「親切な日本人」を気取りたい人へ
やや目新しいと言える動きがあったとすれば、京都の朝鮮学校に対する抗議活動で在特会のメンバーが逮捕されたことでしょうか。同時に、京都の朝鮮学校による公園の不法占拠も捜査されるとの由。
在特会の手法は、弊ブログの迂遠で柔弱なアプローチとは全く異なり、直接的且つ行動的なため、往々にして過激との謗りを受けますし、日本のマスコミも在特会の印象操作に忙しいようです。
今回の件が適法だったか否かについては、詳細を知らぬ身ゆえ、判断のしようがありませんが、今までの在特会の活動方針を見る限り、法に触れぬギリギリのラインは保っていたのではないかと個人的には思っております。弊ブログとしては肉を切らせて骨を断つ在特会の行動力を称え、及ばずながら声援を送りたいと思います。
さて、日韓チャットの韓国人は、「日本人は親切だ」と非常に頻繁に言います。その割に、具体的にどのように親切だとか、実際にどんな親切を施してもらったかという話は、不思議なぐらい聞きません。
彼らの多くは、実際に日本人に親切にしてもらったことがあるどころか、実際に日本人に接したことがあるわけではなく、イメージとして日本人はウリに親切にするのが当然であると思っているので、そのように言ってるだけなのではないかと思います。
だから彼らは、初対面の日本人にいきなり「親切」を求めます。来週日本に行くから案内しろとか、日本語を独学しているが難しいので無料で教えろとか、眠れなくて退屈だから何か面白い話をしろと、当然のように言います。
そんな彼らの期待に応えなければ、彼らは「やはり日本人だね!」と言うか、「お前は日本人のイメージをぶち壊している」と激しく非難します。
期待に応えてもらえなかった韓国人が「やはり日本人だね!」と言うのは、「日本人はやっぱり悪い奴らだ」という意味でしょう。これはある意味、彼らが基本的に持っている日本人のイメージを正直に表していると思います。
クセモノなのは「お前は日本人のイメージをぶち壊している」という非難です。
「一部を見て全体を判断するな」と口癖のように言う彼らが、一部の日本人を見て日本人全体のイメージが壊れると言うのですから、韓国人をよく知る日本人が聞けば噴飯物の台詞ですが、韓国人を知らない素直な日本人に対しては、大変によく効くと思われます。
何しろ日本人は、優れた日本人の功績を同胞として誇るよりも辱めることを恐れる人が普通です。普通の日本人ならたいていの人が「日本人全体を個人である自分が貶めること」を恐れることを、韓国人はよく知っています。
いずれにしても、彼らの「日本人はウリに親切にするのが当然である」という意識は、日本人の持つ有形無形の資産全てが、無条件且つ無償で韓国人に譲渡されて当然であるという意識に直結しています。これは出生地や居住国に関わらず、朝鮮人なら普遍的に持つ意識のようです。
基本的に朝鮮人は、相手がひとつ譲れば、全てを譲るよう求めます。何故なら、ひとつでも譲った以上、「譲られること」は譲られた者の権利になるからです。また、足ることを知らない朝鮮人への親切は、行ったきりであれば上出来で、下手をすれば災禍となって返ってきます。親切にすればするほど、物を与えれば与えるほど、彼らの不満は募るのです。
それらを熟知した上で、自らの持つもの全てを彼らに譲り、更に災いを招くことも覚悟の上で彼らと接するならば、それはその人の自由です。朝鮮人に「親切な日本人」を気取りたい人は、自らの有形無形の資産や所有物をなげうって、思う存分「親切な日本人」を気取れば良いと思います。自身の資産や所有物でやる限りにおいて、それは全くの自由です。
しかしそれを、全く権利を持たない他人の資産や所有物でやるのは論外として、一部の権利しか持たない公共施設や共有物でやることも、絶対に許されません。
今回の京都の朝鮮学校の件は、親切な日本人を気取りたいからではなく、事なかれ主義に基づいた行政の怠慢が根源だと思いますが、それを指摘し、抗議活動を行なった在特会を非難する人々(マスコミ含む)は、「親切な日本人」を気取りたい人々なのであろうと思います。
そういう人々は、自分が無関係だと思っているから気軽に非難出来るのだろうと思いますが、類似の事例は日本全国朝鮮人の居るところ全てで起こり得ます。というか日本そのものが、朝鮮人の欲望の対象です。
自らが当事者となり、朝鮮人に身ぐるみ剥がされても尚、「親切な日本人」を気取れる自信のある方は、今回の在特会の行動を非難しても良いと思います。
もっとも本当にそういう事態になれば、非難の声をあげる力さえ朝鮮人に奪われているかもしれませんが。