私が誰だかわかりますか?
日本の盧武鉉と言われる鳩山総理についても腹に据えかねるものがありますが、それ以上に昨日来の小沢一郎の言動が許せません。
天皇陛下と会って親しく話をしたわけでもないくせに陛下の御心を勝手に代弁し、陛下と中共のナンバー2との会見を無理押しでねじ込み、それに対する宮内庁長官の抗議に対して「辞めてから言え」などと恫喝し、何故か韓国で日本の外国人参政権の成立を約すという、およそ日本の国会議員とは思えぬ所業を連発しております。おそらく小沢一郎にとって中共のナンバー2とは、天皇陛下よりも尊重しなければならない相手なのでしょう。小沢一郎こそ、そういうことは日本人を辞めてから言いやがれと思います。
こんな時に韓国のことを論ってる場合だろうかという気もしなくはないのですが、外国人参政権については、ほぼ在日に的を絞ったものであり、これが通れば日本人は否応もなく韓国人との関わりを持つことになる可能性は高いと思います。そうなれば、韓国人の生態や習性については知っておいて損はありません。とりあえず記憶の片隅にでも残る程度で結構ですので、目を通していただければと願う次第です。
という訳で、今は韓国なんかに気を取られている場合じゃないということは、私が一番感じておりますが、それでも引き続き韓国人についてのお話をさせていただきたいと存じます。
韓国人がよく言う言葉に「私が誰だかわかりますか?」、あるいは「あなたは私が誰だかご存知ないのですね」というフレーズがあります。
確か故司馬遼太郎氏も、実際に韓国人にそう言われたことがあるというようなことを、著書のいずれかに書かれていたように記憶します。確か「街道を行く」シリーズの韓のくに紀行
ただ、司馬氏が韓国を訪れた時期は、私が初めて韓国を訪れた1990年頃より、更に20年近く昔の話ですから、いくら何でももうとっくに廃れた言葉だと思っていました。
ところが先日、日韓チャットで親しく話す韓国人に何気なく「『私が誰だかわかりますか』という言葉は韓国人の口癖であった」と過去形で言ったところ、即座に「それは今でも言います、私もよく言います」と返ってきました。
日本人が「私が誰だかわかりますか?」と言う時は、幼い頃や若い頃に会ったきりで、何十年と会わなかった相手に対して用いる場合が主でしょう。しかし韓国人がこう言う相手は、およそ初対面の相手、場合によっては「お客様」だったりします。
当然その意味も、日本人が用いるのとはまるで異なります。韓国人のこの言葉を日本人的に理解するならば「この御方をどなたと心得る!畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ!」というフレーズに置き換えればかなり近いでしょう。
即ち、「私が誰だかわかりますか?」と韓国人が言う時は、「あなたが私に対してそんなに不遜で傲慢な態度を取るのは、私が誰だかよく知らないからでしょう?」「私が誰なのか知っていれば、あなたは私に対してそんな失礼なことは言えないはずです」といった、非難と憤りと軽蔑をこめた発言だと思えば概ね間違いはありません。
私がこの言葉を「今ではとっくに廃れた」と思い込んだ理由は、それが余りにも大時代的な言い回しだからです。まさか21世紀になって10年が経とうというこのご時世に、日本で言えば「無礼者!控えおろう!」と言うにも似た言い回しをする人が、いくら韓国といえども普通にいるなんて思わなかったのです。
もっとも韓国人が「私が誰だかわかりますか?」と言ったところで、素直に畏れ入る必要は皆無です。そう言う韓国人が100人いれば100人が、ほぼ確実に、どこに出しても間違いなくその他大勢に埋没してしまうであろう、余りにもありふれた無名の一庶民です。先の副将軍様どころか、天璋院様のご祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘ほどの身分の者さえ稀でしょう。
それでも彼らにとっては、自分こそが世界中で最も尊重され、賞賛され、崇敬され、優遇され、肯定されるべき存在です。たとえ現実の我が身が無名の一市民であっても、たとえ就業中の従業員であっても、また自分がそう言い放った相手が、実際には自分よりもずっと身分や地位の高い人かもしれないとしてもです。
韓国人のこういう言動を見て「韓国人は自尊心が強い」と言う人も少なくないのですが、私はこれは「自尊」とは似て非なるものだと思います。
韓国人は他者から侮られたり軽んじられたりすることを酷く懼れます。それは彼らが誇示する「自尊心」に見せかけたものに、確固たる裏付けがないことを彼ら自身が薄々ながらも感じているからだと思います。
その不安を打ち消すためにも、彼らはより一層自らを高めて見せなければならないのですが、それはまた彼らの不安を更に強めることになります。
そうやって自らの弱みや不安を覆い隠すために鎧うものを、「自尊心」とは言わないと、私は思います。