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自虐ではなく自戒を

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さて、本日のお題。

日本人には「自虐史観」の人が多いと言われます。もちろん自虐史観の人が「自分は自虐史観だ」と言うことはありませんが、「日本は悪かった」「日本は酷い国だった」と言う人は珍しくありません。

そういう歴史観は往々にして、韓国人の「日本絶対悪観」と共鳴します。そのため、「自虐史観」に凝り固まった日本人は、しばしば韓国人からは「良心的日本人」と評価されるようです。しかし「自虐史観」の人々が、本当に「自虐」であった例を私は見たことがありません。

「自虐」というのは、語義通りであるならば「自らを虐げること」でしょう。しかし「自虐史観」の人々が虐げるのは、決して「自ら」ではありません。「過去の日本人」という、「自ら」にとっては明白な他人を虐げているのです。「過去の日本人」を見下し虐げることで、相対的に「自ら」を高みに置こうとするのが、いわゆる「自虐史観」の人々なのです。ある意味、第二次反抗期の青少年が「大人はみんな汚い!!」と喚き散らすのに近いと言えます。そう喚き散らす自分は、よほど綺麗なつもりなのでしょう。

第二次反抗期にしても自虐史観にしても、青少年の間だけならまだ良いと言うか、しかたがありません。困るのはそこから上手く成長出来ず、成人してからも第二次反抗期を引きずったり、自虐史観に凝り固まったりする場合です。

第二次反抗期を引きずったままの人なら、たいていの場合周囲の人々と衝突を繰り返すことになりますので、周囲にとっては迷惑ですが、その分わかりやすいと思います。その点、自虐史観に凝り固まったままの人の場合、問題は非常に表面化しづらいものがあります。日本人の場合、歴史観を日常的に話題にすることがあまり多くないからです。

だから「自虐史観」の人々は、それを抱えたまま、普通に社会に出て、家庭を持ち、子供を産み育てます。やがて子供が成長した時、自らが抱えたままの「自虐史観」を子供に植えつけるのです。そうして「自虐史観」は、親子代々受け継がれることとなります。

では親から自国の歴史を否定的に教えられた子供の立場はどうなるでしょうか。親のように、自分を「自虐」から除外するという器用さを生まれながらに備えていれば良いかもしれませんが、そうでない子供は、自分の親が言うような酷い悪い国に自分が生まれてしまったことをどう思うでしょうか。ある意味自虐史観の継承は、子供に対する虐待と言えるのではないかと私は考えています。

私は日韓問題の多くは、日本人側に問題があると思っています。しかしこれは「自虐」ではありません。「自戒」です。

歴史は私たちの先祖が歩いてきた道程であり、私たちの子孫に示す道標です。徒に否定したり貶めたりすることも、必要以上に肯定したり賞賛することもありません。

物事にはたいてい良い面悪い面があります。時代や国や民族が変われば、評価が変わることもあるでしょう。過去の歴史を今の時代から批判するのは簡単です。後出しじゃんけんが認められるなら、誰だって勝てるに決まっています。しかしそのことに意味があるとは思えません。

過去の日本人も今の日本人も、芯の部分では変わらないと私は思っています。私たちがしばしば過ちを犯すように、過去の日本人たちも過ちを犯したことはあったでしょう。そのことを責めるのではなく、また否定するのでもなく、過ちだと思うならば同じ過ちを繰り返さぬように教訓とするのが本来ではないでしょうか。また過ちだけではなく、過去の日本人たちが見せた素晴らしい行為や実績を、今の私たちが更に研鑽し、それを後代に伝えようとする意欲も、これからの日本人には必要ではないかと思います。

そのためには、日本を日本人が否定するような教育はなされるべきではありません。もちろん、韓国人のように捏造や歪曲で歴史を飾り立てることも、「自虐史観」の裏返しなだけで同じだと思います。

要は物事を正しくありのままに見つめ、理解することだと思います。右であれ左であれ、拠り所がある分偏るのは楽ですが、易きに流されぬよう常に自らを戒める気持ちが大切なのではないでしょうか。

日本人がそうすれば、韓国人の「日本絶対悪観」に付け込まれることも、今よりはずっと減らせるのではないかと愚考する次第です。



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