韓国教における神
ところで、呉善花女史の著書に「私はいかにして「日本信徒」となったか
これは内村鑑三著作の「余は如何にして基督信徒となりし乎
何故なら、私は国という存在に対して「信仰」という意識を持ったことがないからです。それは日本に限りません。世界中のどこの国であっても、憧憬や羨望を感じたことはあっても、「信仰」とまで言い切れるほどの強い絶対的な意識を抱いたことはありません。
それは例えば、「親を信仰する」とか、「友人を信仰する」、「恋人を信仰する」と言うのにも似た違和感です。国家とは信仰するとかしないとかしたくないとかではなく、信仰と表現する意識を抱く対象ではないと感じるのは、私だけでしょうか。
しかし、弊ブログコメント欄でもしばしば指摘されているように、韓国人は「韓国教」(あるいは朝鮮教)という宗教の狂信者であるように見えます。そういう意味では呉善花女史もご多分に漏れず韓国教の信者であったわけで、それを脱するためにも、彼女には新しい信仰先となる国が必要だったのかもしれません。
いかなる料理も、コチュジャンを放り込めば全て韓国風の料理になってしまうように(日韓チャットの常連日本人が実際に試したところ、コチュジャンを放り込んだカレーうどんは、韓国料理風になるそうですw)、韓国人にかかると全ての宗教が韓国教になってしまいます。
韓国教における信仰と崇拝の対象は、極めて偶像的な韓国と韓国人像です。
日韓チャットで、韓国人は非常にしばしば「人ごとに違います」という台詞を口走ります。それはたいてい、無礼で粗暴な韓国人を指して、「韓国人って皆あんなやつらばかりだ」と日本人が言う時です。
先日、日韓チャットで私たちの韓国人評に対して、やはり「人ごとに違います」と口走った韓国人を捕まえて、「では韓国人の考える韓国人とはどのような人のことを言うのだ?」と問い詰めてみました。更に「韓国人はすぐに「人ごとに違います」と言う。ならば全ての韓国人は「人ごとに違う」から、「これが韓国人です」という具体的な韓国人像は、韓国人にはないのか?」と畳み掛けてみたところ、この韓国人は答えに窮し、韓国人にしては珍しく素直に困り果てておりました(普通の韓国人は、答えに窮すると減らず口や話題逸らし、逆切れなどを駆使して、どうにかして答えずに済ませようとします)。
実は韓国人に聞くまでもなく、韓国人が考える、と言うか彼らが信じて疑わぬ韓国と韓国人像というものを、私は知っております。それは「支那より古い歴史を誇り、優れた文化の発信源である国の、礼儀正しく道徳心に溢れ、正直で正義感が強く、人情に厚く公明正大で、誰からも尊敬される人々」というものです。マンガ嫌韓流のパクリで作られた「嫌日流」という韓国のマンガがありますが、そのマンガのこちらのページなんかが、韓国人自身の考える韓国と韓国人像のイメージをわかりやすく表していると思います。
日韓チャットで無礼な振る舞いをする韓国人は非常に多いのですが、先日、例に漏れぬ無礼な韓国人に「それは韓国では普通のマナーなのか」と執拗に問い詰めたところ、ぐだぐだと言い逃れを続けた後、「韓国人マナーは本当に良いです」と言い捨てて逃げていったということがありました。
日韓チャットで無礼な振る舞いをするのは、その韓国人一人だけではなく、日韓チャットの圧倒多数とも言える韓国人がそうなのですが、それにも関わらず彼らは「韓国人マナーは本当に良い」と信じています。
「礼儀の正しさで韓国人の右に出る民族はいないわ」と言う韓国婦人の映像をキャプチャした有名な画像がありますが、韓国人を多少なりとも知る日本人から見れば失笑もののこの発言も、韓国人の多くは真顔で肯定するものではないかと思います。
韓国人にとって、彼らの考える韓国と韓国人像とは、決して疑ってはならない絶対的信仰の対象なのでしょう。そう考えると、彼らが如何なる宗教も全て韓国教にしてしまう理由がわかるような気もします。如何なる絶対神よりも、韓国人にとっては彼らの考える韓国と韓国人像が絶対的な神なのですから。
先述した日本大使館に対するテロ未遂犯も、おそらくは韓国教を熱烈に信仰する信徒なのでしょう。
しかしこの韓国教、どれだけ強く長く信仰しても、救われる気がしない宗教ではあります。