執拗にくり返される韓国起源説
今回も、「日本語の水源」と題する一連の寝言を開陳する人が現れました。
弊ブログのコメント欄は、かなりの長文投稿が可能です(12,000文字まで確認しました)。それでも収まり切らぬと言うのであれば、それはコメントとしてではなく、ご自身の主張として、ご自身でブログやホームページを用意するなり、本を書くなりするべきものでしょう。
それに、その場限りのハンドルネームさえ名乗れない無責任な態度でいくら何を述べても、その内容に説得力を感じることは一切ありません。すなわち、意味のない大量の文字列を投稿するコメント欄荒らしと同列とみなされてもしかたありません。
と言うか、「日本語の水源」とやらで始まる一連の寝言は、真面目に突っ込むまでもなく意味のない文字列でしかありません。「言語学のようなもの」を書き散らかす暇があるなら、弊ブログに書いてある文章が読めるだけの読解力を養うのが先ではないでしょうか。
とりあえず「古代朝鮮語」についての御託を述べたいのならば、まずは肝心の「古代朝鮮語」の資料を携えてお越しになるべきでしょう。それもなしに「古代朝鮮語」を何千回何万回連呼しても、説得力がどこからともなく湧いて出るなどということは、永遠にないということを理解出来る脳みそが存在しないなら、身体にでも叩き込むことを心より推奨いたします。
というわけで「日本語の水源」と題する一連の寝言の投稿者の目的は、コメント欄荒らしと認定し、相応の対応をとっております。
しかし韓国人という生き物は、これほどまでに「日本語の起源は朝鮮語」と言いたいのかと、毎度のことながら感心します。
日本人も、日本文化や日本語の起源が何とかだとかどこそこだという話が好きな人は多く、著名無名を問わず、本格的な研究者も多数おられます。が、いずれもその関心の焦点は「日本」そのものであって、起源とされる国ではありません。
日本人が日本を関心の焦点とするのは当然じゃないかと、日本人なら誰でも思います。ならば韓国人は、韓国が関心の焦点なのかと言えばさにあらず。彼らの関心の焦点は何故か日本へと傾きがちです。
もっとも、より正確に言うならば、日本ですら彼らの関心の最終的な焦点とは言い難いでしょう。
彼らの関心の最大にして最終的な焦点は常に「ウリ=自分自身」であって、そのためなら祖国も同胞も、親兄弟でさえ平然と蔑ろにします。それが他国や他民族であれば、蔑ろにすることを躊躇する理由はありません。
何故、彼らは日本に執着するのでしょうか。それは日本が世界的に評価されているからに他なりません。韓国人も、その世界的な評価を否定出来ないのです。
いや、実際には否定したいのです。韓国人は切実に、日本を否定し、貶め、泥に埋めてしまいたいのです。
彼らには、「日本が絶対悪」という民族的真理があります。これは韓国人である限り、絶対に覆すことが出来ません。なのに世界は日本を評価します。韓国人は日本を否定し、貶め、泥に埋めたいのですが、どれほど泥を投げつけても唾を吐きかけても、日本の評価は揺るぎません。それどころか日本を貶めようとすればするほど、自分たちが否定され、軽蔑されるような気さえします。
それに実は、韓国人自身が日本を高く評価してしまっているのです。
「韓国起源説」のターゲットは、日本に限ったことではありません。しかし、何度否定しようとも執拗にくり返されるのは、必ず日本だけです。それはとりもなおさず、彼らの日本評価が異常なほど高いことを意味します。そういう意味で、彼らは激烈な親日と言うことも出来るでしょう。
しかし、同時に彼らは「日本は絶対悪」を民族的真理として信奉する、激烈な反日主義者でもあります。彼らの民族的真理に照らせば、日本を高く評価することは反民族行為にほかなりません。
それを正当化するために、彼らは「日本のものはもともと全てウリナラ起源」と言うのです。
こういう論理の帰結は、まことに歪んでるし、捻じれていると思います。こういう歪みや捻じれを、練り混ぜ捏ねくり倒して人の皮をかぶせたのが韓国人なのです。
1000記事余りもある弊ブログですが、実は結構同じようなことを何度もくり返し述べております。今回もまた、その例に漏れません。
1000記事余りを全て精読するのは、なかなか時間も手間もかかることだとは思います。しかし読み進むうちに「なんだこいつ、また同じこと言ってやがる」と思えるようになった方がおられれば、その方の韓国理解はかなり深まっているのではないかと思います。