「愛国」について
ただ、「韓国を見つめることは、巡り巡って日本を見つめることになる」ということは、これまでに幾度か述べたことがあったのではないかと思います。
ですので、前回記事で愛国心について触れた際、私は出来るだけ平易に、私の考える「愛国」について述べたつもりでした。
しかしコメント欄を見ると、それが上手く伝わっていない方がいらっしゃるようなので、再び「愛国」について述べたいと思います。
まず基本的に、日本人の愛国とは、【日本を大切に思う気持ち】だと私は考えております。それは前述したように、押し付けたり押し付けられたりするようなものではなく、日本人として日本に生まれ育った人ならば、普通は自然に持つ感情だと思います。
戦後左傾教育を受けた世代は、日本に対する強烈な自虐意識を刷り込まれていると言います。私も戦後左傾教育全盛期育ちですから、それは実感として理解できます。
理解はしますが、同時にそれをエクスキューズにして許されるのは中2まで、大目に見ても18歳ぐらいまでだと思うのです。その年齢をダブルスコアで超えている、どこの国に出しても立派に成人で通用する年の大人が、それをエクスキューズにするのはどうかと思うのです。
インプリントがあるのはわかります。しかしもはや私たちの世代は、次の世代を教育する立場の世代なのです。私たちの世代が受けた歪んだ教育を、そのまま次の世代に受け渡して良いとは、私は断じて思いません。
ひとつ思ったのは、「愛国」について何か勘違いしている人が、いずれの立場にもたくさんおられるのではないかということです。
例えば、「愛国でなければ日本人じゃない」と言う自称「愛国者」がいれば、それはその人が間違っております。
愛国であろうとなかろうと、思想がどうだろうと血統が何であろうと帰化人だろうと、日本国籍を持つ人は日本人です。「愛国」に関して分類したいのであれば、「愛国心を持つ日本人」と「愛国心を持たない日本人」で分けるべきでしょう。
同じように、「嫌韓なら愛国であるべき」というのも、一方通行を逆走しております。愛国であるが故に、韓国の日本に対する無理無体キチガイっぷりが許せないのです。愛国でないならば、韓国が日本を蝕んでも、何も咎める理由がないではないですか。韓国の無理無体キチガイっぷりがただ単純にムカツクし嫌いなだけと仰るなら、別にそれでも私は構いませんが、「だったら見るな」と韓国人に言われたらどう返答すれば良いのかは、私には思いつきません。
「愛国」を押し付ける人がうざいのは、「愛国」がうざいからではなく、「押し付けられるから」うざいのです。それをはき違えてはいけないと思います。「愛国」の部分が「トンコツラーメンの旨い店」や「うちの子自慢」になっても同じなのです。
愛国じゃないけど護国、愛国じゃないけど愛郷というのも、「差別は悪いけど区別なら良い」というのと同じ言葉遊びの類にしか見えません。
昨日、月見チャットに愛国心アレルギーな方に配慮すべきと主張された方が見えられた際に「護国」とは何ですかとお聞きしたら、「国を護ること」だと仰られました。ではそのモチベーションは何ですかと問うと、「個人的には、日本という国が脅威にさらされているという切迫感」と仰られました。
しかし、日本に対する愛国心がないなら、別に日本という国が脅威にさらされても良いのではないでしょうか。世界に国はいくらでもあります。そもそも「愛国」でないなら、「韓国が蝕もうとする日本」など捨てて、そうではない国を求めても良いのではないかと思います。かつて対馬の市長が「やっぱり日本政府がこっちを見らんようになったら、もうどっか衛星国として売りますかな。対馬を」と言ったように、「愛郷心」さえあればその故郷が日本に所属している必要性はないでしょう。
こう言えば「愛国否定派」の皆様は、なんと意地悪なことを言うのかと思われるでしょう。しかし、韓国人は、日本人のこういうところを、すかさず巧みに、しかも目につかないように突いてくるのです。調子に乗ってやり過ぎて隠し切れなくなったのが、フジテレビを始めとする日本メディアの偏向報道や韓流のゴリ押しなのです。
弊ブログでは、チャットログを始めとして、あの手この手でそれをお伝えしてきたつもりでした。時に文章が長過ぎる、時に表現が舌足らずだと叱られながら、それでも一所懸命お伝えてしてきたつもりです。ですが、全く十分ではなかったことを、しみじみ思い知らされた今回の「愛国」論でした。