百戦不敗の将軍様たち
韓国人が背の高さを気にすることは、日本人の比ではありません。日韓チャットでも、韓国人男性が自称する身長で平均値を出せば、それが180cmを下回ることは絶対にないと断言しても良いぐらいです。
韓国で「彼氏が出来た」と言えば、まず必ず「背は高い?」と聞かれるそうです。日本で「彼氏が出来た」と聞いて、「何やってる人?」とか「芸能人で言えば誰に似てる?」「どこで知り合ったの?」などと聞くことはあっても、「背は高い?」と問う人はおそらく極めて少数でしょう。
これらのことから察するに、彼らにとって背の高い低いは、単に外貌の良し悪しの問題ではなく、勝ち負けの問題なのでしょう。
韓国人は、勝ち負けというものに非常にナーバスです。彼らが参加する競技を見ているとわかりますが、勝つためなら反則も買収も、彼らにとっては何らの恥辱ではありません。むしろ彼らにとっては、たとえ正々堂々と全力を尽くして戦った結果であったとしても、敗北こそが至上の屈辱なのです。
だから彼らは、たとえ敗北しても、様々な理屈をつけて「実質的勝利」などとほざきます。その姿は私たちから見れば単なる負け惜しみのように見えますが、彼ら的には「単なる負け惜しみ」などという言葉では表現出来ないほどの切実さに迫られてのことかもしれません。
誰にとっても、敗北の味は苦いものです。それを喜ぶ人はいません。それは日本人であっても同じです。ですが、勝つ者がいれば負ける者がいるのは理の当然です。逆を言えば、負ける者がいなければ勝つ者もいないということになります。それはちょうど「全員が手をつないで横一直線でゴールする運動会の徒競走」のようなものです。誰にとっても等しく虚しい結果しか得られません。
確かに敗北は誰にとっても喜ばしいものでありませんし、出来れば味わいたくないものではあります。しかし敗北は決して無意味ではありません。勝てば結果オーライですが、負ければ自らの欠点や短所、故障が明らかになります。敗北は、それらを正し改めるきっかけとなり得ます。
だから日本では「勝って兜の緒を締めよ」と言われます。勝ったと言っても、それは単に時の運かもしれないからです。負ければ欠点や短所を改めやすいのですが、勝てば欠点や短所に気づくことなく、慢心しやすいから気をつけよという戒めの言葉でしょう。
更に日本では、敗者を貶めることは憚られます。健闘すれば敗者であっても称えることさえあります。「判官贔屓」の語源となった義経などは、その最たるものと言えるでしょう。
翻って韓国人は、敗者を貶めることは極めて甚だしいのですが、彼ら自身は決して敗北しません。実際には頻繁に敗北しているのですが、彼ら自身は絶対にそれを認めません。様々に理由をつけて敗北をなかったことにしようとします。どうしても敗北を認めなければならない場合は、それを「自らの敗北」とは認めません。
それが何であれ韓国が勝ったと思われるようなことであれば、まるで自分の力で勝てたが如く誇る彼らですが、負けた場合は、負けた当事者だけに敗北の責めを負わせます。スポーツなどでも、勝ってる間はまるで自分が勝利に導いたが如く吹聴しますが、負けた途端に「そんなスポーツには興味がない」と平然と言い切ります。そうやって敗北を認めない限り、彼らは常に勝利し続けていることになるようです。
「北朝鮮に金正日はひとりしかいないが、韓国には金正日が4800万人いる」と言われることがありますが、まことにもっともだと思います。