミに散々に攻撃された金泳三元大統領や金大中元大統領のことです。
でも、出て行ってからですが、本当に死体になってしまったのは、金泳三でも金大中でもなく、盧武鉉その人だったという現実を鑑みれば、何とも不気味な予言になってしまったものだなあと思いました。
さて、前回の記事のコメント欄で儒教(朱子学)に関するコメントがありました。
私は儒教については、さほどの知識を持っておりません。四書五経のうちの論語しか読んだことがなく、もちろんそれさえ極めて有名な数句が記憶に残っているのみで、論語にある言葉全てをそらんじているというわけでもありません。
その程度の知識で儒教を語るのはかなり気が引けるのですが、それでも思うのは、朝鮮人のダメダメさの根源を儒教に求めるのは、何か違うと感じるということです。
日韓チャットで韓国人と話していると、「自分の考えを他人に押し付け、信じることを強要する」という行為は、老若男女を問わずまことに一般的です。日韓歴史討論にしても竹島論議にしても、とにかく一方的に自分の意見が正しいと主張し、反論に一切耳を貸さず、相手が受け入れなければその道徳性を問い詰め、それでも相手が折れなければ情に訴えてでも自分の意見に引きずり込もうとします。
道徳を説く儒教を盾にすることは、相手の道徳性を問う時に大変都合が良いものです。理由を説明することなく「儒教ではそのように教えている」と言えば良く、それに疑問を持ったり、反論したりすれば、それだけで「非道徳」ということで、相手の発言そのものを封じることが出来るのです。
また儒教であろうとその他の主義、思想、あるいは宗教であろうと、本人がそれを自分自身の精神的支柱として受け入れ、信じる分にはあまり問題はないと思います。しかし、それを他人に押し付け、信じることを強要するようになると、問題が生じるのではないでしょうか。
それは、ナイフに喩えることが出来るのではないかと思います。ナイフは、人を殺傷することも出来る武器です。しかし同時に、日常生活においては便利な道具であり、物によっては素晴らしい美術品ともなり得るものです。それが凶器になるか、便利な道具になるか、それとも愛でるべき美術品となるかは用いる人次第であって、ナイフそのものには何の罪もありません。
コメントでもちらっと仰っていた方がいらっしゃったように、キリスト教であっても、彼らは他人に受け入れ、信じることを強要します。以前ご紹介したこともあったと思いますが、改宗すれば死刑もあり得るイスラム教徒への韓国人による布教活動は非常に活発で、また韓国人牧師による性犯罪も多発しております(ちなみに宣教師の数は、韓国人が世界一だったと記憶します)。
こういう現実を見れば、儒教故に朝鮮や朝鮮人がダメダメになったわけではなく、元からダメダメな朝鮮人に、主義や思想、宗教を持たせたことが、まさに「キチガイに刃物」になったというだけのことではないかと考える次第です。