嫌韓は不当な差別なのか
その前に「差別」という言葉について今一度確認しておきたいと思います。
「差別」と聞けば、たちまち「悪いこと」「してはいけないこと」で思考停止してしまう人が多いようですが、本来「差別」という言葉の辞書的な第一義は「ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い」です。
例えば、法律に基づいて20歳未満を未成年とし、その権利と義務に制限を設けるのは、立派な差別です。あるいは、法に反して罪を犯した人を拘束し、その権利と義務の一部を停止するのもまた、立派な差別と言えるでしょう。
これらの「差別」を、「悪いこと」「してはいけないこと」と言う人は、おそらく極めて少数派だと思います。何故ならこれらは、「正当な差別」だからです。
人間社会において「正当な差別」をしなければどうなるでしょうか。先に揚げた例で言えば、20歳未満の未成年にも成人と全く同等の権利を与え、当然それに伴う義務も「差別なく」負わせ、あるいは犯罪者にも善良な市民と同等の権利を保証すれば、そこに現れる世界は人間社会ではなく、弱肉強食の野生の王国です。
即ち、「差別」には「正当な差別」と「不当な差別」があり、「正当な差別」は人間社会の秩序を維持構築するために必要なものと言っても良いでしょう。
「差別」という言葉の辞書的意味には、第二義があります。「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い」というものです。この「偏見や先入観などをもとに」の部分を「法律や規則に基いて」と置き換えれば、それは第一義と同じと言っても良い内容になります。
つまり、「差別」の第一義と第二義における違いは、前提条件の違いと言っても良いのです。「差別」の前提が不当なものであれば、それは「すべきではないこと」「してはならないこと」になりますが、その前提が正当なものであれば、「差別」は悪いことではなく、むしろ積極的に「すべきこと」「しなければならないこと」でさえあるのです。
という訳で、「差別」には「正当な差別」と「不当な差別」があるということを念頭に置いて、嫌韓が不当な差別であるか否かを考えてみましょう。
嫌韓が「不当な差別」と言うには、嫌韓の理由が不当である必要があるでしょう。即ち韓国に対する偏見や先入観、あるいは無理解などが理由で韓国や韓国人を嫌うのであれば、嫌韓は不当な差別と言い得るかもしれません。
もちろん、中にはそういう嫌韓も居るかもしれません。しかしある程度韓国を具体的に知った結果、嫌韓になった人々も少なくありません。「知れば知るほど嫌いになる」と言われるほどに、韓国や朝鮮に関しては、日本人の嫌悪感を刺激することが多いということは、弊ブログをご覧の皆様には既に自明のことでしょう。
それが日本と全く関わりなく、日本人の与り知らぬところで行なわれるのであれば、日本人がそれに難癖を付ける筋合いは全くありません。しかし現実には、日本人が嫌悪感を催すようなことを日本や日本人に対して無理矢理押し付けたり、あるいは日本や日本人が嫌がるようなことを、韓国人は非常に熱心にするのです。これもまたうんざりするほどの実例があり、実際多くの嫌韓は大いにうんざりしております。
日本を悪だと言いながら日本からの援助を当然のように期待し、その期待が叶わなければ日本を罵り貶め、日本の物を剽窃するだけでは飽き足らずその起源を主張し、あるいは日本に何代も住み着いていながら、日本に同化することを拒み続け、そのくせ日本人のふりをして日本を貶める行為に勤しみ、あるいは日本の領土を侵し、あまつさえ天皇陛下を韓国大統領自ら公然と侮辱しておきながら、日本がそれに憤ると逆切れするなどというのは、全く氷山の一角でしかありませんが、これだけでも、韓国と韓国人を嫌うに足る十分な理由になり得るでしょう。
そうやって常に相手に嫌われるようなことを非常に熱心にしておきながら、相手が自分を無条件で好きになるのが当然だと思っている人を好きになる人は、滅多にいないでしょう。その上更に「ウリを無条件好きにならないのはサベツニダ!」と言って責められれば、そう言う相手を嫌いにならない人は、余程のドMとしか言いようがありませんが、韓国人はそういう偏った性癖を全ての日本人に求め、日本人が無条件でそれに応じなければ、また更に憤って日本人を罵るのです。
結局嫌韓とは「韓国を嫌うに足る理由を、韓国人によって持たざるを得なくなった人々」のことと言い得ると私は確信しております。
韓国について何も知らず、単なる「偏見や先入観」で嫌韓をやっている人も中にはいるかもしれません。ですが、そういう人々と、きちんとした理由があって嫌韓を自認する人々を、「偏見や先入観及び無理解に基いて」混同し、あるいは非難することの方が、よほど「不当な差別」に該当するのではないかと思います。