日本語と朝鮮語は比較にならない
そんなこんなで、日韓チャットも月見チャットもあまり参加出来てない今日この頃ですが、昨日の月見チャットの過去ログで見かけた話題について、述べてみたいことがありました。
日本と朝鮮について、非常によく言われることに、「日本語と朝鮮語は似ている」ということがあります。
これをもって「日本語の祖語は朝鮮語(百済語・新羅語・高句麗語・高麗語)である」とか「日本語は朝鮮語で解釈が出来る」と言う人は、日韓双方に不定期のペースで涌いて出てきます。あまり情報がないので詳しくは知りませんが、もしかすると北朝鮮でも涌いているかもしれません。
こう言いたがる人の傾向は、特に日本人の朝鮮語初学者及び朝鮮人の日本語初学者に甚だしいものがあります。
日鮮両語には、確かに共通する点があります。初学者が最も似ていると思うのは、まず語順でしょう。多くの場合、日本語の文章は、全ての単語を機械的に朝鮮語の単語に置き換えるだけで、正しい朝鮮語の文章として成立します。もちろん、その逆も然りです。日韓の機械翻訳が、英語や中国語と比較するとかなり良好な翻訳結果を吐くのはこのためです。
例えば「これはペンです」という日本語の文章を朝鮮語で言うならば、「これ」に相当する朝鮮語「イゴッ(이것)」、「は」に相当する朝鮮語「ウン(은)」、「ペン」は朝鮮語でもそのまま「ペン(펜)」、「です」に相当する朝鮮語「イムニダ(입니다)」を、日本語と同じ語順で並べて、「イゴスンペニムニダ(이것은 펜입니다)」と言えば良いという具合です。
英語であれば皆様ご存知の通り、「This is a pen」となりますし、中国語であれば「這是筆」となります。単語を日本語的語順に並べ替えて「This a pen is」とか「是筆這」と言ったり書いたりしても、相手によっては察してくれるかもしれませんが、正しい文章とは言えません。
日本語と朝鮮語で共通する点は語順だけではありません。語頭にR音が来ることを極端に嫌うというのもよく挙げられる例です。
しりとり遊びで、「ラ行」で終わる言葉を相手に連発されて困り果てた経験のある方は多いと思いますが、日本語では「ラ行」で始まる単語は、ほぼ全て外来語です。
朝鮮語の場合、中国の影響を強く受けた北朝鮮では語頭のR音を発音しますが、韓国では語頭のR音が脱落したり、別の音になったりしている例がよくあります。例えば「李」さんが「イ」さんになったり、「盧」さんが「ノ」さんになるのは、そのためです。
しかしこれらはアルタイ諸語の特徴であり、日本語と朝鮮語のみに共通するものではありません。ですので、「日本語と朝鮮語はアルタイ諸語に属するかもしれない」と言うことは出来ても、「日本語の祖語は朝鮮語(百済語・新羅語・高句麗語・高麗語)である」と言うことは出来ません。
日本語の場合、文献資料が豊富で研究者も多く、様々なアプローチで、かなり深く研究されています。しかし、印欧語族で言うところの「祖語」にあたるものは、多くの学者が仮説を立てておりますが、いまだ見つかっておりません。私は個人的に、日本語は印欧語族で言うところの「祖語」から分派したものではなく、さまざまな言語が集約することで形成されたのではないかという仮説を立てている学者の意見に、説得力を見出しています。
朝鮮語の場合、これは日本語と比較しなくとも文献資料が余りにも貧弱という事実がまずあります。次に、朝鮮人の朝鮮語学者が極めて少ないということがあります。
言語学という学問が、あまり脚光を浴びることもなければカネになるわけでもない学問であることは、ほぼ世界共通と言っても良いでしょう。非常に地味な学問である上に、実際の研究においても細かく煩雑な作業が多い割に、金銭的にも栄誉的にも、報われることはあまりありませんし、研究に対する出資者も多くありません。即ち、研究に対するモチベーションは、研究者自身の学術的好奇心に大きく依存します。となれば、韓国人がそういう学問を志向しないのは、彼らの性格や社会的傾向を見れば当然と言えましょう。
そうでなくとも、朝鮮における朝鮮語研究については、漢字と「朝鮮自尊心」が大きな障壁となります。
朝鮮においては、そもそもの文献資料が少ないという現実に加えて、その極めてわずかな朝鮮語の文献資料のうち、ハングル創製以前の物は、当然ですが全て漢字によって書かれています。それを解読するには、まずそれを研究する者に漢字の素養が無ければならないということが、最初の障壁になります。次に、たとえ漢字の素養を持つ研究者がいても、その説明を聞く者に漢字の素養がなければ、説明を理解することが出来ません。つまり、研究結果を発表しても、ほとんどの朝鮮人にはそれが何のことなのか、イメージさえもつかめないことになります。
更に、その研究結果が「朝鮮自尊心」を満たすものでなければ、それを公けには出来ません。仮に公けにしても、韓国社会からは良くて無視、悪ければ弾圧されます。
逆に、彼らの「朝鮮自尊心」を満たす内容であれば、それがどんなに荒唐無稽で牽強付会に満ちていても、韓国社会では大きな支持を得ます。その実例は、「李南教の日本語源流散歩」に見ることが出来ます。これは史学でも同様の傾向がありますが、結局韓国では、事実を追及する研究は廃れ、荒唐無稽で牽強付会に満ちていても「朝鮮自尊心」を満たす研究結果だけが残るわけです。
要するに、深く詳細に研究されまくっている日本語と、ほとんど研究されてもおらず、その結果もさほど広く知られておらず、その上「朝鮮自尊心」を損なうような結果はなかったことにしてしまい、嘘でも駄法螺でも出鱈目でも、「朝鮮自尊心」を満足させる内容なら鵜呑みにするような研究が行なわれている朝鮮語では、比較そのものが成り立たないというのが、長年の韓国ウォッチャーの間では既に常識と言っても良いほどになっております。
故に、「日本語の祖語は朝鮮語」とか、「古代の日本人と朝鮮人は通訳がなくても話せた」などと口走る人を見かけたら、それが日本人であろうと韓国人であろうと、日本語についても朝鮮語についても、ほとんど理解していないか、あるいは言語にかこつけて何か別の意図を隠し持っている人であると考えて良いでしょう。
なお、その人が「朝鮮語の達者な日本人」や「日本語の達者な朝鮮人」であっても、それぞれの言語に対して誠実な学問的アプローチを行なった人とは限らないどころか、むしろそうではない人の方が圧倒的に多いという事実を、今一度確認しておくと良いと思います。
言葉を読み書き出来るというだけで言語学の謎が解明出来るなら、言語学など最初から要らないのです。
知らないなら全く知らない方が良い国
しかし「売り切れ御免!」のPOPとは裏腹に、初めて見かけてから1ヶ月近く経った現在も、積まれた山はちっとも低くなりません。もちろん、毎日その店に行ってるわけじゃないんで、もしかすると減った端からどんどん補充してるということも考えられますが、もしそうだとすると「売り切れ御免!」のPOPに何の意味があるのかと思います。ただ、私が見た限りにおいて、店内で辛ラーメンを手に取ってしげしげ眺めた後、また元に戻した人ならいましたが、カゴに入れる人を見たことはありません。
と思ってたら、別のスーパーでも、同じ辛ラーメン(3個パック+1個)が全く同じ値段で売られていました。業務スーパーは、商品価格にシビアなお客さんが多いのですから、普通のスーパーと同じ値段じゃそりゃ売れんわなと思いました。
と言うか、業務スーパーではない普通のスーパーの価格で見ても高いんです、辛ラーメン。
他のメジャーなメーカーのインスタントラーメンなら5個入りパックが300円前後、PB商品だったら同じく230円ぐらいで売ってるのに、辛ラーメンは3個パック+1個の、合計4個パックで278円ですから。
私の辛ラーメン体験は、後にも先にも一度っきりです。何故一度っきりと言い切れるかと言いますと、まだ私が親韓だった頃、韓国で一度食べて以来、二度と食うまいと心に誓ったからです。食べて旨い不味いは個人の嗜好によりけりですからともかくとするにしても、食後の胸焼けの甚だしさには本当に閉口しました。いくら無知な親韓だったとは言え、あの酷い胸焼けにまで親しみを覚えられるほど寛容ではありません。
ところで、その業務スーパーでは眞露のマッコリも売っておりました。
最近韓国が国を挙げて売り出しに乗り出しているマッコリですが、これも人から頂戴したものを一度飲んだきりで、二度と飲む気がしないのも辛ラーメン同様です。理由は、こちらは単純に旨い不味いの問題です。要するに不味い。
酒は、ラーメンのような食品と違って、嗜好品ですから、旨い不味いは食品以上に重要です。あれを飲むぐらいなら、これを飲みます。
ですからこれまでは、スーパーでマッコリを見かけても手に取ることもありませんでした。が、先日は魔が差したと言うか、何かネタになるかもしれんというヨコシマな思いが、マッコリを手に取らせました。
案の定と言うかお約束と言うか期待を裏切らないと言うか、マッコリのパッケージには「紀元前1000年から韓国の農民たちが仕事を終えた後に楽しんでいたともいう乳酸菌のお酒」などというキャッチコピーが記されておりました。
紀元前1000年頃の朝鮮半島と言えば、そもそも「韓国」などという国が存在しなかったのは言うまでもなく、朝鮮半島史においては箕子朝鮮時代に当たります。箕子朝鮮とは殷の紂王の叔父箕子が建てたとされる国ですが、それを示す史料はほとんどなく、実在したかどうかも定かではありません。ですので、当時朝鮮半島に住んでいた人々がどのような暮らしをしていたかも明らかではなく、ましてやマッコリを飲んでいたなどということを示唆するものもないでしょう。
それ以前に当時の朝鮮半島に、現在のマッコリの原型的な酒が存在したかどうかも、はっきり言って疑問です。
酒は、高く安定した品質の物を作るにはもちろん高度な技術が必要ですが、果物等の元々糖分を豊富に含む原材料を用いて、飲用可能なレベルの物を作る程度であれば、技術らしい技術はほとんど必要ありません。何しろよく熟した果物を容器に入れて適当に潰した後は、放っておけば出来るほどです。
しかしマッコリのように穀類を原料とする酒の場合は、穀類に含まれる糖分が少ないために、糖化という過程が必要になります。ですので、コメやムギその他の雑穀類を酒にするには、一定以上の技術がなければ製造そのものが不可能です。
紀元前1000年頃の朝鮮半島に果たしてそういう技術があったのか、仮にあったとしても、それがおそらくは当時の人口のほとんどを占める「農民」に行き渡るほど普及した技術だったのかどうかを裏付ける資料は、地球上に存在しません。
眞露がいったい何を根拠に、「紀元前1000年から韓国の農民たちが仕事を終えた後に楽しんでいたともいう」などと謳っているのか、「古ければ古いほどエライ、あるいはスゴイ」と思ってる韓国らしいと言えばそれまでですが、それにしてもよくもまあ抜け抜けとこんなハッタリをぶちかませるものだと思います。
しかし、こういう「朝鮮コケオドシ」に日本人が案外弱いのも、また事実です。
朝鮮史のことなど全く知らない日本人の方が普通でしょうから、韓国人に「ウリナラの歴史は半万年」と言われれば、素直に「へぇ、そうなのか」と信じるでしょう。「マッコリの歴史は紀元前1000年から」と言われれば、わざわざ調べる日本人の方が圧倒的に稀だと思います。
しかも韓国人からそう聞かされれば、「韓国人がそう言うのだから事実だろう」などと調べもせずに鵜呑みにして、更にそれを再配布する日本人がいるのはマッコリに限ったことではないということは、弊ブログで幾度も述べてまいりました。
ネットの巷で言われている、アメリカ軍人による朝鮮人の扱い方のひとつに「理由は聞くな。どうせ大したことは言っていない」というのがありますが、長年日韓チャットで韓国人と話した経験上で間違いなく言えることは、理由や言い訳に限ったことではなく、ほとんど全てのことで韓国人は「どうせ大したことは言っていない」ということです。要するに彼らが言いたいのは常に、根拠も何もない「ウリはスゴイ、ウリはエライ」という、ただそれだけだったりします。
韓国人の言うこと全てを「どうせ大したことは言ってない」と切り捨てるのは「朝鮮侮り」になるかも知れぬというジレンマはあります。しかし、韓国や韓国人の言ったことをじっくりはっきり調べるつもりがないという方なら、連中の発言は一切スルーする方が、迂闊に真に受けるよりは害が少ないのではないかと、手に取ったマッコリを元の場所に戻しながら思った次第です。
今、そこにいる工作員
もちろん、明確にそういう意識を持っている韓国人は多くありません。たいていは、自分が対日工作活動をしているなどということを全く意識していないでしょう。更に言えば、そのような教育を受けているという自覚もありません。
しかし彼らの多くは、積極的に日本人に対して、実に画一的な思想工作を行ないます。それにまんまとハマる日本人も、案外珍しくありません。
ネットでのコミュニケーションは、主として文字で行なわれるという性質上、そういう工作活動は目に見える形で残ります。だからある程度慣れれば、彼らの工作活動に気づけるようになる人は、多いと思います。少なくとも、警戒すべき言動のパターンに気づくことは、だいたい出来るようになります。
ただ、一般的に日本では、工作員による思想工作などが実際に行なわれているということは、あまり信じられていません。それは小説やドラマの中でのみ行なわれている絵空事か、仮に現実に行なわれているとしても、自分とは全く無関係なところで行なわれていることだという信仰があります。
もし仮に工作員と疑わしき人物や、工作活動ではないかと思われる言動に接することがあっても、ほとんどの日本人が俄にそう思うことはないでしょう。また、わずかにそう思うことがあったとしても、大抵の人が自らそれを否定するのではないかと思います。何故なら大抵の人に、「まさか自分の身近に、絵空事でしか存在するはずのない工作員が現れるはずなどない」とか、「自分がドラマのような工作活動のターゲットになるはずがない」という、全く根拠のない確信(=信仰)があるからです。
発言が文字で残るネット上であってもそうなのですから、録音や録画でもしていない限り、言動が全く残らない現実世界であれば尚更のことです。
工作員、よりドラマチックに言うならば「スパイ」と言っても良いのですが、その誰もが皆ドラマに出てくるように分かりやすいわけではありません。誰が見ても工作員でございという工作員では、いくらスパイ天国の日本と言っても何も出来ないでしょう。
彼らの多くは、平凡に暮らす普通の市民と全く見分けが付きません。中には、自らが工作員という自覚さえ乏しい者もいます。
北朝鮮による日本人拉致事件を、実際に金正日が認めて謝罪するまで、在日朝鮮人の多くは日本人の不当な差別意識によるでっち上げであると信じていたと言います。「わざわざ危険を冒して日本人を拉致して工作活動に使わなくとも、必要であれば我々在日朝鮮人を使えば良いだけのことだからだ」というのが、その理由です。
このことは、はしなくもそういう指令があれば、彼ら在日朝鮮人は祖国のために、日本に対する工作活動に協力する(あるいはせざるを得ないと思っている)ことを示しています。
先日、40年以上も日本に潜伏していた韓国籍の北朝鮮工作員が逮捕されたという報道がありました。
スパイ防止法のない日本ですから、逮捕理由は工作活動ではなく、不法滞在です。逮捕された当人は、工作活動は一切行なわなかったと主張していますが、それがどこまで本当かは、日本の法律では追及することが出来ないでしょう。
その上、日本では奇妙なことに「不法滞在」を「犯罪ではない」と言い切る連中が少なからずいます。そういう連中にかかれば、スパイ防止法もない日本では、不法滞在しながら工作活動をする可能性の高い人物でも、「法律を守って平穏に暮らす善良な一市民」として許容すべきであるなどということになるのです。
だから早急にスパイ防止法を作れと言うのは簡単ですし、それに反対するつもりはありません。が、まずその前に、私は日本人各人の意識の向上が必要不可欠ではないかと思います。日本人に防衛・防諜意識が全くないのに、法律だけいくらこさえても、さほど効果はないでしょう。
現実として、工作員はいます。それも極めて身近に。その意識と警戒心を、日本人が持つようにならなければ、いくら法律を作ってもそれはザル法にしかなりません。
もちろん、あいつもこいつもあの人も、皆工作員だと思い込むのは極端な話ですし、相互不信に陥りかねません。それに、当人に工作員であるという自覚がない場合も多々ありますので、一目で見分けるのは確かに容易ではないと思います。
ですが、工作員は必ずその徴候を見せます。例えば日韓チャットなどでは、韓国人と話していると、どんな話題であっても奇妙な違和感を覚えることがあります。歴史認識や竹島論議、日本海呼称問題やいわゆる従軍慰安婦問題等のように、あからさまに外交的確執や政治的意図のある話題であればわかりやすいのですが、そんな話よりは「韓国ドラマ好きですか?」などといった他愛もないように思える話でも、不思議な違和感を覚えるでしょう。
韓国人に「韓国ドラマ好きですか?」と聞かれたので、韓国ドラマなどあまり知らないが、そう言えば韓国人が気を悪くするかもしれないなどと気を使って、耳にしたことのある韓国ドラマの名前を言ってみるとします。すると、大抵の韓国人は大喜びして、一気に親しげな素振りを見せるでしょう。
しかし、だからと言って、その韓国人と韓国ドラマについての話になることはほとんどありません。それどころか、もしその日本人が本当にその韓国ドラマが好きで、内容や時代背景、出演者やその他のトリビアについてマニアックに語り始めると、大抵の韓国人はどっ引きます。
何故なら彼らは、韓国ドラマなどに最初から興味はなく、単に「この日本人が韓国(人)に好意的であるかどうか」を確認しているだけだからです。
この時、大抵の人が「あれっ?何のためにこの韓国人は私に韓国ドラマの話を振ったのだろう?」というささやかな違和感を覚えるはずです。しかし、同時に大抵の人が、「まあ、単なる話の取っ掛かりのためだろう」と解釈し、それ以上その違和感を自ら追及することは、おそらくないと思います。
こうして、その日本人が韓国にさほど詳しくはないが、韓国(人)に好意的であり、更に警戒心が薄いということがわかれば、韓国人にとっては工作活動にはまことにうってつけの人物ということです。あとは煮て食おうと焼いて食おうと、彼らの思いのままでしょう。
そういう韓国人に洗脳とまでは行かずとも、オルグされてしまった日本人は、やがて韓国人の立場でものを考え、話をし始めます。その日本人を隠れ蓑や矢面にして、彼らは更なる宣伝工作を推し進めるわけです。
実際、ネットの巷を逍遥していると、そういう日本人(と思しき人)を結構よく見かけます。特にツイッターなどは、そういう連中の温床と言っても良いでしょう。
既に弊ブログで何度もくどいほど言っていますが、これに対抗するためには、まず必要なのは法律よりも、日本人それぞれの意識だと思います。日本人の間で、対日工作活動に対する意識と警戒心が広く醸成されれば、スパイ防止法についての議論も、自ずから方向性が定まるだろうと私は確信しています。
韓国人の考える「肯定的」とは
あの絶叫連呼型とも言うべきスタイルの選挙運動は、個人的には選挙権を得る前から嫌いでした。とにかくうるさい。休みの日に心ゆくまで朝寝をしようと思ってるところへガンガン拡声器で「○○党の△△です、△△をよろしくお願いします」と繰り返されると、殺意さえ湧きます。選挙戦終盤頃になるとウグイス嬢の声も枯れ果て、半ば涙声での哀願になる陣営もありました。
必死な気持ちはよくわかりますが、私などはそんなやり方でしか票を集められない政治家に、何が出来るんだと思ってしまいます。政治家なら政策で勝負しろなんてのは、政治素人の青臭い意見と言われるかもしれませんが、そんな政治素人に哀願でしか訴えるものがない政治家なんて要りません。
そう感じる有権者が増えたのか、それとも候補者がやっと空気を読むようになったのかはわかりませんが、年を追うごとにそういうスタイルの選挙運動が減ってきたのは喜ばしい限りです。
選挙の際に、私たち有権者が毎回悩むのは「誰に入れりゃあ良いのさ」ということでしょう。支持政党があればそれほど悩みもしないのでしょうが、私のような無党派層は、積極的不支持の政党候補者を外すとしても、残った選択肢の中から誰を選んだら良いのか、その基準に悩むものです。
そうなると、めんどくさいから棄権しちゃうとか、投票するにしても「どれにしようかな天神様の言うとおり」で決めちゃうとか、酷い場合は知り合いに頼まれたからという理由で、言われた通りの候補者に投票しちゃう人もいるでしょう。その根底にあるのは「どうせ自分の一票なんて大勢に影響ない」という意識や、「政治なんて誰がやっても同じ」という侮りだと思います。
気持ちは、わかります。でもその考えが国民の間で飽和した時、それらは連鎖的に反応しあって、「一度やらせてみれば良い」という考えになり、結果として民主党政権を産み出してしまいました。そうやって発生した民主党政権による被害の半減期は、どれぐらいでしょうか。
選挙は、国民の権利であると同時に責任でもあります。投票前の10分間でも良いと思います。候補者がどんな主張を持って立候補しているのかを、ほんのちょっと調べるだけでも、ずいぶん違います。方法はそんなに難しくありません。ネットが使えなくても大丈夫。どの選挙でも、選挙公報というものがあります。それに目を通すだけでも、かなり参考になるはずです。
少しでも良い街、良い県、良い日本に住みたいと思いませんか?少しでも良い将来を、子供たちに残したいと思いませんか?そう思う有権者の方は、その思いをご自身の一票に込めて投じましょう。「どうせ何も変わらない」という考えは、ただ単に何も変えられないだけでなく、現状維持さえ出来なくなり、結果的に悪い方向へ変えられてしまうことがあるということを、民主党に政権を委ねた私たちは身にしみて実感する羽目になりました。それを今後の選挙で生かせなかったら、あまりにももったいないと思います。
さて、枕が長くなりましたが表題の件。
先日、日韓チャットで常連韓国人と話をしていると、「肯定的に考えたい」という発言が出ました。この「肯定的」という言葉、実は日韓チャットの常連、一見を問わずというか、現実でも、韓国人ならばたいてい誰もが非常に好んで用いる言葉です。
例えば、「韓国でボッタクリの被害に遭った。韓国人は悪い奴らだ」と韓国人に言えば、「否定的に考えず、肯定的に考えてください。そんな韓国人は一部です。全ての韓国人がそうではありません」などと言います。あるいは日韓チャットで、「大学の授業で自分の主張と異なる意見を聞いたが、他人の主張を肯定的に受け入れる良い経験になると思って黙って聞いた」などという韓国人もおりました。
確かに「肯定的」という言葉は、一見前向きな明るいイメージがあります。少なくとも「肯定的に考える」と言えば、悪いイメージにはなりません。実際、在韓日本人や親韓日本人などが、ブログやツイッターで「肯定的に考える」と言う韓国人を誉めそやしたりなんかしてるのも、ちょいちょい見かけます。
しかし、長年日韓チャットで韓国人と言葉を交わしてきた経験から言わせていただくと、韓国人の「肯定的」という言葉は、極めて彼らに一方的に都合の良い使われ方をしているとしか言えません。
「何事につけ、肯定的に考えたい」と言う韓国人は確かに珍しくありません。が、そう言う韓国人を捕まえて「では日本の韓国統治について、肯定的に考えてください」と言えば、あるいは「日本の竹島領有主張に対して、肯定的に考えてください」と言えば、その韓国人は理解を示すでしょうか。
日韓チャットにおける私の経験で言えば、そう言った瞬間に激怒する韓国人の方が一般的だと思います。どんなに冷静な韓国人であっても、「それは肯定的に考えることではありません」などと言い逃れるのが精一杯でしょう。
彼らの言う「肯定的」とは、大抵の場合「好意的」や「楽観的」あるいは「自己中心的」という言葉に置き換えることが出来ます。中でも特に「自己中心的」という意味合いで用いられる場合が珍しくありません。逆に「否定的」と言えば、「悪意的」や「悲観的」あるいは「現実的」という言葉に置き換えることが出来ます。
特に、韓国や韓国人関連については「現実的」であればあるほど、韓国人が聞くと「否定的」に聞こえるようです。故に韓国人に淡々と韓国の事実を述べると、大抵の韓国人が「すごく否定的に考えますね」と不満げに言います。
結局のところ、韓国人の「肯定的」は自己欺瞞であり、同時に他者に行使する欺瞞でもあります。さらに日本人はお人好しが多いので、韓国人の「肯定的」にコロコロ騙される人が少なからずおり、それが日本における韓流捏風の温床にもなっております。
もちろん韓国人や、韓国人に毒された日本人にそう言えば、「否定的に考えないで、もっと肯定的に考えてください」と言われるのでしょうけれど。
韓国人の抗議スタイル
しかし売春は、韓国では主要な産業のひとつと言えるほど盛んであり、そう簡単にはなくなりません。性売買特別法施行後、韓国では毎年のように売春婦自身による「売春をさせろ」「性売買特別法を廃止せよ」というデモが行なわれております。
今年も、韓国はソウルの永登浦という地区において、売春婦自身によるデモが行なわれたというニュースを、某巨大匿名掲示板で目にしました。この手のニュース自体は、長年の韓国ウォッチャーにはそれほど目新しいものではありませんので、今更改めて注目するつもりは特になく、実際当初はサラッと流し見するだけでした。
サラッと流し見終わり、「やっぱりプロの売春婦ともなると、顔は帽子とサングラスとマスクでわかんないけど、若そうでスタイルの良いねーちゃんが多いんだなあ」というほどの感想で終わった後、別件で何気なく中央日報の韓国語版を流し見ていたところ、見覚えのある画像が目に止まりました。
中央日報の日本語版には全く掲載されてない売春婦デモですが、韓国語版にはちゃんと載っているという辺り、韓国人らしい情報操作だと思いつつページを開いてみると、ご丁寧なことに動画までついております。
中央日報韓国語版の記事には2枚の写真があり、その内1枚は某巨大匿名掲示板の該当スレで見たものと同じ画像ですが、もう1枚は初見です。「韓国の売春婦は、若くてスタイルの良いねーちゃんばかりかと思ったら、結構ドスコイ体型のおばさんもいるんだw」などと思いながら、記事内容そのものは機械翻訳を通すのが面倒だったのでほとんど読まずに映像を再生してみました。
すると、日本語版の記事には全くそういう説明が載っていなかった、売春婦らがなにやらペットボトルやポリタンクに入った茶色い液体を掛けあってるシーンが映し出されました。
あれは何だろうと、日韓チャットで同じ記事を見ていた常連韓国人に聞いたところ、「カナリ液醤(キムチなどの漬け汁に用いる小魚の発酵液)です。カナリ液醤と、揮発油(韓国ではガソリンのことらしい)、そしてシンナー??」と、一緒に見ていた常連韓国人も少々困惑気味。
その常連韓国人の解説によると、その「カナリ液醤の揮発油割り」を互いに身体に掛け合い、「服が汚れたから新しい服を買おう」と言って売春街の真向かいにある大型ショッピングモールへ突入し、営業妨害を行なったということでした。
常連韓国人は、「私の個人的な考えだが」と断りつつ、「この売春婦らの行動はおそらく、ショッピングモールに対する八つ当たり、腹いせ、嫌がらせだろう」と解説しました。つまり、そのショッピングモールが売春街の真向かいにあるがために、ウリ売春街が摘発されるのだ、だからショッピングモールに嫌がらせをしようというのが、売春婦側の考えではないか、ということでした。
ただ、彼女らの掲げるプラカードには「性売買特別法を廃止せよ!」「死んでも生活根拠地を守る!」「代案なき閉鎖決死反対!」「来年4月の総選挙今に見ておれ!」等の、政府や関係機関に対する主張は書かれておりましたが、ショッピングモールに対する主張や不満は、少なくとも画像で見る限りでは一切書かれておりませんでした。
強い抗議の意を示すために、ガソリンや灯油をかぶっての焼身自殺やるやる詐欺は、過激なデモでは時々あること(やるやる詐欺のつもりが、うっかり火がつくことも稀にあるそうな)ですから、ガソリンをかぶったり掛け合ったりするという行為そのものは、危険だとは思いますがそれほど驚きません。
しかし、そこになんでよりによって魚の発酵汁?その発想はどこから?という疑問が浮かぶのと同時に、韓国人にはこの手の行動が、さほど珍しくないことを思い出しました。
即ち、抗議のために行なう攻撃と同時に、あまり意味があるとは思えない生理的嫌悪感に訴える自己破壊行動を行なうということです。それが軽度のものであれば、例えば自分の髪の毛を丸刈りにしてみたり、往来で服を脱いで仁王立ちしてみたりする程度ですが、エスカレートすると、生きた豚をデモの参加者で八つ裂きにしてみたり、雉を殺してその生肝を食って雄叫びを上げるなど、抗議とはほとんど無関係としか思えない上に、どう考えても本人にもダメージがあるだろう生理的嫌悪感に訴える行動に出ます。
あるいは、彼らが抗議のためにしばしばキムチを投げつけるという報告は「韓国人と仕事をして困った事」等でもありますが、今回の魚の発酵汁揮発油割りをかぶってみせるのは、その類型のひとつなのかもしれません。更に酷くなると、排泄物等の汚物を用いる場合も決して珍しくありません。
このような「生理的嫌悪感に訴える」という行動と同時に、「抗議の対象とは見当違いな方向、それも、より弱そうな相手に向かって攻撃する」というのも、彼らに非常に顕著に見られるパターンです。
今回の売春婦のデモにおいては、要求を伝え、抗議したり攻撃するべき相手は本来ならば政府や関係機関であるはずなのに、何故かその矛先がショッピングモールに向いたのは、まさに典型的と言って良いでしょう。
これと同様の現象は、例の燭火デモの際にも見られました。あの時デモ隊は、青瓦台(大統領府)への道を塞ぐコンテナを、デモの参加者が力を合わせて乗り越えたにも関わらず、何故か誰一人青瓦台へ向かおうとはせず、コンテナの上でデモ隊に向かって旗を振ってみたり、あるいはバリケードの戦闘警察バスを、まるで山車のように引き回して大喜びしたりしておりました。
結局、どんな主張を唱えるためであっても、どのような団体であっても、またどのような形態であっても、韓国人が行なう抗議行動は似たようなスタイルになるのだなと、今回の売春婦デモの記事を見て改めて確認した次第です。
これが韓国内だけで行なわれることであれば、私たち日本人は「うっわ、きったねえ、えんがちょ切った」とでも言っておけば良いだけなのですが、リアルで韓国人と関わる場合、彼らの抗議がどのような形でどこへ向かって行なわれるかを知っておかなければ、非常に危険であるということを、私たち日本人は周知しておくべきだと思います。
日本人を恐れる韓国人
鮮于鉦記者は朝鮮日報の東京特派員として、昨年まで5年余りも日本で暮らしていたこともあってか、韓国に戻っても相変わらず日本考察記事を書いているようです。
が、日本で生まれ日本で育つのみならず、祖父母のそのまた親の世代から日本に住んでいながら、韓国人であることから一歩も出られない韓国人がうじゃうじゃいるのですから、5年やそこら日本に住んだだけで、鮮于鉦記者が韓国人であることから一歩も出られていないのは当然で、彼の書く日本考察は、日本人が読むとクエスチョンマークの飛び交うものであることが珍しくありません。
しかし何事につけ、根拠がなくても自信満々なのが韓国人という生き物です。ましてや5年半も日本に住んだという事実があるのですから、鮮于鉦記者による日本考察が薄くて浅くて上っ面などとは、おそらく本人が一番思っていないでしょう。
ただ彼の日本人考察は薄くて浅くて上っ面ですが、彼の韓国人としての思考は、純度も濃度も100%です。ですからそんな鮮于鉦記者が書く日本関連の記事は、韓国人の対日意識を考えるのにはうってつけの資料と言えます。
この記事を読んでしみじみ思ったのは、韓国人の抱える日本人観というものです。以前から度々申し上げていることですが、韓国人から見た日本人というのは、まことに複合的な姿をしています。
韓国の新聞などに載る風刺漫画などで表現される日本人は、たいてい背広姿なのにちょんまげを結い下駄を履き、メガネをかけた出っ歯でちょび髭のチビです。韓国人がこういう漫画的なイメージで日本人を見ていることもあれば、たとえば竹島問題を話す時などは、意地を張って我を通そうとしている無知な子供を見るような意識で日本人を見ていることもあります。かと思えば、表面上は穏やかに微笑んでいながら、懐に鈍く光る刀を隠し持ち、隙を見せれば意味もなく襲いかかってくる裏表の激しい信用ならない卑怯者という印象も、彼らの間では根強いものがあります。
これらのような韓国人が抱く日本人に対する悪いイメージのほとんどが、実は彼らの自己投影であることは、韓国(人)を多少なりとも知った人には既に周知の事実ですが、韓国人自身がそれを自覚することはめったにありません。
ところが彼らの対日イメージは、こういう悪いイメージばかりではありません。極めて良いイメージも、必ず同時に持っています。
たとえば、先述の記事中にもありますが、日本製品に対する彼らの信頼と憧れは、もはや信仰と言っても良いほどです。あるいは日本人に評価された、日本で売れたと言えば、彼らが果てしなく有頂天になり、彼らの間でも評価が急激にあがるのは、キムチから韓国芸能人まで、一律のパターンと言っても良いでしょう。
韓国では「親日派」と言えば、どういうシーンで用いようと罵倒語でしかありませんが、「日本人のようだ」と言えば、これは必ずしも罵倒語ではありません。
日韓チャットではしばしば「やはり日本人だね」などと言われることがあります。これなどは彼らが抱く「悪い日本人のイメージ」が前面に出た場合ですが、これとは逆に「日本人ならもっと親切なはずだ(=お前は日本人ではない)」「日本人ならもっと親切にしなさい」という言われ方をされることも珍しくありません。「日本人=親切、思いやりがある」というのは、韓国でもステレオタイプな日本人の印象です。
このように彼らの日本人に対する意識は、モザイクのように複雑に入り組んでいます。そんな彼らの複合的な対日意識の根底にあるのは、「日本人は恐ろしい」という意識かもしれません。
それは先述の記事における「しかし、大震災による混乱を収拾し、為替レートというベールを脱いだ瞬間、強くなった日本企業はモンスターのように韓国の前に立ちはだかることだろう」という一文の「モンスターのように」の部分に象徴されているように思います。
普通、「立ちはだかることだろう」と言う場合は、「巨人のように」とか「高い壁のように」といった「巨大なもの」をイメージする言葉が続くはずです。ところがここであえて鮮于鉦が「モンスターのように」という言葉を用いたのは、彼らにとっての日本(人)が「巨大なもの」と言うよりは、「恐ろしいもの」という意識があるからではないでしょうか。
筆舌に尽くしがたいほどの大地震と津波に襲われ、更に原発事故まで起きているにも関わらず、日本人はパニックを起こさないどころか、号泣したり取り乱したりするものさえ極めて少ないことが、彼らには理解出来ません。もし韓国で同様の災害が起きれば、韓国人なら我を失って血を吐くほどに泣き叫び、天を呪い地を怨み人を憎むでしょう。それが韓国人に取って自然で当然の行動であり感情です。それを押し殺すことの方が、彼らにとっては不自然であり非人間的なのです。
ところが日本人は、命の瀬戸際という事態に直面しながら、実に淡々粛々としています。
テレビが映し出す日本人は、肉親や財産を失い、自らも被災して、心身共に間違いなく深く傷ついていることがモニターを通してもはっきり窺えるにも関わらず、取り乱して泣き喚くどころか、溢れ出す嗚咽さえ噛み殺そうとしています。誰かから、そうしなければ殺すと脅されているとかならばともかく、自主的且つごく自然にそういう行動をとる日本人に、韓国人は底しれぬ恐怖を感じているようです。
彼らの、日本人に対する複合的な意識は、こういう恐怖に根ざすのではないでしょうか。
実際、日韓チャットで見る彼らの日本人に対する振る舞いは、時に鎖につながれた猛犬をからかうような態度を彷彿とさせます。鎖の届かぬ位置を確保した上でならば、安心して誰もが恐れる猛犬をからかうことで、自他に自らの勇敢さを誇示出来るという意識です
あるいは映画「韓半島」で、日本の海上自衛隊が韓国に矛先を向けただけで、交戦どころか一発の銃弾を発したわけでもないのに韓国軍が震え上がるシーンがありましたが、あれに韓国人が全く違和感や拒否感を覚えなかったところからも、日本人に対する恐怖感が彼らの共通意識であることが窺えます。
私たち日本人から見た韓国人は、実に化け物じみた生き物ではありますが、どうやら韓国人が見る日本人も、彼らにとっては恐るべきモンスターのようです。
ただ、彼らから見る日本人は、理解不能の恐るべき凶暴な怪物なのかもしれませんが、私たち日本人から見る韓国人は、穢らわしくも煩わしい魑魅魍魎という違いはありますが。
韓国に評価される政治家は要らない
日本の政治家は日本の国益を第一に考え、日本国民の民意をはかり、それに応じるべきというのは、改めて言うのも赤面するぐらい当たり前のことです。しかし不思議なことに日本では、しばしばそうではない政治家が出現します。
直近では土肥隆一衆議院議員が、日本の竹島領有権主張の中止などの、韓国側の一方的な主張を全面的に認める共同宣言に署名したり、外務大臣や総理大臣が在日韓国人から政治献金を受け取っていたりします。
韓国から支持されたり評価される日本の政治家は、即ち日本より韓国の国益を第一に考えている政治家と考えて間違いありません。たとえ韓国の益を優先的に考えるとしても、ひいてはそれが日本の国益になることでもあるならば、ある程度は目をつぶっても良いのではないかと考える人もいるかもしれませんが、少なくとも韓国は、たとえそれが韓国の損になることであったとしても、日本に損をさせられれば嬉しいと考える国です。逆に言えば、たとえもし韓国の益になるようなことであっても、それが同時に日本の国益にもなることであれば、彼らは絶対にそれを評価しません。
これは、かつての日韓併合を振り返れば明らかです。日韓併合後、日本から朝鮮半島に莫大な資本が注ぎ込まれました。それによって朝鮮がものすごい勢いで近代化し、多くの朝鮮人が莫大な利益を得たという事実があるにも関わらず、現在の韓国人がそれをわずかでも評価することは絶対にありません。
「日本による朝鮮半島の近代化は、日本が利益を得るという欲のために行なわれたものであって、純粋に朝鮮のためを思って行なったものではない」というのが、彼らの言い分です。
あの当時、日本は朝鮮半島を近代化するために、日本の東北を始めとする地方を犠牲にしました。ただに整備が行なわれないばかりではありません。東北は朝鮮から流入する安い米による米価の低迷に苦しめられ、更に相次ぐ大凶作に見舞われ、飢餓と貧困に苛まれます。一家が生き延びるために、女工哀史やおしんなどに象徴される貧困ゆえの身売りが盛んに行なわれ、それは226事件の遠因になったとも言われています。
そういう国内の犠牲に目をつぶってでも、日本は朝鮮に莫大な国富を注ぎ込み、近代化を行ないました。当時の日本は、そうすることが日本の生きる唯一の道だと信じたからでしょう。
しかし、それは無残に破綻しました。日本が、文字通り身を削るようにして資本を投じ整備した朝鮮半島は、敗戦によってむしりとられ、そのまま朝鮮人の物となりました。それが結果的に良かったと言えるのは今だからであって、当時はまさに断腸の思いであったでしょう。
現在、日本と朝鮮半島は別々の国です。朝鮮半島と言っても北朝鮮と韓国に分かれていますが、そのどちらも、日本にとっては歴然と外国です。
にも関わらず、日本の政治家には、日本人よりも韓国人を慮る発言や行動を見せる者がおります。そういう政治家の頭の中では、韓国は今も日本の一地方なのかもしれません。
韓国は韓国で、在日韓国人は日本での参政権を異常なほど欲しておりますし、本国韓国でも言論は常に日本の政治家の是非を論じます。しかもそれは「韓国に取って都合が良い政治家か、それとも都合の悪い政治家か」という基準であるだけならばともかく、「(韓国人として)正しい良識を持っている政治家であるか否か」という基準で論じられるのです。
日本の政治家でありながら日本よりもまず韓国を慮る政治家が増え、韓国人としての正しい良識を持つよう日本の政治家に求める韓国と親密になれば、日本は再び日本国内を犠牲にして、韓国の利益を優先するようになると考えるのは、決して私の被害妄想ではないと思います。
それどころか、もし何もなければ、今でも日韓友好の美名の下に、日本の韓国に対する利益誘導を、支持とまではいかなくとも、容認あるいは黙認する日本人は少なからずいたとさえ考えます。
しかし3月11日に、東北地方太平洋沖地震によって東北地方を中心に甚大な被害が発生しました。しかも1ヶ月を過ぎた現在もなお事態の収束どころか、被害の全貌さえ見えません。その影響は日本全土を覆っています。
かつて東北地方を見殺しにしてでも朝鮮半島に注力した日本ですが、今回こそは、国を挙げて東北地方を復興させなければなりません。それこそが、現在の日本の生き残る道なのです。
この国家の危急時に、いまだに韓国を日本の一地方と勘違いしている政治家や、韓国人として正しい意識を持つよう日本の政治家に求める韓国などは全て切り捨てるべきです。
主義や主張もさりながら、何よりもまず日本のことを最優先に考える政治家を、私たち有権者は選んでいかなければならないと思った統一地方選挙前半戦でした。
日本の復興の行方を占う第17回統一地方選挙
今回被災された皆様のお気持ちは如何ばかりかと思うと、本当に申し上げる言葉もございません。今回の震災に対し、何の知恵も力も持たない私ですが、せめて私に出来ることを出来る範囲ですることで、わずかでも復興の力になりたいと、少なくとも足枷にはならぬようにしたいと思います。
さて、震災被害の対応と復興に向けて、最も知恵と力を持っているべき日本政府ですが、現在までの対応は評価にさえ値せずとしか言いようのないレベルです。
震災発生から一ヶ月近く経っているのにこの体たらくですから、おそらく今後も同様でしょう。とにかくやることなすこと後手にまわるわ決断力に欠けるわ責任感は無いわで、韓国にさえ「日本(政府)が無能だ」などと言われております。そういう発言が出た経緯はさておき、日本政府が無能という一点については返す言葉もありません。
というか、以前「日本の政治に朝鮮人が関わればどうなるか実験中」という記事で書きましたが、現政権を牛耳る朝鮮人のような人々が、この機に乗じて日本を永眠させるつもりなのではないかと勘ぐりたくなるほどの酷さです。
そこまで言うなら、もし現在も自民党政権であれば、今回の震災に際し一点非の打ち所のない対応が出来たと思っているのかと、民主党支持者や「民主党に一度やらせてみれば良いじゃない~」などと言ってた方々は、きっと言いたくなることでしょう。
私は積極的自民党支持者ではありませんが、仮に自民党に対して信仰に近い信頼を抱いている支持者であったとしても、「自民党なら今回の震災に際し一点非の打ち所のない対応が出来たはずだ」とは思わなかっただろうと思います。だからこそ、震災直後は現政権で対応していくべきだと思いました。何故なら一刻を争う対応が必要なこの時に、政策云々で指導層が混乱を起こせば、それだけで対応にロスが出るだろうと思ったからです。
今回の震災に「一点非の打ち所のない対応」など、誰であろうと神ならぬ身の人間に出来ることではありません。誰が何をどのようにやろうと、絶対に百点満点の対応は出来ません。その時点で考え得る最高の対応をし、最高の選択をしようと、それに対する批判や非難は、後から必ず出てきます。それは現政権が自民党であろうと民主党であろうと同じです。
ただ今回の事態は、戦争にも匹敵する非常時です。自らが持つ権力と責任において、たとえそれが民主主義に悖ると非難されようとも、強権を発動してでも事態の収拾に当たるのが政権を担う者の責務です。それに対する責めは、事態が収束してから存分に受ければ済む話です。
どの政党がやろうと批判や非難は必至ならば、政権を担っているという責任感と覚悟さえある政党ならば、たとえ平時の政策に不満があるとしても、この非常時に足をひっぱるべきではないと思い、今は民主党政権の是非を言うべき時ではないと、震災直後は思いました。
しかし今までの民主党政権の対応を見る限り、現政権に「政権を担っているという責任感と覚悟」があるようには、全く見えません。
自民党が政権与党であったとしても、その対応は民主党政権と大差なかったかもしれません。しかし、ひとつだけはっきり言えることは、長年政権を担っていた自民党であれば「政権を担っているという責任感と覚悟」だけはあったでしょう。
ただ、もし仮に現在自民党政権であれば、民主党は全力を挙げてその足を引っ張っていたでしょう。それは現在の民主党政権の挙動から言っても、疑う余地がありません。それを思えば、今が民主党政権であることは、そうでなかった場合よりはオールジャパンの態勢が取れているとも考えられるのが、唯一の救いと思うことは出来ます。
とは言え、そのことだけで民主党の酷さを補うには限界があります。
以前「日本人としての意識と自覚を持つために」という記事で民主党を批判したら、「果たして「どこ党」が相応しいと言いたいのでしょうw 」などというコメントが付きましたが、そう言う方は私が「皆さん!ホニャララ党に入れましょう!」と言えば、何も考えずにそれに従うとでも仰るのでしょうか。それは、「一度やらせてみれば良い」というマスコミの煽動に乗って、深く考えずに民主党に投票するのと、どう違うのでしょうか。
明日は、第17回統一地方選挙の前半戦となる投開票日です。
個人の一票は、確かに小さな一票です。あってもなくても大勢に影響なくね?と思ってしまいそうになる気持ちはわかります。しかし、現実にそういう一票が積み重なって、民主党なんかに政権を渡すことになってしまいました。その結果、失ったものは小さくも少なくもありません。
今回の投票結果次第で、何もかもが劇的に変わるなどということも、おそらくないでしょう。しかし小さな方向転換であっても、今ここで変えることが出来れば、将来到達出来る位置は必ず大きく変わってきます。
どうぞ有権者の皆様方におかれましては、各自よく見よく聞きよく考えた上で、責任ある一票を投じられますよう、皆様と同じ小さな一票を持つ無名の市民の一人として、申し上げたいと存じます。
頭のない幽霊に睨まれて怯える韓国人
日本は世界唯一の被爆国であるためか、小学校から原爆の恐怖と同時に核アレルギーを植えつけられている日本人がほとんどでしょう。もちろん、私もその一人です。
しかし、そのためにかえって「原子力」や「放射能」についての知識は、極めてイメージ優先で、実際にそれらがどういうものなのかを詳しく調べたことのある方は少ないのではないでしょうか。「放射能」「放射線」「放射性物質」の区別さえ今ひとつ明確でなく、漠然と「ホーシャノーは怖い」というイメージだけで怯えている方は多いのではないかと思います。
もちろん私も例外ではありません。今回の事故が起きるまでは、私も「放射能」「放射線」「放射性物質」の区別はほとんどついていませんでしたし、漠然と「ホーシャノー怖い」と思っていました。しかし、今回の事故を受けていろいろ調べていくに従って、それらの区別はもちろんのこと、「放射線や放射性物質を侮ってはいけないが、過剰に怯える必要もない」ということも理解出来ました。
ごく簡単に「放射能」と「放射線」「放射性物質」の違いを説明すると、「放射能」とは読んで字の如く、「放射する能力」のことです。では、何を放射するのかと言うと「放射線」です。この「放射線」を放射する能力を持った物質のことを「放射性物質」と呼びます。
ですので、極めて厳密に言うと、「放射能漏れ」や「放射能汚染」という言葉は語弊があることになります。が「放射性物質漏れ」と言うとなんだか冗長ですし、「放射線汚染」と言うと「線」と「染」がどちらも「セン」で同音のためにどうも語呂が悪いので、個人的には語弊を承知の上であえて「放射能漏れ」「放射能汚染」という言葉を使っております。
これらについて詳細な解説を始めるには、私の知識は余りにも付け焼刃ですし、また解説自体も大変莫大な量になり、弊ブログのテーマからも大きく外れます。ですので、ここで詳しく申し上げることはいたしませんが、興味のある方は各自で検索なさってみてください。極端な文系の私にもわかるぐらい易しく説明しているサイトはちょっと調べればナンボでもありますし、もし説明中にわからない単語があれば、それをまた改めて検索すれば嫌でも芋づる式に調べるハメになって、根を詰めれば一週間程度で原子力や放射能に関するごく基礎的な知識を備えることが出来ます。
とにかく今回の原発事故に関連して、私が素人なりにいろいろ調べ、また情報交換をした結果、はっきり言えることは前述したとおり、「わけもわからず侮るのは当然危険だが、わけもわからず無闇に怯えるのも危険」という、別に放射線に限った話ではないごく当たり前のことです。
これは例えば、狂牛病や新型インフルエンザなどでも同様のことが言えます。
それが何なのか、どういう経路で害を及ぼすものなのかを全く知らないまま、漠然とした恐怖のイメージだけがひとり歩きし、そのイメージに怯えた人々や、その恐怖を利用しようと企む人々によって更に正体不明の恐怖感だけが拡大再生産されてパニックとなった具体例が、2008年に韓国で起きた燭火デモではないかと思います。
当時の韓国では、「韓国人だけが特別に狂牛病に罹りやすい」とか「紙オムツや生理用ナプキンからも感染する」などと言った根も葉もない噂が韓国人の恐怖を煽り、誰もその根拠や情報源を確認しないまま、さらに各自が持つ恐怖のイメージを付け足した情報を再発信することで、結果として実態をはるかに超えた恐怖のイメージだけが暴走しました。
そうなると、そもそも何故それを恐れるべきなのかが全然理解出来ていないので、どんなに易しい説明であっても理解出来ません。理由も理屈もわからないままに抱いた「韓国人は狂牛病になって狂い死にしなければならないのだ」という恐怖のイメージが、彼らを連日のデモに追い立てたのです。
以前、日韓チャットの韓国人が私たち日本人を怖がらせようとして「後ろを見てみろ。頭のない幽霊がお前を睨んでいる」という言葉を放ち、日本人を怖がらせるどころか爆笑を誘ってしまったことがあります。日本人なら「頭のない幽霊が睨む」という漠然とした不安と恐怖を煽るイメージよりも、「睨むには目が必要で、目は頭に付いているもので、頭がない幽霊がどないして睨むねん」という理屈が勝つわけですが、理屈よりもイメージが優先する韓国人としては、理屈に合わずとも自分が恐怖を感じるイメージで、大真面目に私たち日本人を怖がらせることが出来ると思ったのでしょう。
今回の原発事故についても、「ホーシャノー」というイメージを恐ろしいと思うのはわかります。またテレビやマスコミの解説も、初めて聞く単語や単位、難しい専門用語が溢れかえっており、素人が俄にそれら全てを理解することは確かに困難です。しかしだからと言って何も知らないままイメージだけで怖がっていては、どんなに易しい説明を受けても、それが正しいかどうかさえ判断出来ません。
難しいことは政府と関係者と専門家だけが分かっていれば、彼らがどんな決断を下そうと、彼らのなすがままで全く構わない、それが自分にどんな結果をもたらそうとも全て甘受する、後から一切文句は言わないという覚悟が出来ている方ならば、何も知らず、また知ろうともせずにいても構わないでしょう。
しかしそうでない方ならば、政府と関係者と専門家の発言や解説が、どういう意味なのかを把握する程度の知識と理解は持っているべきではないでしょうか。それが有権者としての責任でもあると思います。
震災前の平時には、上から目線でご高説を垂れ、「敵を知り己を知れば百戦危うことなかれ」(正しくは「彼を知り己を知れば百戦殆うからず(知彼知己者、百戦不殆)」)などと嘯いていながら、いざ震災が発生した途端に、誰よりも余震に怯え停電に怯えホーシャノーに怯え、怯える余りに恐れるもの全てから目を逸らして、漫画やアニメの話題に逃れることで恐怖を誤魔化している日本人を知っていますが、そういう人々が主流を占めているのが韓国人社会であることを知る私たちは、それを反面教師とするべきだと思います。