魔法の言葉なんかない
さて、前回記事のコメント欄で、韓国人や朝鮮人について啓蒙しようとしても、60代ぐらいの人はまったく聞き入れないということを仰っていた方がいらっしゃいました。
これは、相手が60代ぐらいだからというよりは、「啓蒙しようとする」からではないかと思います。
「啓蒙」とは、字面通りの意味であれば、「蒙を啓く」ことです。「蒙」とは「無知蒙昧」などと言われるように、「道理に暗い」という意味です。
本人に「道理に暗い」という自覚があり、且つそれを何とかして欲しいと願っていれば、啓蒙は有効に働くかもしれません。しかし親韓な人の場合や、あるいは「朝鮮人(韓国人)も同じ人間だ」と信じている人の場合は、むしろ「自分は韓国に詳しい」とか、「平等無差別こそが真理」と信じています。
そういう人に、「おまいの蒙を啓いてつかわす」なんて言えば(言わなくてもそういう態度で接すれば)、そりゃ反発しか返ってこないでしょうし、そういう人たちの考えを、一言で変えられる魔法の言葉などありません。
ですからそういう人たちには、啓蒙ではなく、自ら判断するための材料を提供するという姿勢が良いと思います。
人間誰しも、一度でも好意を抱いたものや、親しみを感じたものについて、他人から悪し様に言われれば、強く反発するものです。それは韓国についても同様だと思います。
私も一度は親韓だったことがありますからわかりますが、一度韓流捏風に吹かれた人は、韓国の悪い話を聞いても、たとえそれが事実だとわかっても、素直に受け入れることはないでしょう。
それは韓国に対する愛情や親近感故ではありません。自分の判断や理解を否定されることに対する拒否感や反発からだと思います。
弊ブログを始めた頃も、その辺には非常に神経を使いました。「あれで?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、表現や言い回しはかなり配慮していましたし、今でもかなり控えめです。
韓国や朝鮮について、歯に衣着せぬ表現は、嫌韓や呆韓、笑韓な方には好まれるかもしれませんが、親韓擁韓な方は、内容にたどり着く前に表現で強い拒否感や嫌悪感を抱くでしょう。嫌韓、呆韓、笑韓な方には物足りないかもしれませんが、弊ブログは親韓擁韓な方にこそ、読んでいただきたいのです。
誰もが、自分の判断を信じたいものですし、自分が信じた判断を、他人から一方的に否定されたくはありません。自分が信じたことや自分の判断を間違いであったと自ら認めることが出来る場合があるとすれば、それは、自分自身でそういう結論に達した場合です。
私も、戦後左傾教育を受けてきた世代であり、日本は悪であると教えられ、支那や朝鮮は無条件で善なる存在であり、日本人は支那・朝鮮人を始めとするアジア諸国に対して、常に頭を下げてへつらわねばならぬのだと教わってきました。それを否定する者は糾弾されるべき者だと、心の底から信じていました。
それがおかしいと気づいたのは、誰かに一方的にそう押し付けられたからではありません。自分で見聞き、調べ、考えたからです。自分自身で見聞き、調べ、考えた結果、今まで信じていたことが必ずしも正しくないということに、自分で気づけたからこそ、それまで自分が信じていたことを覆せたのです。
おそらく、これは私だけではないと思います。誰もが、自分を信じたい。自分の信じたことやものを、信じたい。それを他人に覆されるのは、自分自身を否定されるのと同じことです。
ですから、私はこのブログであれ、他人のブログであれ、誰かを啓蒙どころか、説得しようとさえ思っていません。ただ、判断材料を提供するのみです。
私がこのブログで提示した材料や、その他の朝鮮関連の資料を見た上で、それでも朝鮮擁護に回るというのであれば、その姿勢は尊重したいと思います。
促すべきは、啓蒙ではなく、思考停止からの脱却です。本人が、自ら考えるということを始めようとしない限り、他人がどれほど優れた理屈を押し付けても、それを消化することは出来ないでしょう。
それには、長い長い時間がかかります。韓流捏風に浮かれ、私の韓国批判を聞いて、人種差別だの民族差別だのと非難し罵る人を見ると、いつも気が遠くなる心持ちがします。
しかし、淡々と事実を積み上げ、相手に思考を促し、その人が自ら判断することで得られた結論は、どんな偉い人からの啓蒙よりも堅固に、その人の考えの中に根を下ろすようになると信じております。
その一助として、弊ブログがお役に立てれば幸甚です。