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「良心的日本人」考

金正日が死んだおかげで、朝鮮関連についての注目度は上がったと言えば上がったのですが、北朝鮮にばかり関心が向けられているためか、韓国の影は逆に薄くなった印象があります。

弊ブログはそもそも韓国考察&ウォッチブログですし、速報性を重視したブログでもないので、北朝鮮情勢についてはもう少し情報が出揃うのを待ってからでも良いかなと思っております。

という訳で、今回は基本に立ち返って、韓国語における「良心的日本人」という言葉について考えてみました。

韓国では、韓国側の立場で考え、且つ日本に批判的な日本人のことを「良心的日本人」と呼びます。韓国をある程度知るとしばしば目にするこの言葉、よく考えてみると彼らが「日本人」そのものを無意識にどう見ているかがよくわかります。

辞書によると「良心」とは「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き」とあります。また「良心的」とは、「良心に従って誠実に事を行うさま」を意味します。すなわち、「良心的日本人」という言葉を辞書的に解釈するならば、「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心に従って、誠実に事を行う日本人」のことと言えるでしょう。

ならば「良心的」という言葉が付かない、ただの「日本人」とは、韓国人的には一体どのような日本人のことなのかと考えた時、それが彼らの素の「日本人観」なのだろうなと思いました。

考えてみれば、私は日本びいきの外国人を、例えば「良心的アメリカ人」とか「良心的中国人」とか「良心的ロシア人」とか言った記憶がありませんし、そう言ってる日本人を見た記憶もありません。

韓国人の謂にならえば、日本の立場で考える韓国人、例えば呉善花女史や鄭大均氏を私たち日本人は、「良心的韓国人」とでも呼ぶべきなのかもしれません。しかし日本人的感覚で言えば、少なくとも私には、韓国人なのに日本の立場で考える者を、「良心的」とは思えないのです。なぜなら、「日本の立場で考えること」が、地球上の全ての人々にとっての「絶対的正義」とか「絶対善」とは思えないからです。

日本人である私にとって、「日本の立場で考えること」はもちろん正しいことだし善いことです。しかし立場が変われば、ものの見方や考え方が異なるのは当たり前です。だから「日本の立場で考える者」を全て無条件に良心的と断じることには、どうしても抵抗があるのです。

私は韓国を嫌ってはいますが、その分彼らについての理解も決して浅くはないと自負しています。なので彼らの日本に対する複合的な意識も、十分理解しています。彼らにとって、少なくとも歴史的経緯における日本とは一切の弁解の余地無き絶対悪であり、日本の立場で考えることは極めて非道徳的なことであることも、納得はしていませんが理解はしています。その韓国人が日本の立場で考えるということは、韓国人としては不正義なことであり、非道徳なことだということも、重々承知しています。

それを知ってる以上、たとえそれが日本に肩入れすることであっても、不正義であり非道徳的なことと思っているのにあえてそれをする人を「良心的」とは、私にはとても言えないのです。

韓国人にとっては「親日」という言葉が、「売国」や「反民族」という言葉とほぼイコールであることを知っている日本人ならば、日本に親しみ、肩入れする韓国人を「良心的韓国人」と呼ぶのには、どうしても抵抗を覚えるでしょう。韓国人でありながら、日本人と同じ視点同じ視界で世界を見渡すようになってしまうことによって生じる葛藤を慮れば、それを「良心的」などと脳天気に持ち上げる気にはなれないのです。

しかし韓国では、韓国を全面的に肯定し、且つ日本に批判的な日本人のことを「良心的日本人」と躊躇なく呼びます。そこには、賞賛の意さえ含みます。これはつまり、彼らが日本を絶対悪とみなしているのは当然のこととして、加えて韓国を絶対的正義、絶対善と定義している証左と言って良いでしょう。それに従おうとする意思が、韓国においては「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心」、すなわち韓国人的「良心」なのです。

ところで私も、「良心的日本人」という言葉をしばしば使います。これはもちろん韓国語的表現であって、日本人の立場で「良心的日本人」を語義的に正しく表現するとすれば、「親韓反日日本人」と呼ぶのが本当かもしれません。

そう呼んでも良いのですが(いや、むしろそう呼ぶべきなのかもしれないのですが)、「親韓反日」であることを「良心的」と断言する韓国的浅薄さと傲慢さを端的に表現した「良心的日本人」という言葉こそが、韓国人からそう呼ばれて喜ぶような日本人には、やはりぴったりだと思ってしまうのです。



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