何度論破されても同じネタで攻撃してくる韓国人
韓国人が既に論破されている話を平気で何度も蒸し返すのは、別にソメイヨシノに限った話ではありません。竹島問題にしても日本海呼称問題にしても「いわゆる従軍慰安婦問題」にしても、概ねパターンは同じです。
日本人感覚では、基本的に一度結論が出た話を蒸し返すことはありません。もちろん、再検証を要する新事実が出てくれば話は別ですが、そうでない限り、一度結論が出た話はその結論に則って進めるのが当然であり、マナーであるとも言えます。
ところが韓国人は違います。日韓チャットでも日常的にあったことですが、一度結論が出た話を何度でも蒸し返します。当然、その都度論破するのですが、また別の日に別の韓国人が同じネタを携えて意気揚々とやってきます。時には、一度論破された当人が再び同じ内容の論争を挑んでくることもあります。もちろん、人や日時が変わっても、彼らが持ってくるネタは概ね同じものです。これを繰り返していくうちに、日本人側の知識はどんどん蓄積され、韓国人との討論手法はいよいよ研ぎすまされていきます。
対する韓国人たちはと言えば、討論手法に関しては基本的にまるで学習しません。彼らは、自分の主張に都合が良いと言うか、彼ら的に心地良く感じる資料やデータを与えられ、あるいは自ら探し、それがなければ捏造したり歪曲して、とにかく自分の主張をそのまま通そうとします。これは自称幼い学生からソウル大学の教授に至るまで、多くの韓国人が同じような行動様式を見せます。彼らを量産型と呼ぶ所以のひとつです。
このことは、韓国人にとって真実がどうであるかなど、どうでも良いということを示していると言えます。例えば、今旬のソメイヨシノ韓国起源説にしてもそうです。韓国人の関心はソメイヨシノそのものにも、済州島原産と言われる王桜そのものにもありません。
あるのは、サクラに対する好ましいイメージを我が物にしたいという欲望です。彼らが真に欲しているのは、ソメイヨシノに象徴されるサクラの好ましいイメージであり、ひいては日本の良いイメージなのです。ですから、彼らにとってソメイヨシノが王桜であるかどうかなど、どうでも良いことなのです。
それが証拠に、韓国人がソメイヨシノ韓国起源説で主張するのは常に「ソメイヨシノは韓国のものである」ということだけであって、それを立証するための諸要素はそれを唱える人や時によってコロコロと変わります。真面目に応じていると、イライラしてくるぐらいです。
もっとも韓国人を知る人ならば、彼らのこういう習性は逆に御しやすいとも言えるでしょう。彼らが何度論戦を挑んでこようとも、常に同じやり方で論破出来るからです。古田博司氏が、韓国人とのディスコース(discourse)において「僕は韓国人には絶対負けないので」と豪語するのも、氏が既に韓国人の習性を熟知しているからでしょう。
しかしそれでも韓国人は、何度でも同じやり方で主張を続けます。彼らの狡猾なところは、論破された相手だけではなく、別の相手に同じ主張をぶつけることです。一度論破された相手に同じ主張をぶつけても、同じように論破されるだけに決まっていますが、相手が変わればそうとは限りません。しかも日本人の中には、朝鮮人と互換性の高い人も少なくないのです。
日本人の底辺層と朝鮮人は互換性が高いと喝破した日韓チャット常連日本人がいましたが、その朝鮮人と互換性の高い日本人が韓国人の狙い目とも言えます。あるいは、「いわゆる従軍慰安婦問題」で見せたように、日韓の事情に疎い外国人に訴えかける手法もあります。
その結果、たとえ消極的であろうとも同意を得られればしめたものです。同意が得られなくとも、否定されなければ良いのです。韓国人にしてみれば「私の知ってる日本人(あるいは外国人)も私に賛同しました」と言えれば、それで良いのです。ひとたび投じられてしまえば、それを投じた人がどういう人物であろうと、一票は一票としてカウントされる選挙の票と同じです。
日本人がこれに対抗するには、韓国人が同じネタを出してきても、「またか」などと言ってあしらわず、何度でも丁寧に粉砕していくしかないでしょう。そうすることで、韓国人が音を上げるのを期待するのではありません。日本人に、韓国人からの攻撃に対する迎撃パターンを周知するのです。韓国人がどういうパターンで攻撃を仕掛けてくるのか、それに対してどのように応じれば良いのかを日本人が常識として備え、使いこなせるようになるまで。
それが今後の日韓の発展的関係解消に向けてのステップになると信じる次第です。