敬而遠之、可謂知矣
さて、韓国人と接するようになると、最初のうちは彼らの発する「言葉のようなもの」にとらわれ惑わされます。しかし、やがて慣れてくると彼らの発する「言葉のようなもの」そのものよりも、彼らがそれを発する状況や態度で、真意が透けて見えるようになります。
何しろ韓国の身上は何事も薄くて浅くて上っ面。日本人は何事につけ掘り下げるのが大好きですが、韓国人については掘り下げれば掘り下げるほど、彼らの薄くて浅くて上っ面を痛感することになります。
と言うか、根本的には韓国を含む朝鮮全体については、丁度韓国料理のように、どんな繊細な味付けをしようと、どんな素材を使っていようと、にんにくと唐辛子を大量にぶち込んで刺激的ではありますが単調な味にしてしまったり、何もかもをぐちゃぐちゃに混ぜてしまって、素材それぞれの味どころか、原材料に何を使ったかもわからなくしてしまうのにも似ています。
それらに無理やり理屈をつけて「強い辛味の後から来る旨味が」とか「単にからいだけではなく甘味が」とか「混ぜることによって新しい味が」などと言うことは出来る場合も、確かに皆無ではありません。しかし、それらはもともと意図して演出されたものではなく、たまたま結果的にそうなったのを、日本人が掘りに掘り下げまくって無理繰り評価しているだけであるのと同様、朝鮮関連については最初のインパクトが大きいことはよくありますが、その後に来る「何も無さ」が、本質と言って良いでしょう。
更にこれも再々申し上げていることではありますが、少なくとも現代人の時間感覚では、韓国人を含む朝鮮人が変わることはありません。天文学的とまでは言いませんが、考古学的時間感覚ならば変わり得るかもしれませんが、現代人にそれを待つだけの余裕もありません。
彼らが変わりたいと望んでも変わることが出来ないのか、変わりたいと望むことそのものをしないのかについては議論の余地があるかも知れませんが、それを議論して、仮に答えや結論が出たとしても、彼らが現代人の時間感覚において変わらないことに違いはありません。
彼らが変わらぬ以上、変わるべきは彼らに対峙する方です。日韓の場合、それは当然日本人ということになります。
日本人は、ただでも他人にゆずりへりくだることが人間関係を円滑にすることであると信じている上に、平等意識が煮詰まり過ぎてナチュラルに逆差別意識を持つようになっている方が少なくありません。そのためか、韓国人を含む朝鮮人全般を、日本人と同じかそれ以上に優れた人々であると言い、日本人は常に彼らを不当にサベツしているのだと思い込み、それを正すことこそが平等であり正義であるかのように勘違いしている人が、いまだに多いようです。
先日見た在韓日本人のブログでは、ハングルで書かれた漢字語の記述が、誤って日本語音になっているのを見て「これは差別語か!?」と憤慨し、わざわざ管理者に誤記理由の調査を依頼したりしておりました。しかし日本語音とは言えハングル表記なわけで、これは普通に考えて韓国人向けの表記なわけです。それをわざわざ差別語にする理由は、少なくとも日本人側にはありません。
この発想にならえば、韓国の日本語表記で「トンカス(「トンカツ」の誤記。ハングルでは「ツ」が表現出来ないので「ス」か「チュ」になるのを、そのままカタカナ表記してしまう例で、非常に頻繁にある)」と書いてあれば、「これは日本人に対する差別語か!」と憤慨しなくてはなりません。
このような、韓国人に対する馬鹿げた平等意識は、韓国人の「日本人は日本人であることそのものが原罪だ」という意識や、韓国人の持つ「永遠の加害者たる日本人の、永遠の被害者である韓国人は、永遠の債権者である」という意識と絶妙にマッチし、結果的に共依存的関係になってしまっているのでしょう。共依存を続ける者たちが行き着く先は、共破滅(こんな言葉があるかどうか知りませんがw)です。
真の日韓友好とは、互いに近く親しく付き合うことではなく、互いに敬して遠ざけることです。少なくとも日本側では、それを目指して今後の日韓関係を考えるようにするべきだと思います。
そのためには、私たち日本人が正しく韓国を知り、韓国に対する正しい意識と態度を持つように変わることこそが肝要だと、改めて申し上げたいと存じます。