韓国に見習え
先日、月見チャットで「韓国ウォン安誘導説のウソ」という記事が話題になりました。
この著者は、在韓日本大使館に書記官として勤務していた経験があるためか、韓国経済に詳しいと自負しているようです。しかしその論説内容を見ると、酷い欺瞞が散りばめられています。そういう意味では、「韓国らしい主張」だとは思います。
ある程度韓国を知る者ならば、この著者の一連の主張が韓国的欺瞞に満ち溢れているものであることを、誰でも容易に読み取れるでしょう。著者がそういう意味で、「韓国」というものを体現してみせていると言うのなら理解出来なくもありませんが、主張そのものを以て「韓国経済のスペシャリスト」として政治家や経済人のブレーンをしていたり、大学で学生に教授しているとすれば、日本を誤った道へ誘う者と言わざるを得ません。
この手の「韓国を見習え」は、日本では別に今に始まったことでも、珍しいものでもありません。困ったことですが、もはや日本の伝統と言っても良いぐらいです。韓国のことなど何も知らない日本人ならころりと騙されるでしょうし、実際騙されてしまった日本人も多いでしょう。逆に韓国を知ってしまった日本人なら、この手の論説を見ると、韓国に見習うことなど一切ないと脊髄反射したくなります。
ですが「韓国に見習うべきことなど全くない」と言い切れば、それは多少の語弊があるかもしれません。
もちろん、前述のような「韓国的欺瞞」に満ち溢れた御説を鵜呑みにしろという話ではありません。鋭い方なら、もうオチは読めると思います。お察しのとおり、彼らの「反面教師」としての優秀性を、私たちは看過すべきではないというお話です。
嫌韓をやっていると、韓国の悪さ汚さ酷さにはほとほと辟易します。その中で何より酷いのは、韓国人そのものです。韓国人そのものが韓国の悪さ汚さ酷さの根源であり、元凶だと思います。
もちろん「韓国人」と言っても、現在ではおよそ5000万人ほどいるらしいので、中には見るべき韓国人もいるでしょう。と言うか、いて欲しい。
けれど見るべき韓国人がいるかいないかは、この際問題ではありません。先日、日本に留学していたことのある韓国人が慰安婦について、日本側の主張に沿った意見を韓国の掲示板に投稿し、その結果検挙されたという記事がありましたが、これは韓国では珍しいことでも驚くべきことでもないのです。韓国社会が韓国人で形成されている限り、「見るべき韓国人」が仮にいたとしても、その「見るべき韓国人」が表立って声を上げることは不可能というのが、韓国社会の現実なのです。
だから韓国(人)は、変わりません。いや、表層は変わります。彼らが軽々と姓を変え、名を変え、生まれ日を変え、服を変え、顔を変え、思想を変え、言葉を変え、歴史を変えるように。
しかし深層は、昔も今も、これからも変わりません。
私たちが「韓国に見習う」のは、韓国をそのまま「見習う」のではなく、韓国を「悪い見本」として、また自分が「韓国人的所業」をしてしまった時の反省材料として、あるいは韓国人と対峙する際の武器とするためなのです。
日韓チャットで韓国人と話していると、自分が物凄く賢い人のような錯覚に陥ります。30代40代で、大学を出たと言う韓国人でも、日本の10代前半の子供と変わらないようなことしか言えないからです。逆を言えば、日本人でも10代前半程度であれば、韓国人と変わらぬことを言ったりしたりすることもあるわけです。いわゆる「中二病」の時期なら尚更でしょう。その上残念なことに、長じてもなお「韓国人のような真似」をする日本人も間違いなく、しかも少なからず存在します。
韓国人に合わせていれば、その時は楽だし、優位に立ったような気になれるわけですから、気分が良いのはわかります。ですがそれに溺れてしまったのでは、彼らのレベルに落ちることはあっても、上がることは出来ません。
彼らを客観視することで、「人間、ああなっちゃオシマイ」ということを実感し、常に自らの戒めとするという意味で、「韓国に見習え」は必ずしも間違いとは言えないかもしれないと、私は考えています。