敬うべきものがあるということ
日本人と比較すると、韓国人は宗教に大変熱心ですが、彼らにとって「敬うべきもの」は基本的には「自分自身」だけです。如何にして自分を他人に敬わせるかが重要であって、自分が誰かや何かを敬うことは、敗北でしかありません。宗教に熱心な韓国人は非常にしばしば自ら神を名乗ろうとし、中には実際に名乗る者がいますが、本当に「神」という存在を畏れ敬っていれば、自ら「神」を名乗るなどという不遜なことをするわけがありません。
ですから彼らは、日本人が靖国を参拝する意味を理解しません。天皇陛下を崇敬する日本人の気持ちも、全く理解出来ません。
「天皇陛下を崇敬する日本人の気持ち」と書きましたが、戦後育ちの日本人は、これまであまり「天皇陛下を崇敬する」ということを積極的に意識してこなかった人が多かったのではないかと思います。
同じ教育を受けた世代の方には概ね共感していただけると思いますが、戦後左傾教育では徹底して天皇制を非肯定的に教えました。ですので天皇や皇族という存在に対して、私は長らく非肯定的で批判的でした。
確かオウム真理教による数々のテロ計画の存在が判明し始めた頃だったでしょうか。その頃の私は十代の頃ほどではありませんでしたが、まだかなりの左巻きでしたし、それを誇りとまではいかなくとも、人間として正しいことだと思っていました。
その私が、オウム真理教のテロ計画の中に天皇陛下暗殺があったという報道を耳にした瞬間、考えるより先に叫んだ一言は、「世が世なら不敬罪だぞ!!」でした。これには自分で驚きました。「世が世なら不敬罪」と言うなら、私自身がそうではなかったかと思ったからです。
私は学校教育で、天皇陛下を崇敬せよと教えられたことは一度もありません。それどころか、天皇や皇族関連について教師は、いつもちょっと小馬鹿にするような、揶揄するようなことを言うのが普通でした。
小学校の時に、何の授業だったかは覚えていませんが、担任の教師が「現人神」と黒板に書いて「何と読むか知ってる人」と子供たちに聞きました。誰もどう読むかわからないのを確認した教師が満足気に、「これはアラヒトガミと読み、人でありながら神であるという意味で、天皇のことだ」と言いました。
それだけなら特に批判的でも否定的でもありませんし、小馬鹿にしたわけでもありませんが、その教師は続けてこう言ったのです。
「明治天皇は自分を神様だと思っていたから、神である上半身が穢れた下半身と同じ湯に浸かってはならないとして、風呂に入る時は下半身だけ湯に浸かって、上半身を湯に浸けないようにしていたんだよ」と小馬鹿にした調子で嘲笑混じりに私たちに言いました。
それを聞いてクラス中の子供たちが「馬鹿みたいwww」とゲラゲラ笑ったのを覚えています。もちろん、当時はまだわずか10歳かそこらでしたから、私も一緒になってゲラゲラ笑うことに全く疑問を感じませんでした。
高校の頃には、日本史の教師が授業の内容とほとんど関係なく唐突に「大正天皇は国会で読み上げる詔勅の紙を丸めて「望遠鏡~」と言って覗いて喜んでたんだよw」と、あからさまに侮蔑の口調で語ったことを覚えています。
記憶に残っているのはこの2例だけですが、全体としてそういう話を咎める空気はほとんどなく、わざわざ記憶に残す程でもないささやかなこれに類する話は、他にいくらでもあったと思います。
ですから私は天皇や皇族を小馬鹿にすることを何とも思わず育ちましたし、私自身が天皇や皇族に関する揶揄的批判を、ちょっとエスプリの効いた軽口のつもりで口走ったこともありました。
そんな私が、オウム真理教によるの天皇陛下暗殺計画を知って「世が世なら不敬罪だぞ!」と叫んだのです。叫んだ瞬間、「お前はどうなんだ」という自問が浮かんで絶句したことをよく覚えています。
今回、天皇陛下に対する李明博韓国大統領の非礼発言に憤りを発した日本人も、きっとその時の私と同じ困惑を抱いたに違いありません。「こんなにも憤るほどに、私は天皇陛下を崇敬していたのか?」と。
「敬うべきもの」がなくても、人間は生きていけます。しかし、「敬うべきもの」がなければ、人間の精神は誇りとよりどころを得られずに彷徨うことになるのではないかと思います。だから人は「敬うべきもの」を無意識に求めるのでしょう。その対象は国や人種や民族によって様々ですが、その「敬うべきもの」を他国や他民族から穢されたり損なわれたりおびやかされたりすれば、誰でも瞬時に憤りを発するものなのでしょう。
天皇陛下に対する李明博韓国大統領の非礼発言自体は、当然許せるものではありません。ですが今回の騒動をきっかけに、多くの日本人が、実は心の底では天皇陛下を崇敬していたことに気づいた、少なくとも日本人にとって大切なものだと思っていたということを自覚したことは、日本と日本人にとってプラスになることだったのではないかと思います。