平成の売国
色々弊ブログでも、韓国人についてゴタクを並べてきましたが、これまで述べてきた韓国人の生態や習性は、トリビアというか、豆知識みたいなものです。知らないよりは知っていた方がまちがいなく良いでしょうが、知ってるだけでは何の意味もありません。
言うまでもなく、それを知ることで韓国人を馬鹿にしようとか、韓国人の馬鹿さ加減を見て笑おうとか、優越感に浸ろうとか、そういう目的は皆無です。それどころか、韓国人の馬鹿っぷりはもうお腹いっぱいです。頼むからこれ以上見せるなと言いたいぐらいです。
では何故それを見続け、あまつさえブログで再配布しているのかという疑問を持つ方がいるのではないかと思います。その疑問に対する答えがつまり、冒頭で述べた「日本人の自覚」です。
日本人の場合、日本人であることが人間であることと同じぐらい当たり前という感覚があるように思います。そのため「日本人の自覚」を意識する人が少ないようです。しかしこの自覚がないと、「同じ人間」とか「地球市民」という呪文に、実に容易にたぶらかされることになります。
そのことを、韓国人は理屈ではなく本能で察知しているのか、十代のお子様でも巧みにそこを突いてきます。もっともそれは、韓国人自身が「地球市民」という言葉で自分を含む韓国人同士騙し合っているという背景があるからですが、「日本人」にとって、韓国人の背景はあまり重要ではありません。重要なのは、彼らがそれをもって日本人を懐柔し陥れようとすることです。
日本人を懐柔し、陥れようとするのは別に韓国人に限ったことではありません。日本人を含む世界中の国の人々の中に、そういう人は存在します。しかし韓国人の高い均質性は、日本人が日本以外の国について知り、考える際に、非常に取っ付きが良いと思います。良過ぎて取り込まれる人もいるのが諸刃の剣ではありますが。
現在の日本には、取り込まれた日本人も含めて、日本人を懐柔し陥れようとする人々が跋扈しています。その結果が、現在の民主党政権を生んだと言っても良いでしょう。この民主党政権が次なる日本陥落の目標として定めているのが、平成の売国のようです。
日本が、日本の外に目を向けることを悪いとは言いません。国を鎖せとも言いません。ですが、日本人が日本人という確固たる自覚さえ持たぬままに外国に目を向け、国を開けばどうなるでしょうか。その答えは、鳩山前首相が放った「日本は日本人の所有物ではない」という言葉に象徴されると思います。
例えば都会の雑踏の真ん中で、肩から下げたバッグの口を開け放し、ズボンの尻ポケットから、無造作に突っ込んだ長財布が半分はみ出ている状態で、口を開けて摩天楼を眺めている人がいるとします。無用心ですよと声を掛けると、その人は「おらが村ではこれで何も問題なかっただ」「他人をむやみに疑っちゃなんねえ」と言います。
それが数時間程度のごく短期間なら、運が良ければ無事で済むかもしれません。しかしその人が、1年2年と同じように無用心であれば、無事で済む可能性は限りなく低いでしょう。
あるいは、そういう「おらが村」に、特亞人を含む外国人を招き入れればどうなるでしょうか。もちろん、「おらが村」の暢気な穏やかさに溶け込んで、同化してしまう者も少なからずいるでしょう。しかし、不心得者はたった一人でも、多過ぎるのです。その不心得者がケチなチンピラやコソ泥でも「おらが村」の人々の不快感や不安は甚だしいものになるでしょう。もしそれが凶悪犯罪者であれば、「おらが村」が崩壊しても不思議はありません。
囲った羊の群れを全滅させるのに、羊と同じ数の狼は要らないのです。いや、狼すら必要ありません。野犬が一匹居れば十分こと足ります。
その羊たちに、自分たちが羊という自覚がなければ、「同じ哺乳類なんだから」と野犬を歓迎する馬鹿羊が居るかもしれません。
もしかしたら「まとまりに欠ける羊の群れをまとめ、守ってくれる牧羊犬になってくれるかもしれない」などと言って、自ら野犬を呼び込み迎え入れようとする馬鹿羊がいるかもしれません。
「羊だけではこれから先何の発展もない。リスクはあるが、犬を呼び込んだ方が将来的な可能性は確実に広がるのだ。このまま手をこまねいて居れば、我々羊は牧場内の草を食い尽くし、飢え死にするしかなくなる。何が何でも犬を我が羊の群れに加えなければならない」などと言って羊たちの危機感を煽り、是が非でも犬を呼び込もうとする馬鹿羊がいるかもしれません。
開国も良いでしょう。グローバルスタンダードもボーダーレスも、言葉の響きは素敵だと思います。しかしその前に、開国に備えた準備、せめて日本人自身の、日本人としての自覚を育み確立しなければならないと思います。「日本人である前に地球市民」などと言ってドヤ顔する連中が幅を利かせている間は、時期尚早です。
幕末の維新は、その意識を持った人々が行なったのです。それがなければ、日本も清や朝鮮と同じ憂き目を見たでしょう。いや、その当時の「日本人」が、清や朝鮮の惨憺たる憂き目を見たからこそ、「日本」に同じ轍を踏ませてはならないという確固たる意識を持ったのかもしれません。
いずれにせよ、その意識を抜きに開国を語ることは、開国ではなく、売国でしかないと私は断言します。