日本が属する「世界」と韓国が属する「世界」は違う
さて、いつも感じることですが、日本が属する「世界」と韓国が属する「世界」は、どうやらそれぞれ別の「世界」であるようです。だから日本と韓国は、いつも食い違います。何事につけ、正反対と言っても良いぐらいです。中には、日本に対する敵愾心から、あえて逆のことをしているのではないかと疑わせるものもあります。例えば、食事の作法なんかがそうです。
日本では、右手を「箸を持つ方の手」、左手を「茶碗を持つ方の手」と言うように、食事の際には茶碗を手に持つのが作法です。ところが、韓国では茶碗を手に持つのは、乞食の作法などと言って忌みます。
しかし、18世紀の朝鮮画家が描いた風俗画や、1970年代の韓国の両班家や農家を調査した文化人類学者の写真資料を見る限りでは、韓国でも茶碗を手に持って食事をしている例が珍しくありません。
そもそも、茶碗は成り立ちから言っても、その形状から言っても、手に持つように作られているのは明白です。茶碗を手に持たず、卓上に置いたまま茶を喫する作法を持つ国を、少なくとも私は一例も存じません。もしご存知の方がいらっしゃったらお知らせください。
韓国の食器はステンレスやアルミなどの金属素材が主で、そのために熱いご飯や料理を入れると、熱くて持てなくなるからなどとも言われていますが、ステンレスやアルミの食器を庶民が日常的に使えるようになったのなど、ごく近年の話です。故に、それも後付けの理由にしか思えません。
こういったコジツケや後付けの説と比べると、現在の韓国で茶碗を手に持つのが無作法とされるのは、日帝統治時代、茶碗を手に持って食べることを日本人からやかましく言われた反動ではないかという説は、強い説得力を持ちます。あるいは、日帝統治が終わった後も、引き続き茶碗を手に持って食べる韓国人は「チョッパリがやかましく言ってた礼儀作法を、今も律儀に守ってる」=「親日派」と見なされ、糾弾や迫害を受ける恐れがあったのかもしれません。
しかし日韓の差異が、全て日本に対する韓国の反発や親日派疑惑から逃れるためだけではないでしょう。
日本では、個人の感情をTPOをわきまえずみだりに垂れ流すのは大人気ないとされます。が、韓国では個人の感情はところ嫌わずなりふり構わずぶちまけるのが、「人間らしさ」とされています。
そう言えば「人間らしさ」という言葉も、日本と韓国ではずいぶんニュアンスが異なります。
元来、「人間らしさ」とは、かなり曖昧でいろんな意味に取れる言葉ですが、日本では「人間らしい生活」とか「人間らしい感情」などと言って、「機械的でない」とか、「本能を理性でコントロールしようとする」というニュアンスで用いる傾向が強いのではないでしょうか。
ところが韓国では、「人間らしさ」と言うと、これは概ね「本能や感情の赴くままに行動すること」です。欲しい物を見ればそのまま取って懐に入れ、食べたい物があればそのまま取って食らい、泣きたくなればそのまま泣き、笑いたい時はそのまま笑い、頭に来ればそのまま激怒するのが、韓国で言うところの「人間らしさ」です。
私などは、韓国人が「人間らしい」と言うたびに、「それは【ケダモノらしい】の間違いではないのか」と思いますが、韓国人から見れば日本人は、まるでロボットのように非人間的に見えるのでしょう。
道徳律も、日韓では大きく異なります。韓国の場合、道徳律に日帝統治時代の影響が強く残っており、それが彼ら自身を混乱させている部分はありますが、例えば韓国の「嘘」に対する認識が、日本と真逆と言っても良いのは、弊ブログをご覧の皆様ならば、既によくご承知のことでしょう。
日本では、嘘をつくことは基本的に悪いことです。もちろん、「嘘も方便」などと言って、ある程度ケースバイケースな部分はあります。ですが、自分の保身や利得のため、あるいは他人を陥れたり傷つけるためにつく嘘、即ち利己的他害的な嘘は、ほぼ認められません。
翻って韓国では、嘘は呼吸と同じと言われるぐらいナチュラルに用いられます。そのほとんどが、後先を考えない利己的あるいは他害的な嘘です。「韓国でも嘘は非難されます」と言う韓国人は少なくありませんが、もはやその言葉自体が嘘です。もちろん、いくら韓国人と言っても「嘘しか言わない」というわけではありません。しかし9割の言葉が真実であっても、そこに1割の嘘が混じれば、全てが嘘になり得ます。彼らはまるで、発する言葉には必ず嘘を散りばめるのが作法とでも思っているかのようです。
しかも、韓国社会はそれを許容します。むしろ歓迎すると言っても過言ではありません。例えば、男性が婚約者の親に挨拶に行って、自分は三星の基幹企業の幹部候補生だなどと自己紹介します。本当は、三星の下請け会社の取引先の孫請けの工場の出入りの業者のアルバイト経験者でしかなくても、平然とそう言います。
婚約者の親はそれを聞いて、まあ嘘だろうなと思うそうですが、別に怒りません。特に追及もしません。逆に「それぐらい大きなことを言える男でないと、頼りない」などと言って、ご満悦なのだそうです。
今挙げた以外にも、様々な点で日本と韓国は大きく異なる物事は少なくありません。それらは、単なる文化差と言ってしまうには、あまりにも大きく、隔たりのある差です。常識に違いがあっても、良識に違いが無ければ、互いに文化差は何とか乗り越えていくことが出来るかもしれませんが、日本と韓国は、常識ばかりではなく良識さえも大きく異なるのです。
そんな連中と、相互理解など成立するはずがありません。これまでがそうだったように、これからも日本人側が、一方的且つ片務的に理解と負担を求められるだけでしょう。
日本の属する「世界」と、韓国の属する「世界」は互いに異なり、互いに重なることはありません。無理に合わせようとしたり重ねようとすれば、かえって強い歪みを生むことになります。それは100年前に、私たちの先祖が身を持って示しました。先人が身を持って示した教訓を私たちが生かせぬことは、私たちの子孫に禍根を残すこととも言えるでしょう。
日本人に対し韓国人が、事あるごとに日本と韓国は似ているという印象操作を図ることは、以前にも幾度か示したことがあります。それに対して、私たち日本人は事あるごとに、日本と韓国が互いに異なる「世界」に属し、決して重なることがないことを、誰よりもまず私たち自身に、周知徹底していかなければならないと思う次第です。