是是非非とは、是と非をマジェマジェしないこと
この言葉は荀子の修身が出典で、原文は「是是非非、謂之智、非是是非、謂之愚(是を是とし非を非とする、之を智と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う)。」といいます。
意味するところは「肯定すべきことは肯定し、否定すべきことは否定するのが智であり、肯定すべきことを否定し、否定すべきことを肯定するのが愚である」でしょう。
この言葉が何故韓国関連について語るとしばしば出てくるのかというと、まず前提として、韓国について知識も関心もない人が日本人には多いということがあるでしょう。
日本人の多くが韓国について知識も関心もないが故に、韓国の【是】と【非】はあまり広く知られておらず、知ろうとする人も多くありません。それがために、韓国については「是是非非」という言葉で説明したくなる人が結構いるのではないかと思います。
「知らない国は好きな国」の日本人ですから、韓国について知識も関心もない時点で韓国に対して持つ意識は、無関心ながらやや好感寄りなのが一般的です。是か非かで言えば、なんとなく是と言ったところでしょうか。
ところが一度韓国を知ると、今度はその余りの酷さに一気に【非】に傾く人は珍しくありません。
そもそも韓国関連では、非の部分があまりにも多いという現実があります。しかもそれらは、ちょっと韓国に注意を払うとかなり目につき、日本人にとっては実害も少なくありません。ですから、どうしても韓国関連について知り始めると、【非】のあまりの多さに嫌悪感が先立つものです。
それが高じれば、韓国については一切全く認めない、認めたくないという意識になる人は少なくないでしょう。誰だってキチャナイものには触りたくないし近寄りたくないものです。ただ、それがあまりにも行き過ぎると、今度は弊害も出てきます。
例えば、韓国について一切全く認めない余りに、キムチは絶対に買わない食わないというぐらいなら、それは個人の自由です。
ところが、他人がキムチを食ったり買ったりするのを見て、「キムチを買うなんて非国民だ!」とか「キムチを食う奴は売国奴!」とか言い出すと、これはもう嫌韓厨の誹りを免れないでしょう。
これは別にキムチに限りません。以前お話しした暁星バイクでも同様です。以前述べたような理由で、私個人としては暁星バイクを他人にお勧めする気には全くなれません。が、「だがそれが良い」と言って暁星バイクに乗る人がいたとしても、それだけでその人を非国民だとか売国奴だとは、私は思いませんし言いません(物好きだとか、命知らずだとは思いますw)。
あるいは、ソウルの地下鉄の駅にホームドアが導入されたことを、良いことだと言うのも構わないでしょう。
世の中には「美味しいキムチ」というものもきっと存在するでしょうし、特別美味しくなくても、味覚のバリエーションとして選択肢のひとつに載せても悪いことだとは思いません。
暁星バイクの上っ面のデザインや、デフォルトのポンコツさ加減が気に入る人も、変人の多いバイク乗りの中にはいるでしょう。
鉄道会社が乗客の安全を図ろうとすることは、たとえ上っ面だけでも悪いことだとは思いません。
ただ、それをもって、例えば「キムチは万能食」とか「暁星バイクは世界一ィイイ!」とか、「ソウルの地下鉄の駅にホームドアが導入されたから、韓国は安全国家。日本はそれを見習うべき」とか言い出せば、話は別です。
それらは明らかに「是」と「非」をごちゃ混ぜにしているからです。
韓国について語る際に、是是非非を唱えることが悪いことだとかいけないことだとは思いません。むしろ進んで是と非を分けて語るべきでしょう。
しかし問題は、韓国関連においてこの言葉が出てくると、非常にしばしば「是」と「非」をごっちゃにしたり、「韓国にも是があるのだから、非については目をつぶるべき」とか、「韓国にも是があることを以て非と相殺すべきだ」などという理屈が展開されることです。
是是非非とは、厳格に是を是とし、非を非とすることであって、「誰にだって良いとこ悪いとこがあるんだから、悪いとこばっかり見ないで良いとこも見るべき」などと言って、是と非を曖昧にすることではありません。
何度でも言いますが、韓国について認め得るものは皆無ではありません。しかし、どんなに良いもの、認め得るものがあると思っても、最後で全てにゼロを掛けるような真似や、あるいは是も非も全部マジェマジェしてしまうのは、たいてい韓国人自身や、在日、親韓日本人だったりします。
それがために、韓国に良いもの、認め得るものがあったとしても、安易に是とすることが出来ないという現実があることだけは、最後に強調しておきたいと思います。
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