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所詮は日本人的理解

昨日、韓国の哨戒船が北朝鮮領海付近で爆発沈没したというニュースを見て、「リアル軍艦沈没破裂」などと不謹慎なことを言ってしまった筆者ですこんにちは。

日韓チャットの韓国人によると、この件については、韓国内でも情報が非常に錯綜しております。

何しろ願望を事実のように語るのが韓国人の常ですから、「北朝鮮からの攻撃ではないと思いたい」が、「北朝鮮からの攻撃の可能性は低い」にナチュラルにすり替わったりするのは、極めて普通です。ですから、たとえそれが公的機関や主要言論機関からの発表であったとしても、にわかに信じることは出来ません。

日韓チャットの常連日本人会員が、「韓国という国は相互不信で成立している社会だ」と喝破しましたが、こういう状況を見ると、全くそのとおりだと思います。

社会を構成する全ての層が互いに信用し合わないことで成立する社会という、日本人からすれば想像を絶する社会が、日本の隣にあるだけで結構背筋が涼しい気分になります。もっとも、最近はそれが日本社会の中にも紛れ込み始めているような気がしなくもありませんが。

「相互」も「不信」も「成立」も「社会」も全て日本人には理解が容易な単語だと思うのですが、それらの言葉を組み合わせて「相互不信で成立する社会」と言うと、それがどのように成立している社会なのか、日本人にはにわかに理解が難しいと思います。

このように「一見理解が可能に見えて、実際には理解出来ない、あるいは理解が困難なこと」は、韓国関連では珍しくありません。

前回の記事でも「日韓相互理解は不可能だという相互理解を目指そう」と書きました。すると日韓チャットの常連日本人から、「あれでは日本人側は韓国を理解している、あるいは理解出来ると思う人がいるかもしれない」と言われました。

なるほど言われてみれば、そう誤解される余地もあるかも知れないと思い、蛇足かもしれませんが前回の記事について、少々言葉を補っておこうかと思います。

日韓の場合、一言で「相互理解」と言えば、日本人が韓国人を理解しようとする姿勢の方が、韓国人が日本人を理解しようとする姿勢より、確かに大きいだろうとは思います。しかし、日本人がどこまで韓国人を理解したとしても、それは所詮日本人としての理解でしかないことを、私たちは忘れてはいけません。

「私たちは忘れてはいけません」などと偉そうに書きましたが、実はこれは私自身が、しばしば日韓チャットの常連日本人に厳しく指摘されることだったりします。

日本人である限り、韓国人についてどれだけ長く深く考察しようとも、所詮は日本人としての視線、日本人としての理解、日本人としての結論の域を出られません。

私は非常にしばしばそれを失念して、「何故あいつらはこうなんだ!」と驚いたり腹を立てたりしています。そのたびに、日韓チャットの常連日本人会員からは、「あなたは相変わらず日本人的視点から抜け出せていない」と笑われております。

例えば、彼らの発する言葉には意味がありません。これを日本人が真の意味で理解するのは、極めて困難だと思います。日本人にとって、言葉とは意味があって当然だからです。だから彼らの言葉に意味があると思って聞いてしまい、彼らの言葉にころころと転がされます。

「韓国人は息をするように嘘を吐く」とよく言われますが、それさえもやはり日本人的解釈であって、彼らにとって言葉は意味がありませんから、彼らの嘘は嘘としての意味さえないのです。それが証拠に彼らは非常に頻繁に、全く意味のない嘘を吐きます。

彼らが発する言葉だけではありません。彼らの書く文字や文章も同様です。彼らにとって文章とは、単に彼らの発する音を写しただけのものだということを日本人が本当に理解するのも、かなり難しいでしょう。ハングル専用によって生じる思考の浅薄化に気づいた時、私は心の底からぞっとしましたが、もちろんそれも所詮「日本人的理解」でしかありません。

喩えて言うならば、鶯のさえずりを「春の訪れを告げる声」などと理解するのは人間側の理解です。鶯側は別に、人間に春の訪れを知らせるつもりなど全くありません。また鳥によっては「求愛のダンスを踊る」などと言われている種がありますが、それらもやはり人間的な解釈です。鳥自身に「求愛」や「ダンスを踊る」などという意識や概念はないでしょう。

日本人的な韓国人理解も、それと似ているのではないかと思います。

もちろん「日本人的理解」でしかなくとも、それが全くの無駄だとか、悪いことだとは思いません。思ってたらこんなブログ続けていられませんw

韓国人を観察する場合、たとえそれが「日本人的理解」であっても、無いよりは有った方が良いと思います。また日本人同士で韓国人について話す場合、「日本人的理解」であっても、それを共通の概念として話す方が、間違いなく話の通りは良いでしょう。

ですが、その「日本人的理解」を以て、本当に韓国人を理解した、あるいは理解し得ると考えるのは、極めて危険です。以前にもご紹介したことがある、野生のグリズリーを愛した男が、結局グリズリーに食われたという話を思い出してください。

日本人が韓国人を理解した、あるいは理解しようとしているというのは、あくまで「日本人として」です。それによって得られた理解は所詮「日本人的理解」であり、韓国人を本当に理解したわけでも、理解出来るわけでもありません。

「象使いは象に殺される」という言葉もあります。彼らを理解出来ないことよりも、「彼らを理解出来るはず」あるいは「彼らを理解した」と思い込み、「日本人的理解」で接することの方がずっと危険な場合もあるということを、ここで改めて強調しておきたいと思います。



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