韓国人の思い上がり
これは韓国人個人から韓国国家に至るまで、広く深く浸透している意識だと思います。
例えばあまりにも毎年のように発作を起こすので、「ノーベル症」とまで言われている韓国人ノーベル賞受賞者待望論や、10年後には日本に追いつき追い越すと言い続けて半世紀の「永遠の十年」などは典型例と言って良いのではないでしょうか。
あるいは近代史において、日本が自力で近代化出来たのだから、朝鮮だって当然自力で近代化出来たはずだという主張も、その類例に挙げて良いかもしれません。
対する日本人の方も、何事につけ謙遜する癖があるので、「日本人に出来たことなら韓国人にも出来るはずだ」という韓国人の思い上がりを決して否定しません。どころか、韓国人が言う前に日本人の方から「私たち日本人に出来たのだから、あなたがた韓国人にも出来る」と言ってしまったりします。これが韓国人の思い上がりを助長している部分も、相当に多いはずです。
今の韓国のほとんどは、日本人に出来たことを韓国人がやってみた(あるいは日本人がやらせてみた)ことが基礎になっていると言うことも出来るぐらいですから、日本人に出来たことが韓国人にも出来るということを完全に否定するつもりはありません。
しかし、お手本をそのままトレースするだけが韓国人の学習方法です。お手本さえあれば、韓国人でもそれなりに形になるようなことが出来るのですが、お手本がないと彼らは何をどうやって良いか全く見当が付かないようです。だから彼らは、ゼロから何かを作り出すということが大変に不得手です。一見ゼロから作り出したように見えるものでも、何かと何かをミックス(韓国風に言うならフュージョンw)させている例が少なからずあります。
その上、彼らはお手本を完璧にトレースするだけで、そこから先へ自力で進むことはほとんどありません。日韓の国交が成立したこの半世紀ほどの間に、日本から韓国へ湯水の如く技術移転したにも関わらず、彼らがいまだに日本を越えられないのがその証左です。
おまけに彼らは常に8割でパペクト(パペクト=perfectの朝鮮語訛り)です。「完璧に」トレースしたりコピーしたりというのも、実は仔細に見ればアラだらけなのです。
そのレベルで「日本人に出来たことなのだから韓国人にも出来るに決まっている」などと考えるのを「思い上がり」と言わずして何と言えば良いのか、私にはとっさに思いつきません。
さて、韓国がこの10月に、三度目の人工衛星搭載ロケット羅老号打ち上げに挑むといいます。
ロシアから少なからぬ技術供与を受けて製造したこのロケットを、当初韓国は「純国産」と嘯いていました。しかしいざ打ち上げに失敗すると、韓国はロシアにその責任をなすりつけようとしました。しかも2度もです。
韓国としては、はやぶさの快挙やヒノマルヤマトの宅急便などで日本が着々と宇宙開発関連の実績をあげているのを見て、「日本に出来たのだから、ウリナラにも出来るに決まっている」と、今回もまた思い上がっているのでしょう。
しかし過去2度の失敗を究明し、それらを正しく教訓とすることが出来ていない限り、彼らは何度でも同じ失敗を繰り返すしかありません。
次回の羅老号打ち上げが、どちらの意味での三度目の正直となるか、韓国ウォッチャーとしては誠に興味深いウォッチ対象となります。