むしろ願ったり
実際、その後この韓国人は日本人会員の「朝鮮様」という発言に噛み付いて逆にしばき返され、火病を起こして病身舞を披露するという量産型っぷりを晒しており、正直あまりにもよくあるパターン過ぎて、言及する気になれませんでした。
また「私が聞きたいのは貴方が一番答えたい内容です」と韓国人に聞けばどうなるかというご質問がありましたが、こういう質問は、まだ一度も試してみたことがありません。ただし、彼らが答えたい内容とは即ち「模範解答」であるということは、既にわかっております。
もちろん彼らが「模範解答を答えたいです」と答えることは絶対にないと思います。ですが今までの経験から言って、彼らがそう答えたいと考えていることは、まず間違いありません。ですから、もし「あなたが一番答えたい内容は何ですか?」と彼らに聞けば、「あなたがどう答えて欲しいと思っているかということです(それが模範解答だから)」という類の回答、あるいは「答えたくありません(模範解答の見当がつかないから)」という類の回答のいずれかになるのではないかと思います。
それから記事の内容とは別に、更新頻度についてご意見を頂戴いたしましたが、現在の3日おき更新というペースを崩すつもりは、当面ありません。理由は、毎日更新だと私がしんどいというのがまずあります。ひとつの記事の推敲に2時間以上かかることは珍しくなく、それに下書きと清書の時間を加えると、こんな駄文でも実は結構時間がかかっております。この更新頻度が、筆者の能力的限界とご理解いただければ幸いに存じます。
もうひとつの理由として、以前毎日更新にしていた頃に感じたことですが、毎日更新というのは読者の皆様が最新記事にコメントするための時間的余裕を奪うのではないかということがあります。最新記事を読んで、コメントを書こうと思ったら、既に次の記事がUPされており、何となくタイミングを失ってコメントしそびれている方がいらっしゃるのではないかと感じておりました。
弊ブログは幾つかの理由から、かなり意図的にまわりくどい表現を多用しております。そのために、一読しただけではすんなりと腑に落ちない場合もあるのではないかと思います。またコメントくださる方の中には、練られた長文のコメントを投稿してくださる方もいらっしゃいます。文字数が多くなればそれだけでも時間がかかりましょうに、内容も考察を重ねたことが伺える素晴らしいものが多々あります。あるいは、たとえ批判や反論であっても、反応があるというのは執筆者として嬉しいものですし、コメントで筆者の記事の舌足らずを補完していただく場合もしばしばです。ですから、読者の皆様がコメントするための時間は、私のモチベーション維持のためにも必要だと思っております。
アクセス数はブログを公開している者なら、誰でも多少は気になるものです。私も例外ではありません。アクセス数が多ければ多いほど、良い意味での緊張感を持って書けるという利点は、確かにあります。しかし現在のアクセス数は確かに一時と比べれば半減に近いほどになりましたが、それでも決して少ないとは思っておりません。むしろ長文で駄文でまわりくどい弊ブログの文章を、じっくり時間をかけて読み込んでくださる方が定着してくださった結果ではないかと思っております。
それらの点から、現在の更新頻度は長からず短からず、丁度良いペースではないかと思っておりますので、読者諸姉諸兄におかれましては、その点どうぞご理解賜りますようお願い申し上げます。
さて、日韓チャットでは韓国人から非常にしばしば、弊ブログにおいても時々「何故そんなに韓国人に剣突食らわすのか」というお叱りを受けます。これは裏返せば、「もう少し韓国人に優しく暖かく接してやれないものか」という意味だと思います。
単に「優しい」というだけであれば、実は現在の私は、日韓チャットを始めたばかりの頃と比べると、格段に韓国人に優しく接しております。それは、彼らに愛想が尽きているからです。
以前の私は、いつも韓国人に腹を立てておりました。何故こんなに馬鹿なのだ、どうしてこんな考え方になるのだ、そこで飛車を逃がせば王が詰むと何度言えばわかるのだと彼らを問い詰め倒し、真正面からぶつかってはいちいち激怒しておりました。
今は、「もうこいつらはこうなのだ。私ごときが何を言ってもやっても、こいつらが変わることなど有り得ないのだ」という境地におります。故に、彼らに激怒するということはさほどにありません。
「格段に優しい」というのはそういう理由ですから、優しくなったといえども「暖かい」とは決して言えません。彼らに迎合したり彼らのご機嫌を伺ったりということは、絶対にありません。量産型と見切れば相手をする時間さえ惜しんでサクサク蹴り飛ばし、あるいは存在もろとも無視し、もし多少なりともサンプルとする値打ちがあると思えば淡々と、しかし執拗に彼らの言葉尻をとらえて問い詰め倒すという、見ようによってはまことに陰険なやり方で彼らに接しております。
それを「酷い」とお感じになる方は、ただそう思うだけではなく、是非私と真逆の対応で韓国人を相手になさってみると良いでしょう。それが一番手っ取り早い韓国(人)理解になると、私は考えております。ただしその方法は、リスクもデメリットも大きいとは思いますがw
弊ブログにふたつしかないブックレビューのひとつに「ブックレビュー「植民地朝鮮の日本人」」があります。
その記事中で「しがない卵売りの朝鮮人を数人で取り巻いて、見つからないように桶から卵を盗ってしまうというようなことをやっていた。当初はそれを「かわいそう」と思っていた福山兵市も、じきに「ああ、こいつらは馬鹿だ。下等だ。こいつらには徹底的やっていいんだ」と思うようになった。」というくだりをご紹介しております。
これについて当該記事で述べたこと以外に、最近ふと思ったことがあります。
よく知らない国の人に対して、最初の内は「こいつらは馬鹿だ。下等だ。こいつらには徹底的やっていいんだ」と思うことはあり得ます。それはその国に根ざした文化に対する無知や無理解から生じるものだと思います。
逆に、当初は「こいつらは馬鹿だ、下等だ、こいつらには徹底的やっていいんだ」と思っていたとしても、その国のことをよく知った場合、それが自身のその国に対する無知や理解から生じたものであることに気づき、再評価するという話は、例えば中島敦の李陵という小説に「諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字(あざな)がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。」とわかりやすく書かれているように、特に珍しくもなければ驚くべき話でもありません。
しかし、当初は「かわいそう」と思っていた人が、その地で暮らすにつれ「こいつらは馬鹿だ。下等だ。こいつらには徹底的やっていいんだ」と思うようになるというのはどういうことでしょうか。朝鮮で暮らす内に、朝鮮や朝鮮人に対する無知や無理解が一層深まったということなのでしょうか。もし仮に、朝鮮人に対する無知や無理解が一層深まったのであれば、無知や無理解故に「かわいそう」と思っていた日本人ですから、尚一層「かわいそう」と思うのが自然ではないでしょうか。
当初「かわいそう」と思っていた日本人が、朝鮮で朝鮮人にまみれて暮らす内に、真逆とも言える「こいつらは馬鹿だ。下等だ。こいつらには徹底的やっていいんだ」という考えに変わったということは、どう割り引いて考えても「実際に朝鮮人と接することで、朝鮮や朝鮮人に対する理解が深まった結果」としか読みようがありません。
弊ブログをご覧になって、私の韓国人に対する冷淡で陰険な対応に反発を感じる方がいらっしゃるとすれば、私としてはむしろ願ったりです。そういう方は是非とも韓国人に、暖かく優しい対応をされてみれば良いと思います。そうすればきっと、韓国人も喜んでそういう方にまとわり付き、韓国人という生き物がどのようなものかを、嫌と言うほど教えてくれるでしょう。
その場合、生粋の日本人であっても韓国人化出来る方ならば、おそらく韓国人とはかなり心地良い関係を築けると思います(ただし、韓国人化してしまうと、日本社会での生活に大きな支障が出る可能性はありますが)。もし韓国人化出来ない方であれば、韓国人との付き合いが深まるにつれ、かなりの違和感(場合によっては苦痛)を感じることになるでしょう。それから改めて弊ブログをご覧になっても尚「このブログ主は酷い」と思えるなら、それはそれで素晴らしいと思います。
私は「歩くと転ぶこともあるよ。転ぶと怪我をするかもしれないよ、怪我をしたら痛いよ」と言うことはありますが、それでも自分で歩いてみないとわからないと言う人に「転んで怪我をするかもしれないから、歩くな!」とは決して言いません。
私の言うことは信用できない、こんなブログ嘘だ、ブログに書いてあることは本当かも知れないがブログ主の方に問題があるのだとお考えの方は、是非ともご自身の足で歩いてみることを、心よりお勧めいたします。
ただし実際に歩いてみたら転んだ、怪我をした、お前が歩いてみたらと言うからだ、謝罪汁、賠償汁と言われても、私は一切関知せず、また一切の責任を持ちませんので、その点はあらかじめご了承ください<(_"_)>