朝鮮人は共感を強要する
ところで三度目の正直の羅老号は、昨日無事に打ち上がったようで、さすがロシアと賞賛の声があがっております。いくら相手が韓国と言っても、三度も打ち上げ損なわれては宇宙強国の一国を自負するロシアさんとしても面子が傷つけられる以前に、ロケット開発技術そのものにミソがつけられかねません。何度も打ち上げを延期して万全を尽くした甲斐があったというものです。
一方韓国はと言えば、自分たちで勝手に作った「10大宇宙クラブ」に入れなかったねと思ってたら、ちゃっかり「11大宇宙クラブ」と定員を広げてたりしておりました。本当にこの連中の「栄誉」と「賞賛」だけを求める貪欲さは、地球上に並ぶものがありません。
これ以外で韓国関連で昨今気になるニュースと言えば、やはり対馬の仏像盗難でしょう。盗まれた物と、窃盗犯の待遇が韓国でどうなるのか、日本がそれにどのように対応するのか、今後の動向を見守りたいところです。
しかし、日本から韓国人が仏像やら何やらを盗もうとするのも大いに困りものですが、盗んだ物を韓国人が大切に保存し管理するならまだ救いがあります。ですがあいつらときたら、「日本から奪った」ということだけに大きな価値を見出して、奪ったブツそのものの価値についてはものすごく無頓着なのです。日本にあれば末永く良い状態で保存出来た文化財を、韓国人に盗まれたばかりに破損したり滅失したりすることになっては、ご先祖様に申し訳が立ちません。
日本の寺刹を狙った韓国人窃盗団が暗躍しているという噂はかなり前からありますが、例によってマスコミはほとんど報じません。安倍政権では国内の治安強化にも力を入れているという話を仄聞しますので、入国管理の強化と併せて、この方面についても期待したいと思います。
さて、最近しみじみ思うことは、人間は共感が欲しい生き物なのだなあということです。自分以外の人と思いが重なれば、それだけで不思議と心強くなれます。それは韓国人も同様です。いや、同様以上でしょう。
日韓チャットでは、韓国人が入ってくるなり挨拶もそこそこに、ハイテンションで「私と友達になりたい人、手(を挙げろ)!」と言ったり、話題が途切れると(時には途切れていなくても)、突然何かの歌詞を延々と書き連ねたり、何の前ふりもなく自作のポエムを披露し始めたり、状況や事情も説明せずに悩み相談や身世打鈴(朝鮮語音でシンセタリョン:我が身の不幸を並べ立てるように唱え嘆くこと)を始めたりすることが珍しくありませんでした。
ものすごく親しい相手や、それほどでなくてもある程度の付き合いがあって、相手の考えもそこそこわかる間柄であればともかく、初対面の、ましてや外国人にそんなことをされれば、驚いたり戸惑ったりしない日本人は滅多にいないでしょう。それが度重なれば、驚いたり戸惑ったりするのを通り越して不快になりますが、韓国人としてはそういう日本人がものすごく冷情に見えるようです。
韓国人が他人の共感をより強く欲する理由は、やはり彼らの「ウリ」意識からでしょう。
彼らの対人関係が、常に「上下」か「同一」で認識されることは以前から何度も述べて来ました。併せて彼らの「同一」は、「対等」ではないということも述べて来ました。すなわち彼らの対人意識において「同一」と言っても、それは対等に同一化するのではなく、必ずどちらが「上」か「下」かの判断が行なわれ、「上」に「下」が吸収される形で同一化するのです。
「ウリ」の概念は、外国人には非常にわかりづらいものがあります。日本語では朝鮮語の「ウリ」を「私たち」や「我々」などと訳すためにしばしば誤解されておりますが、以前にもお話したことがあるように、日本人の「私たち」や「我々」の概念と、韓国人の「ウリ」の概念は真逆と言っても良いほど異なります。
韓国人の対人関係において「ウリ」とは「自分自身そのもの」です。「ウリ」に組み込まれないものは自動的に「ナム(=自分以外の人々)」となります。
「ウリ」=「自分自身」ですから、「ウリ」に組み込まれた人々が「自分自身」の感情を共有するのは当然です。「自分自身」の感情を共有出来ない人は自動的に「ナム」なのです。相手が「ウリ」となり得るかどうかを判別するには、「自分自身の感情を共有出来るかどうか」を試すのが手っ取り早く、だから韓国人は、初対面の相手であっても当然のように自分自身の感情に共感することを強要するのでしょう。
もちろん、それは韓国人だけではなく、北朝鮮人も同様でしょう。そう言えば金正日が死んだ時、北朝鮮人がまるで相競うように哀号していた光景に違和感を覚えましたが、あれとても「ウリ」として「同一の感情を共有する」ための、朝鮮人として当然の振る舞いなのでしょう。おそらく、中国朝鮮族や在日も同様だと思います。
朝鮮人同士が「ウリ」という意識の下に、自分自身に対する共感を他者に強要することで社会秩序を構築するのは勝手ですが、日本では「ウリ」的概念はある意味自他の意識が未発達な小幼児の意識にも似ています。実際、小幼児にはしばしば他者に対する共感の強要が見られます。そのため日本では、他者に共感を強要する行為は小幼児的な行為であるとして、軽蔑の対象となります。
他者の共感を欲するのは日本人も朝鮮人も同じかもしれませんが、他者に共感を強要してしまえば「朝鮮人のような真似」になってしまいます。
「私は朝鮮人のような真似をしていないか」「これは朝鮮人のような真似ではないか」と、我が身を振り返る毎日です。
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南北朝鮮の身分意識の摺り合わせ?
弊ブログで無記名を含む複数のハンドルネームを使いまわしての自作自演を厳しく禁じている理由は、その行為が必ず疑心暗鬼を誘発するからです。
無記名を含む複数のハンドルネームを使いまわす人が一人でもいると、あの無記名コメントは誰それではないのか、あのハンドルネームはこちらのハンドルネームを使っている奴の自作自演じゃないのかと疑い、あるいは決め付けて、見えない敵と戦い出す人が必ず出てきてしまいます。
そうなれば、たとえ意図した工作や動揺に引き込めなくとも、相互不信を発生させて内訌へ導くことが出来ます。それもまた荒らしや工作員にとっては思う壺でしょう。どうかくれぐれも、荒らしや工作員の思う壺にはまらぬよう心していただければと願います。
それから、自分の気に入らないコメントをする人をことごとく工作員呼ばわりする方がしばしばいらっしゃいますが、これは本物の工作員を埋もれさせる行為にもなりかねません。工作員の活動を支援するつもりがあるのならば、その行為は大変に効果的です。ある意味、工作活動に加担する行為と言えるでしょう。
もしこいつは工作員かも知れないと思う人物を見つけたら、慌てず騒がず、ネット上だけでもその人の言動を検索し、発言動向をじっくり観察することです。そういう人の言動をじっくり観察していると、自分の主張と合う合わないとはまた別の、奇妙な意図を感じさせる言動が必ず出て来ます。じっくり観察するテマヒマが惜しい方は、慌てず騒がずスルーして、自分自身が工作に引っかからぬように気をつけるだけで十分です。
某巨大匿名掲示板や個人のブログのコメントで煽動工作する程度の工作員であれば、放置してもそれほど危険ではありません。危険なのは現実でも活動している工作員です。そういう工作員は個人の手には負えませんし、負うべきでもありません。もしそういう工作員を見つけてしまった時は、可能ならば公権力に委ねるか、それが難しければ静かに監視・観察するに留めておくのが無難です。
さて、明後日韓国が三度目の正直の羅老号打ち上げに挑むわけですが、その直前とも言える昨日27日に日本は情報収集衛星を搭載したH2Aロケットを危なげなく打ち上げました。
これで情報収集衛星の運用体制が整ったことになるそうです。この情報収集衛星は1998年の北朝鮮によるミサイル発射を機に導入が決まったものと言われており、今回のH2Aロケットの打ち上げ成功による情報収集衛星の軌道投入が北朝鮮に対するプレッシャーになるのは当然ですが、韓国にとってもタイミング的に「日本が人工衛星を搭載したロケット打ち上げに危なげなく成功した直後」というのは結構なプレッシャーになるのではないかと、少々ニヤニヤしておりますw
この三度目の正直がまだ実行されてもいない内から、韓国では月軌道船の打ち上げを言い出しており、まことにこの民族のナチュラルボーンコメディアンっぷりは筋金入りです。知れば知るほど嫌いになる国なのに、長年観察を続けていられるのは、こういった突拍子もないお笑いが、いつ、どこから飛び出てくるかわからないからかもしれません。
こういうお笑い系の中には、時々あれっ?と思うニュースが紛れていることがあります。
「科挙に受かれば平民でも出世できた朝鮮王朝時代」という記事もそのひとつです(朝鮮語版の機械翻訳はこちら)。
朝鮮は、中国に倣って科挙を導入しましたが、従来の説では、その受験資格は両班に限られていたとされておりました。ところが韓永愚という歴史学者がそれを否定し、李朝期の科挙は平民にも広く開かれていたと主張したのです。
私もこのニュースを見た時は、普通に「嘘だあw」と思いました。と同時に「何故こんなことがニュースになるのだろう?」という疑問が浮かびました。
日本語版に載っているということは、この記事は韓国人的に「日本人にどうしても見せたいニュース」です。日本人に「李朝時代は、身分に関係なく出世が可能なリベラルな社会だった」と言いたいというのはきっとあるでしょう。しかし日本人的には、「それが何?」という話でもあります。
また韓国人的にも「韓教授は1997年に出版した著書『朝鮮時代身分史研究』で、朝鮮の社会では、身分が低い「小川からいでたる竜」たちの身分上昇が活発だったと主張した。しかし具体的な数値を提示しておらず、大きな論争が起こった」とある通り、にわかに受け入れることが出来ない主張でもあります。
何故韓国でこの主張が受け入れられないのかというと、現在の韓国では、ほぼ100%の人が両班の末裔を自称しているからです。例えば先述の記事には「貧しく卑しい一族の出身で領議政(議政府の最高官職)にまで上り詰めた、世祖代の洪允成(ホン・ユンソン)のような人物もいる」などとありますが、洪允成を祖先とする韓国人にこの記事を見られれば、凄まじい苦情が来るのではないでしょうか。
あるいは、この主張に同調して、「私の祖先は貧しく賤しい家系だったが、李朝時代に勉学で立身出世を果たしたのだ」と誇る韓国人が多いとは、どうしても思えないのです。
それなのに何故、この歴史学者はこれほどまでに熱心に、「平民でも勉学で立身出世が可能だった」と主張するのでしょうか。単に「勉強すれば身分に関わらず出世が可能なんだよ」と学生を励ましたいだけなのでしょうか。
しかし現在の韓国では、その勢いが余って多くの大学生が人生に行き詰まっているのです。そういう韓国の現実において、「一所懸命勉強して難関大学に合格すれば、身分に関わらず立身出世が果たせるのだ」と言って励ますのは、自分の体重の何倍もの荷を負って坂道を登る駄馬の尻を鞭でしばきまわすに似たようなものではないかと思わなくもありません。
そこで連想したのが、北朝鮮でした。
韓国とは逆に、北朝鮮では両班出身を名乗る者はそれほど多くありません。何故なら、北朝鮮の出身成分において両班を先祖に持つ者は、動揺階層あるいは敵対階層と言われる下層階級に落とされているからです。
すなわち北朝鮮と韓国では、人々の身分意識がまるっきり逆になっているのですが、北朝鮮人も韓国人も対人関係においては必ず優劣上下を明確にせずにはいられない朝鮮人です。その優劣上下の基準が双方で真逆になっているということは、南北統一に際し、経済格差と共に必ず大きな障壁になるでしょう。
そこでこの「平民でも勉学で立身出世が可能だった」という主張が韓国に浸透すれば、北朝鮮人の身分意識を韓国人に受け入れやすくすることが出来るのではないでしょうか。
つまり、南北統一に向けて、韓国人の意識を北朝鮮人に合わせるための思想誘導なのではないかと私は考えたのです。
もしそうだとすれば、北朝鮮の金一族による独裁体制も相当危機的なところに来ているのかもしれないなどと、病膏肓に入った朝鮮半島ウォッチャーは考え込んでしまうのでした。
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日本を取り戻させない工作の実例
ですが無記名を含む複数のハンドルネームを、読者から見てわからぬように使い分け、自分の意見をまるで複数の人物の意見の如く見せかけて意見誘導を目論む行為は、当人がどのような考えで行なっていようと、またその行為を当人がどのように弁解しようと、荒らし行為とみなしております。
自分の主張が容れられないとなるやそういった荒らし行為に及ぶのは、日韓チャットの韓国人には極めてポピュラーな行動様式でした。ですのでこれもまた、「朝鮮人のような真似」の一種と考えて良いでしょう。
荒らし行為は単純に不快ですが、それと同時に基本的に韓国ウォッチブログの弊ブログコメント欄で、執拗に繰り返される安倍首相に対するネガティブキャンペーンがこれほどまでに必死なのは、一体どういう理由からなのかということを、嫌でも考えてしまいます。
誰も聞いてないのに幾度も「私は自民党支持者だが」とか、「私は安倍首相の支持者だが」と言いながら、これほどまでに安倍首相のネガキャンに執着するのは、やはり誰も聞いてないのに「私は生粋の日本人だが」と前置きしてから日本を熱心に貶め蔑む連中を彷彿とさせます。
そう言えば気づいた方がいらっしゃるかもしれませんが、弊ブログのコメント欄で安倍首相のネガティブキャンペーンに勤しんでいる御仁は、嫌韓をにおわせてはいますが、韓国に対するネガティブな意見は全くと言って良いぐらい述べておられません。ただひたすら「安倍首相は親韓だ」「親韓の安倍に首相を任せたのは間違いだ」という印象を読み手に植え付けようとするばかりです。
弊ブログの管理人とその読者を侮る「朝鮮人のような真似」を何度も繰り返し、嫌韓を装いながら韓国よりも安倍首相のネガティブキャンペーンに熱心に勤しむのは一体どんな目的を持ったどういう人物なのでしょうか。誠に想像を掻き立てられます。しかも「工作員にご用心」という記事にまでその手のコメントを書き込むのですから、よほど自分の工作意図の隠蔽に自信があるのか、さもなくば本気で無自覚な工作員なのでしょう。
この御仁、安倍首相の新しい著書についてしれっとコメントに書いていたのですが、初っ端からその本を全く読んでないのが丸わかりの記述で、失笑を禁じ得ませんでした。大方、どこぞの安倍首相バッシングブログか掲示板で拾ってきたのでしょう。
まず安倍首相の新著の題名は「新しい日本へ」ではなく、「新しい国へ
前著「美しい国へ」を改訂し、昨年と言うか先月10日に発行された文藝春秋2013年新年特別号
コメントに引用されている文章は、一部の段落構成が原文と異なる以外は概ね正確です。ただし、これは「日本とアジアそして中国」という15ページに及ぶ章の中の1ページ弱、見出しを入れてもわずか18行しかない文章であり、この文章の前には中国との関係についての記述が10ページ余、後には4ページに渡るアジア諸国との外交、及びインド、オーストラリア、アメリカとの連携について書かれております。
この文章量の割り振りからも容易に察せられるように、きちんとその章を読んでいれば、安倍首相が殊更に韓国を重視したり、優遇しようとしたり、ましてや阿ろうとしているわけではないのが、誰にでも読み取れるでしょう。
仮にコメントに掲載された文章だけを読むとしても、「両国間に問題があるからといって、それらをすべてに波及させるというのは、どうだろうか。おたがいの違いは違いとして尊重することも必要ではないか」というのは、韓国に対する牽制と取ることも出来ます(同書第三章「ナショナリズムとはなにか」において、「偏狭な、あるいは排他的なナショナリズムという言葉は、他国の国旗を焼くような行為にこそあてはまるのではないだろうか」とあり、安倍首相が韓国の対日姿勢、韓国人の性格を熟知していることが伺われます)。
「かならず両国の関係は、よりよいほうに発展していくと思っている」というのも、「わたしたちが過去にたいして謙虚であり、礼儀正しく未来志向で向き合うかぎり」という前提に基づいています。この「わたしたち」というのが日本人に限ったことではないのは、その後に「向き合うかぎり」とあることから明らかです。これが日本人だけに求められたことならば、「向き合う」ではなく、「対する」とか「接する」となるでしょう。安倍首相は、日本人だけではなく韓国人も「過去にたいして謙虚で」「礼儀正しく未来志向で」向き合うことが、「両国の関係」を「よりよいほうに発展」させるための前提と考えておられることがわかります。
これは取りようによっては、韓国に対する非常に強い姿勢と考えることも出来ます。韓国と、その同調勢力は常に日本側だけに一方的に韓国のことを慮り、譲歩し、優遇するよう求めますが、安倍首相は韓国にも日本と同じ姿勢を求めているのですから。
しかも日本は「過去にたいして謙虚であり、礼儀正しく未来志向」であることにほとんど抵抗がありませんし、実際これまでもそのようにし続けてきましたが、韓国は口先だけでそう言うことはあっても、実際に行動に移すには非常に強い抵抗があり、また実際にやってきたことはそれに反することばかりであったことを、おそらく安倍首相は熟知しておられるでしょう。
この本を読めば、安倍首相が決して韓国や朝鮮人のことを知らないわけではないことがわかります。それどころか、国家機密にも触れられる立場の方です。アドバイザーやブレインも、わんさかいることでしょう。私のような、情報の入手手段が貧弱な市井の韓国ウォッチャーなどより、余程韓国のことをよくご存知かもしれません。何しろ北朝鮮との拉致被害者返還交渉で手腕を発揮した実績をお持ちの方です。朝鮮人を下手に刺激すれば、なりふり構わぬ暴挙に出ることも、きっとよくご存知でしょう。
今回の安倍政権は、民主党政権でズタボロになった状態からの、いわばマイナスからのスタートです。震災復興や経済政策など、日本国内向けの運営は言うまでもなく、国際情勢も多方面から待ったなしの状態です。韓国なんかに煩わされている場合ではありません。
しがない韓国ウォッチブログである弊ブログにまで、安倍首相バッシング工作が及んでいるのですから、あえて日本側から韓国に何か働きかけるまでもなく、本丸は既に韓国からの激しい攻撃に晒されていることでしょう。その挑発に乗せられて、下手に韓国を構って火病らせれば、日本は震災復興や経済政策へ向けるべき力を無駄に分散させられることになります。それは韓国からすれば、何の得にもならなくても、日本に構ってもらえる上に損をさせることが出来るわけですから、チビるほど嬉しいことなのです。
随分昔に書いたことがありますが、一国の総理大臣ともなれば、全てを大所高所から見る必要があります。私みたいに、気楽に自分の興味あることだけを自分の目の高さで調べ考察し、言いたいことを言っていれば良いわけではありません。
ともあれ、何が何でもどうやってでも安倍首相の足を引っ張らなければならないと考えている勢力が、実際にこの日本に存在し、実際に活動していることを、目の当たりにしていただけたかと思います。
この手の工作員は、今回弊ブログで披露したような自作自演を含め、想定内のものから予想の斜め上を行くものまで、あの手この手で工作を仕掛けてきます。それらを全て排除することは、現実的には不可能でしょう。ならば工作員や工作を遮断したり排除するのではなく、こちらが工作を察知し、工作員の思惑に乗せられぬようにすることで対処するしかありません。
読者諸姉諸兄におかれましては、どうぞ「どこかで見かけた誰かの意見をそのまま鵜呑みにするのではなく、いろんな意見に触れ、それらを見比べ、必要に応じて資料を確認し、最終的には自分の頭で考えて判断する」という習慣を付けることで工作に対抗する力をつけ、且つ工作に対する警戒を怠ることのなきよう、心よりご進言申し上げます。
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工作員にご用心
竹島プロジェクトを始めた頃は「これでウリナラチラシを釣ってやろう!」という遊び心の方が大きく、実際釣果があったりして、それはそれで面白かったのですが、既に8回目ともなればウリナラチラシ側もスレて釣れなくなりましたw
しかし祭りは何でもそうですが、歴史を持てば重みを増します。竹島プロジェクトだけの手柄ではありませんが、日本固有の領土竹島に対する日本人の認識も、年を追うごとに増しております。祭りは参加した者勝ちです。今からでも、ブログやサイトをお持ちの方は、是非奮って竹島プロジェクトにご参加戴きたいと思います。
さて今月10日、日本に帰化した朝鮮人工作員が逮捕されました。ただし、日本にはスパイ防止法が存在しないので、著作権法違反容疑での逮捕でした。
日本は、世界の中でも突出したスパイ天国ではないかと思います。スパイ防止法がないというのも問題ですが、前述のニュースのように、工作員であっても日本への帰化が非常に容易というのも問題があるでしょう。
中国朝鮮族出身で日本国籍を取得した張景子は、はっきりと日本国籍を便利使いするために帰化したと公言しておりますが、日本に対する忠誠心など微塵もなく、単に日本国籍を利用するためだけに日本に帰化する者に、日本は実に安易に帰化を認めているのです。
そういう意味で、日本をスパイ天国にしているのはほかならぬ日本人自身であることを、私たち日本人は忘れてはならないのではないかと思います。
以前から何度も言っておりますが、韓国人・北朝鮮人・在日は全て潜在的あるいは無自覚な対日工作員です。日本はその潜在的あるいは無自覚な対日工作員ほど容易且つ優先的に、日本国籍を取得しやすくしているということは、以前にも述べたことがあります。
日本では、「工作員」というと、映画か漫画か小説にしか出てこないと思っている人がほとんどです。もし日本で「あの人は工作員ではないか」などと言う人がいれば、工作員ではないかと言われた「あの人」よりも、そう言った人の方が異端視あるいは嘲笑されるでしょう。
しかし現実に、日本には工作員が溢れ返っています。もちろん、映画や漫画や小説に出てくるような、わかりやすい工作員ばかりではありません。それどころか、ほとんどは日々の生活に追われる平凡で目立たぬ一般市民でしょう。逮捕され、新聞に載るほどの工作員は、余程の大仕事を任されている者で、ほとんどの工作員はそんな大仕事に専らに携わることはありません。そんな彼らが、素人目にもわかりやすい工作を仕掛けるということも、そうあることではないでしょう。
わかりにくい工作と言えば、特亞に対する贖罪意識を永久に日本人に持たせるなどというのも、私は対日工作の一種だと確信しています。もちろんそれは、元はと言えば米国のWGIPが発端だったのかもしれません。しかしそれが特亞の「日本絶対悪観」と共鳴し、それに日本人の「相手が自分を責めた時は、その理由がよくわからなくてもとりあえず謝っとけば丸く収まるだろう」という習性が呼応した結果、特亞の尻馬に乗って日本を貶め蔑みドヤ顔をする日本人が大量に発生するまでになりました。
対日工作員は、実は日本ではとても身近な存在であるということを広く周知しなければ、日本は武力を用いられるまでもなく、内部から崩壊させられてしまいます。それが妄想や誇張でないことは、民主党政権の3年3ヶ月で身にしみてお分かりいただけたのではないかと思います。
それは実は、既に韓国で実行されたことでもあります。
20年ほど前の韓国では、毎月15日には民間防衛訓練が行なわれ、街角には立哨兵が小銃を携えており、街中に「間諜通報は113」の貼り紙がありました。撮影が禁止された場所では当然のこととして、撮影可能な場所でも、みだりに写真を撮る者はスパイの疑いで連行されかねなかったのです。
しかし北朝鮮の工作が浸透し切った現在の韓国では、民間防衛訓練はほとんど行なわれなくなり、ごく稀に行なわれても、外国人がその光景を撮影しネットに公開しても何らの警告もなく、街角に立哨兵を見ることはなくなり、航空機に乗った外国人が韓国を上空から撮影しても、何のお咎めもありません。
2002年当時の日韓チャットでも、日本人が北朝鮮のスパイに対する警戒を促しても、ほとんどの韓国人がそれを絵空事を大真面目に語る馬鹿者の戯言と受け取りました。そうして北朝鮮は韓国大統領に金大中・盧武鉉の二人の工作員を就任させることに成功し、故金正日をして「対南工作は完了した」と豪語せしめる状態にまで、韓国を赤化することに成功したのです。
その韓国を、日本人は嗤えません。
韓国の場合はそれでも、工作の結果は同じ民族同士の統一ですが、日本に対する工作はどうでしょうか。韓国と北朝鮮だけではなく、中国も日本に工作を仕掛けていないはずがありません。
工作員に対する警戒心を日本国民全体で持たなければ、スパイ防止法の成立は実現しません。日本人の多くが「工作員」と聞けば、「自分の周辺にそんな映画や漫画や小説のような存在がいるわけがない」と思い、工作員に対する警戒心を持つ日本人を嘲ることこそが、工作員の思う壺であると私は考えています。
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やらない善よりやる偽善?
それでも日本人男性ならば、韓国と言えばキーセン観光というイメージを持つ人がそれなりにいましたし、実際のところそういう需要が少なからずあったのは事実です。けれどそのせいで、日本人女性にとっては尚更に、韓国は関心を持ち難い国でした。
それが徐々に変化してきたのは、1990年台の半ば過ぎからでしょうか。
その頃、「無条件で欧米のスターに憧れるような無自覚なミーハーじゃない、良いものはどこの国のものでも良いと言える、ちょっとアンテナの感度が良いグローバルで知的なワタシ」とでも言いたげな女性の一部が、台湾や中国、タイや韓国の芸能人に注目し始めました。もっともそれは、巷で自然発生したものではなく、常に新しい切り口を求められていたメディア側が仕掛けたイメージだったのではないかと思います。
やがて日本で韓流ブームに火が点きます。それを見た韓国は、国を挙げて日本にセールスを仕掛けました。それに呼応したのも、「無条件で欧米のスターに憧れるような無自覚なミーハーじゃない、良いものはどこの国のものでも良いと言える、ちょっとアンテナの感度が良いグローバルで知的なワタシ、とでも言いたげな女性」たちであったでしょう。
しかし彼女たちのほとんどは、自ら否定したかった「無自覚なミーハー」でしかありませんでした。
韓国のものは、何であれカタログ上のスペックが非常に高いということがよくあります。と言うか、それ以外ないと言っても良いぐらいです。しかし実際のブツは、非常にお粗末なものだということも、もはやお約束と言えるほどです。
本当に「どこの国のものでも良いものは良いと言える」能力があるならば、韓国が見せる薄くて浅くて上っ面も見抜けるはずなのですが、「無自覚なミーハー」にそんな能力があろうはずもなく、韓流ブームに乗った女性たちは韓国の薄くて浅くて上っ面に軽々と乗せられます。
それでも並の知能がある人ならば、一度実害を被れば学習するものです。実際に手に取ってみれば、韓国のものが薄くて浅くて上っ面なのは、かなりの「無自覚なミーハー」であっても気が付きますし、手に取るだけではなく、深く踏み込んだりすれば、酷い実害を被ることも珍しくありません。
結局日本に仕掛けられた韓流は、一時的には韓国にそれなりの収益をもたらしたかもしれませんが、永続的なものにはなりませんでした。
それでも、日本における一時の隆盛を味わった韓国人や、それにくっついて甘い汁を吸った日本人たちは、手を変え品を変えて、今もなお二匹目のどじょうを求めているのでしょう。
先だって、ある女優が韓国の産後ケア施設に魅力を感じたと言って、韓国で出産したと報じられました。聞くところによれば、彼女は仕事で韓国の産後ケア施設を取材した経験があるのだとか。その時きっと、韓国の産後ケア施設について、それはそれは素晴らしい説明を受けたのでしょう。彼女はそれを真に受けて、韓国での出産を決めたのでしょう。
ステマ臭がしなくもない話ですが、いくら経産婦と言っても出産は女性の一大事でもあります。多少の金銭で我が身と我が子を質にするような真似は、まさかしないでしょう。彼女自身は純粋に、韓国の産後ケア施設に魅力を感じたのだと思いたいのですが、それを周囲が利用しようとした可能性は大いに考えられます。
結局、この「韓国セレブ出産」とやらは皆様もご承知のような無様な結果となり果てました。
以前にも書きましたが、どんなに素晴らしい製品やサービスであっても、最後は人です。カタログスペックがどんなに良くても、それを書いたのは誰か、そのデータをまとめたのは誰か、最終的にその製品を作ったり、そのサービスを提供するのは誰なのかを考えた時、最後が韓国人というのは、致命的な欠陥と考えた方が間違いなく無難です。
今回の騒動に巻き込まれた女優も、ステマを狙ったかどうかは別にしても、「良いものはどこの国のものでも良いと言える、ちょっとアンテナの感度が良い、グローバルで知的なワタシ」を気取りたかったのだろうというイメージは強く漂います。
結果として、それは逆効果となりました。本人にとっては非常に不本意な結果でしょうし、彼女を利用しようとした人々も頭を抱えているでしょう。
しかし個人的には、韓国に対する正しい認識の周知には、大きな効果があった一件ではないかと思います。
彼女のやろうとしたことは、韓国のイメージアップを狙った、偽善臭の漂う行為ではありました。ですが、結果的に韓国人が示すプロモーションを無防備に鵜呑みにすることがどれほど危険な行為であるかを広く知らしめたことにもなりました。仮に動機が偽善に基づくものであったとしても、結果は評価しても良いのではないでしょうか。
言葉や資料だけで韓国について説明をしても、にわかに信じがたいことばかりで、なかなか理解を得られません。今回のように有名人が自ら進んで人柱になっていただけたのは、日本人に広く韓国に対する理解を促すには非常に良い具体例になったのではないかと思います。
それから、某巨大匿名掲示板では「韓国で生まれた子供は、韓国籍になるんじゃないの?」などと言ってる人を見かけますが、韓国籍は出生地主義ではなく血統主義に基きます。よって韓国で生まれても、両親が日本人であれば当然に日本国籍になり、韓国籍との二重国籍にはなりません。
ただし日本国籍の場合、どこで出生したかは必ず戸籍に記録されます。今回生まれたお子さんにとって、「大韓民国ソウル特別市で出生」という戸籍の記載は、生涯拭えぬ刻印になるでしょう。
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先人の教えは尊い
当たり前ですが、政権批判そのものを悪いとは言いません。その批判が妥当なものであるという前提は当然に必要ですが、妥当な批判無き政権は独善に陥る運命を避けられないでしょう。
ですから、その政権を支持するしないに関わらず、批判はあっても良いと思います。ですがそれは、その政権が公約で示した方向性に対してのものであるべきでしょう。
安倍政権が発足してまだ1ヶ月も経っておりません。全ての公約をもれなく今すぐ果たせ、果たさないのであればそれは公約違反であると言うのは、性急過ぎるにも程があるとは前回も述べました。
自民党の公約の方向性は、テレビCMで安倍総裁の滑舌の悪さから「トリモロス」と揶揄されていましたが、「日本を、取り戻す」であるということは、周知の事実であるはずです。「特亞をぶっ潰す」とか、「韓国を火病らせる」などでは断じてありません。
それどころか公約の4本柱のひとつとして掲げた「外交を、取り戻す」では、
自民党は、国民の生命・領土・美しい海を断固として守り抜きます。 日米同盟の絆を強化し、中国・韓国・ロシアとの関係を改善します。 またASEAN諸国・インド・オーストラリアなどとの安全保障やエネルギー政策での協力を推進します。 自由・公正・法の支配など世界の普遍的な価値に基づく戦略的な外交をダイナミックに展開します。 危機的状況に陥ったわが国の「外交」を立て直します。 |
確かに、自民党は公約に付随した総合政策集において「「建国記念の日」、「主権回復の日」、「竹島の日」を祝う式典の開催」を掲げています。しかしそれは328項目ある政策の中の、328番目です。
自民党の外交に関する公約が「日米同盟の絆を強化し、中国・韓国・ロシアとの関係を改善」し、「戦略的な外交をダイナミックに展開」し、「危機的状況に陥ったわが国の「外交」を立て直」すであるということを踏まえれば、あえて今、日本から韓国を火病らせるネタを振って、韓国の反日を表面化活性化させる口実を与えることにいったいどんなメリットがあるのか、どれほど激しい嫌韓であっても正常な思考能力を持っている人ならば普通に疑問に感じるでしょう。
「竹島の日政府式典開催公約」は、日本にとって非常に良いカードであると私は考えています。何故なら、日本にこのカードを切られたら、韓国政府は反発しないわけに行かないからです。この先韓国が日本に頼らざるを得なくなる状況に陥るのは目に見えていますが、もしそこで日本政府がこのカードを切れば、韓国政府は日本政府と韓国民の板挟みにあって立ち往生するしかありません。
つまり日本政府が「このカードを切るよ」とちらつかせるどころか、そのカードを持っているという事実だけで、韓国政府は日本政府に対して萎縮せざるを得ないのです。こんな強いカードをいきなり切るのは、戦略としては下策ではないでしょうか。
もしこの「竹島の日式典」の件で安倍政権を批判するとすれば、このカードの切り方と切りどころを間違えた時でしょう。もちろん、このカードを切らないまま安倍政権が終わっても批判されるべきだと思います。
韓国はパカパカと伝家の宝刀(と思っているもの)を抜き散らかしますが、伝家の宝刀とは抜いてしまえばそれで終わりです。抜くべき場所、抜くべきタイミングで抜いて用いてこそ、伝家の宝刀は伝家の宝刀たり得るのです。その伝家の宝刀を「今抜けすぐ抜け早く抜け」と喚き散らし、そうしないことを非難するのは、私ははっきり言って利敵行為ですらあると思います。
そういう利敵行為あるいは工作は、弊ブログの読者諸姉諸兄に通じないという確信は最初からありました。ですが、それが通用してしまう日本人も少なからずいるでしょう。自分で考える習慣のない人は、声高に叫ばれ、幾度も繰り返し聞かされた誰かの考えを、自分の考えと勘違いしてしまうことが多いのです。
もし、日本でそういう利敵行為あるいは工作が、まんまと通用してしまえばどうなるのでしょうか。
今の安倍政権に対するバッシングを見て、韓国ウォッチャーの中にはかすかな既視感を覚えた方がいるのではないでしょうか。今の安倍政権に対するバッシングは、5年前の韓国で、2期10年続いた親北左派政権が終了し、李明博政権が発足した直後の韓国の騒動を彷彿とさせるのです。
もちろん、安倍政権が李明博政権と同等同質であるなどと言う気は全くありません。そういう意味で似ているというのではなく、利敵勢力に牛耳られた政権を取り戻した直後という状況と、新政権が発足するや否や、まだ何もしない内から大統領に対する批判と非難が吹き上がったという点が似ているのです。
あの時、新政権に対する批判と非難に煽動された韓国人は、反政府デモを幾度も繰り返し、その終息までに1年以上を要しました。当時の韓国人はあれを「文化的な祭だ」などと嘯いていましたが、リアルタイムでその状況を見ていた私には、どう言い繕っても北朝鮮の煽動工作に韓国人が乗せられた結果の騒動であったとしか評しようがありません。その結果、韓国が何かを得たということは全くなく、おそらく失ったものの方が多いでしょう。少なくとも、5年間という限られた大統領の任期の数ヶ月を失ったことは間違いありません。
今、日本人に向けて繰り広げられている安倍政権バッシングがどのような人々によって行なわれているのかは、よくわかりませんが、まさか5年前の韓国で反政府活動、反李明博デモを煽動した人々と同じ勢力ではないでしょう。しかし「同じような思考、同じような行動様式を持つ人々」であるということは言えるかもしれません。いずれにせよ、私たち日本人がそういう煽動に乗せられてしまえば、韓国人を嗤うことは出来ません。
「朝鮮人のような真似をするな」という私たちの祖父母の教えは、まことに尊いものであったことを痛感する今日この頃です。
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今、為すべきこと
何事につけ満足している人がそのことを殊更に喚き散らすことはあんまりありませんが、不平不満を持つ人はそのことを愚痴ったり騒ぎ立てるのが普通ですから、それは当然かもしれません。
どんな社会であっても不平不満はありますし、健全な社会であればあるほど、不平不満は鳴らしやすいものです。不平不満を鳴らすことが許されない認められない社会というのも、どういう北朝鮮かと思いますのでそれはそれで良いでしょう。
ですが、鳴らされる不平不満が妥当なものかどうかは、当然に検討されるべきです。今回あちこちで展開されている安倍政権批判ですが、今の時点で全ての公約を果たせとか、それが出来なきゃ期限を示せとか、今すぐ韓国に対してあからさまな強硬姿勢を取れというのは性急と言うのも間に合わないほど早過ぎる要求ではないでしょうか。
韓国を含む特亞が最も恐れ、最も嫌がることは、日本が強くなることです。
軍事的経済的、あるいは今盛んに唱えられている日本の国土強靭化も含め、どんな形であっても日本が強くなることを、韓国は非常に強く恐れ、厭い、何とかしてそれを阻止しようとしています。
日本が考えるような日韓友好を、韓国も同じように望んでいるのであれば、日本が強くなることを喜ぶことはあっても、それを恐れ拒み妨害しようとするはずなどあるわけないのですが、現実の韓国は日本が強くなることを強く警戒し、どうにかしてそれを阻止しようとして、陰に陽にあの手この手で妨害や工作を繰り出しています。
今、安倍政権に対して盛んに鳴らされている不平不満の中には、健全で正当な不平不満もあるのかもしれません。しかし日本の強靭化を阻止する目的で行なわれているとしか思えないものもあるわけで、そういうものほど大きな声で騒がれます。その声が韓国の意に沿ったものであれば、それを工作活動とみなし、それに乗せられたりつられたりするのもまた、本人にその意志があるかないかに関わらず、特亞の工作活動に加わる者、あるいは助長する者とみなすのは已むを得ません。
そもそも安倍政権は韓国に対して弱腰だ弱腰だと言いますが、韓国に対して弱腰とは一体どういう姿勢を指しているのでしょうか。韓国に対して外交儀礼を守ることでしょうか。韓国が嫌がることを最優先で積極的に行なわないことでしょうか。
確かに「韓国の立場で見れば」、日本が韓国に対して儀礼を守ることは韓国に対する弱腰であり、へつらいに見えるかもしれません。しかし外交儀礼というものは、単に相手国に対してのみ示すものではありません。当事国以外の第三国に対しても、「日本は外交儀礼を守れる国である」ということを見せる必要があるのです。
例えば先般の日本からの首相特使に対して、韓国は空港のVIP用通路ではなく、一般用通路を使用させました。額賀特使は閣僚ではないからという理由のようですが、閣僚ではないと言っても首相特使なのですから、これは外交儀礼的には大変失礼な行為と言えるでしょう。
もちろん韓国もそれを意識して意図的に行なった無礼でした。その行為は、「韓国内では」大変に支持されているようですが、それを見た第三国はどう思ったでしょうか。日本人が感じるような憤りまで感じる国はそんなにないでしょうが、「韓国は外交儀礼を守らない国」と思うのではないでしょうか。
これを日韓逆転して考えてみれば良いのです。日本が韓国に対し無礼を極めれば、嫌韓厨的にはさぞかし気持ちが良いでしょう。しかしそれを見た諸外国は、日本をどう思うでしょうか。それは日本にとって、得点になることでしょうか。
日本の首相が韓国に儀礼的発言をし、韓国の大統領に首相特使を送れば、韓国は日本がへつらったと思って大喜びし、日本を侮るでしょう。それを業腹だと思う気持ちは、私も嫌韓を通って来た者ですからよくわかります。しかし結果的にそれで日本が得をするのであれば、あるいは韓国が損をするのであれば、それは日本のポイントです。取れるポイントは取っておくべきでしょう。
政府主催で竹島の日式典をするしないについても、すると決まれば韓国が火病るのは必至です。当然、単に竹島の日政府式典を行なうテマヒマだけではなく、韓国の火病発作に対する策を講じる必要も出てきますが、そんなことより問題になるのは、日本政府を後ろから撃つ者の存在です。その存在の行動を日本国民が制止出来るのであれば、政府も安心して韓国に的を絞って対策を講じることが出来るでしょうけれど、残念なことに日本国民はその存在に乗せられ煽られ、一緒になって日本政府を背後から撃ちかねないのです。
「野党でいたほうが日本の為に仕事するなら、自民党は永遠に野党でいて欲しい」というコメントもありましたが、野党でいたのでは日本国のための仕事が出来ないから、自民党は政権を奪還したのです。それを知っての上か知らずに言ってるのかわかりませんが、「野党でいたほうが日本の為に仕事するなら、自民党は永遠に野党でいて欲しい」と言うのは、言った人の思惑がどこにあろうと、「日本のために仕事をする政党には、永遠に与党になって欲しくない」という意思表示にほかなりません。
おそらくそう言った当人は、そんなつもりではないと言うでしょう。皆そうなのです。日本政府を背後から撃つ者全てが、その自覚を持って撃ってるわけではないでしょう。しかし現実的には、そうなるのです。
そういう現実を鑑みれば、政府与党は軽々に韓国や特亞に直接的な強硬姿勢を取れるものではありませんし、また取るべきではありません。安倍首相も自民党も、一度奈落に落ちたのです。もう一度落ちれば、次はありません。もし再び自民党が奈落に落ちれば、今の日本に次を任せ得る政党はないのです。日本に次を任せ得る政党及び政治家が育つまでは、安倍首相にも自民党にも、失敗は許されません。それは誰よりも、安倍首相自身が最も強く理解していることでしょう。
私は自民党の支持者ではなく、安倍首相個人の支持者でもありませんが、少なくとも現時点における自民党の姿勢や行動、対応には、さほどの不満を感じておりません。安倍内閣は、遅いどころか速過ぎて見てる方がハラハラするほど、日本を取り戻すためにフルスロットルで動いています。
日本が今為すべきは、韓国に泥仕合を仕掛けることなんかではありません。安倍首相が唱えたスローガンのように、日本を取り戻すことです。それがひいては、日本の強化を厭い恐れる韓国に対する最大最強の強硬姿勢にもなるのです。
まずは日本を取り戻さなければ、何も始まらないし何も始められないのです。
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冷静かつ客観的に日韓関係を見直す時期
弊ブログでも年明け早々から幾度か、記事内容と関係があるように見せかけたコメントで安倍総理のバッシングに勤しんでる方がいらっしゃいますが、弊ブログの読者諸姉諸兄にそういう工作は、多分あんまり効かないと思いますよ。
そう言えばぼやきくっくりさんのところで
反安倍勢力による保守分断工作には、ほんと気をつけないといけません。 第一次安倍政権(2006-2007年)の頃と比べても、うんと巧妙になってきているように思います。 例えば、これは2ちゃんねる発でどこまで本当かは分かりませんが…… 安倍総理をマスゴミから守る会★96 【日韓】自民・安倍総裁「竹島は日本の領土で国際的にも認識、『竹島の日』式典も別途検討」 こういう話もあるので、皆さん、メディアの誤報や誘導も含めて、ネットの保守分断工作には気をつけましょう。 くれぐれも安易に乗せられることのないよう…。 |
それほど安倍総理を持ち上げているわけでもない韓国ウォッチブログの弊ブログにまでそういう工作が及ぶということは、安倍政権は韓国やそのシンパにとってはよほど都合の悪い存在ということなのでしょう。
以前にも「親特亞マスコミに叩かれ韓国に嫌われる政治家ならば、これはもう間違いなく日本を最優先に考える政治家と思って良いと断言出来ます」と書いたことがありますが、韓国を始めとする特亞勢から執拗に叩かれ嫌われ、足を引っ張ることに血道を上げられれば上げられるほど、安倍政権が日本のためになる政権であることを強調することになって、逆効果なんじゃないかと思うんですが、ま、後先考えないのが朝鮮人ですから、そんな心配は野暮というものかもしれません。
さて、弊ブログでは日韓間の友好など日本にとって必要ではないし、そもそも成立し得ないということをこれまでに何度も述べてきたわけですが、それでもいまだに日本人の間では、太陽が東から昇り西へ沈むが如く、理屈も理由も抜きで日本と韓国の間に友好は必須で必然であると信仰している方が多いようです。
日韓友好は、反日のはずの韓国でも盛んに唱えられております。昨年末にも「韓日両国が真の友になるために、日本の反応を待っている」などと言って、わざわざ日本に来て一人デモをやった韓国人がいたように、韓国はどんなに日本が憎くても気に入らなくても腹が立っても、日本と韓国は運命共同体なのだから、日韓は友好関係であらねばならないのだと言い続けておりましたし、日韓間の交流が活発になればなるほど、日本人以上に韓国人が喜んでいたのは事実です。
ところがこのところ韓国は、日本を抜いて世界第二位の経済大国になった中国におもねる傾向が強まっているのだそうです。日本の力が弱まった、あるいは中国の力が強まったと見るや、たちまち事大する韓国は、呆れるほど100年前から微塵も変わっておりません。彼らを御するには友好などという甘い飴ではなく、経済力や軍事力といった、彼らが恐れる鞭でなければならないということが如実に現れていると言えましょう。
私たちには、その当時の私たちの先祖が多大な犠牲と対価を払って得た貴重な教訓があります。にも関わらず、私たちは何故その教訓に学ばず、再び同じ愚を犯そうとするのでしょうか。何度同じ過ちを繰り返せば、日本人の目は現実を見るのでしょうか。
韓国人には「約束」の概念がなく、個人や企業間の契約のみならず、国家間における条約や国際法でさえ自分に都合の良いように解釈したり変更したり反故にすることが出来ると考えているということは、一昔前と比べれば随分広く周知されるようになりました。実際、つい最近も韓国司法による日韓犯罪人引渡条約の恣意的解釈が行なわれたばかりです。そういう事例は、枚挙に暇がありません。
どれほど日本が韓国との友好を構築するためにリソースを費やし、どれほど韓国との協調を内外にアピールしようとも、韓国人には信義というものがありません。彼らにあるのは常に自尊と我欲です。ですから韓国はある日突然平然と、いやむしろ勝ち誇って日本を裏切るでしょう。騙し討ちのようなやり方で台湾と国交を断絶し、中国との国交を樹立させた時のように。
今、韓国が中国と組んで日本を出し抜こうとするのであれば、日本と組みたいアジア諸国はいくらでもあるのですから、韓国がイメージするとおり、日本は韓国に笑顔を向けながら、韓国などよりずっと気持ち良く付き合える国との友好を模索する方が、よほど建設的で未来志向で国益に適うというものです。
また日韓友好は日本にとって不要というコンセンサスが日本で形成され、日本にとっての韓国が、重要でも特別でもないただ地域的に近隣にある国ということになり、日本国内に住む何十万もの韓国人を特別扱いすることもなくなれば、それらに費やされていた膨大なリソースを別の用途に回すことが出来るようになります。
このように、日本が韓国との友好に拘泥して得られるものと失うもの、韓国との友好という幻想から目覚めて得られるものと失うものをそれぞれ秤に掛けて、好悪や愛憎、恨みや遺憾の意などといった無駄な情緒を排除して、冷静かつ客観的に日韓関係を見直す時期が来ているのではないかと思います。
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日韓友好そのものの議論を求む
とにかく、せっかく日本国内で竹島問題の認知度が上がってきているのですから、日本人の皆様には是非この波に乗っていただきたいと思います。
政治的な右左はもちろん、韓国に対する好悪もこの際無関係で構いません。むしろ政治とは全然関係がないブログや韓流大好きブログ、在韓日本人の韓国レポートブログにこそ参加していただきたいと思います。もちろんブログ以外のツール、例えばツイッターとかフェイスブックでの参加も良いんじゃないでしょうか。
要は、一人の日本国民として、竹島は日本の領土だと宣言したい、するべきと考える方なら誰でも、どんなブログ及びその他のネットコミュニケーションツールでもOKです。日本国民じゃない方が宣言してくださっても、私は別に構いませんが、これは日本の領土問題であり、私たち日本国民の領土意識の問題であるという認識を、何より日本国民ひとりひとりに共有していただきたいと切望します。
という訳で、竹島プロジェクト2013の宣伝はこの程度にしておきまして、本日のお題に入りたいと思います。
日本でも韓国でも、何故か日韓は何があってもどうしても友好しなければならないという前提で語られます。ですが日韓に友好は果たして本当に必要でしょうか。また果たして日韓友好というものは、本当に成立し得るのでしょうか。
弊ブログではこれまでにそのことを何度となく問いかけてきました。今年で弊ブログを始めて9年目に入りましたが、これまでに弊ブログの問いかけに満足な回答をいただいたことは一度もありませんし、弊ブログ以外で見かけたことも、ただの一度もありません。
一般論として、仲が悪いよりは良い方が良いという情緒は私も理解します。しかしそれも相手によりけりです。他人に危害を加え虐げ、苦しむさまを眺めることが何よりの楽しみという相手とは、いくら情緒的に考えても仲が良い方が良いとはどうしても思えません。
それに日韓友好を否定することが、即ち日韓の対立や衝突を意味するわけではありません。それどころか日韓に関してはむしろ、近づけば近づくほど対立や衝突を生むという歴史的事実があります。そういう相手であれば、対立や衝突を避けるために互いに互いを遠ざけ合うという理性的選択があっても良いはずです。
そもそも日本でいう「日韓友好」と、韓国でいう「韓日友好」は、果たして同じものなのでしょうか。日本人の持つ「友好」のイメージと、韓国人の持つ「友好」のイメージは、概ね一致しているのでしょうか。
以前から申し上げております通り、日本人と韓国人では対人意識が根本的に異なります。
日本人はどんなに親しくなっても、「親しき仲にも礼儀あり」と言うように、一定のプライバシーは尊重されます。どこまでなら踏み込んで良いか、どこから踏み込んではいけないのかを、あえて明言せずとも察し合おうとしますし、そういう人とでなければ、日本人が良い友人関係を築くことは難しいでしょう。
韓国人は、親しくなれば互いにプライバシーどころか、パーソナリティさえも溶け合います。彼らの対人関係には上下と同一があると弊ブログでは度々唱えてきました。彼らの対人関係に「対等」という概念は存在しないのです。ですから、たとえ同一化する場合でも対等ではありません。同一化の主体となるのは必ず上位者のみです。同一化した下位者は、上位者のパーソナリティに組み込まれ、ひたすら上位者の意を迎え、従うことになります。それが同一化した下位者にとっての喜びでもあるのです。
こうした対人意識は、そのまま国家間の関係にも引き継がれます。即ち、日本人が考える善き隣人像が善き隣国のイメージになり、韓国人が考える善き隣人像が善き隣国のイメージになるでしょう。
これほどまでに対人意識の違う両国が、同じ「友好」という言葉を唱えても、その中身は当然に異なると考えるべきではないでしょうか。
日本人がイメージする日韓友好は、おそらく日韓が互いの長所を持って互いの短所を補い合い、尊重し合い、助け合い、支え合うといったものではないかと思いますが、韓国人がイメージする韓日友好は、おそらく韓国が日本を意のままに使役し、日本はひたすら韓国の意を迎え従い、それを喜びと感じることでしょう。
これまで日韓が友好を唱えることは数え切れないほどありましたし、私もうんざりするほど見てきましたが、その中身について具体的に議論されたのを見たことは一度もありません。日本と韓国の考える「友好」の概念がそれぞれ異なるものであるということが「日韓友好」の前提として明示されたのを見たことも、一度たりともありません。
現在、日韓関係は悪化していると日韓双方が感じているようですが、これを機に日本がいう「日韓友好」とは具体的にどのようなものなのか、韓国がいう「韓日友好」とは具体的にどのようなものなのかを、日本と韓国は互いに明確に提示し合う必要があるのではないでしょうか。
現時点で唱えられている日韓友好とは、単にイメージと情緒でしかありません。しかもそれさえ、日本と韓国で必ずしも一致していないのです。
日韓関係が悪化しているという認識が日韓双方にある今こそが、日本と韓国の友好は必須にして必然であるという先入観を捨て、日韓友好そのものについての議論を活発に行ない、日本が考える日韓友好がどのようなものなのかを明確にし、それを韓国と共有出来るかどうか、また韓国が考える韓日友好がどのようなものであるかを確認し、それを日本が許容出来るかどうかを徹底的に議論し、検討する好機と私は考えます。
そうすることで、日韓のあるべき関係がより明確に周知され、日韓が目指すべき未来像を、日本国民が明確に認識出来るようになるのではないかと考える次第です。
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真の日韓友好を成立させるには
例えば韓国でも大晦日に除夜の鐘を鳴らすという報道を見ましたが、これは明白に日本統治時代の名残り、韓国で言うところの「日帝残滓」です。しかも検索してみると、韓国の除夜の鐘は108回ではなく、33回なのだとか。これは刀利天(別名三十三天)にちなんだものだそうです。
何事につけ日本より上を行かなきゃ気が済まない韓国人にしては、日本の除夜の鐘よりもずいぶん少ない鐘の数なのは、多分除夜の鐘に対して特に宗教的な意義を感じていたり、季節的な感慨を持っていないためと、108回も鐘を撞くのがまだるっこしくて面倒だからでしょう。
日本人の場合、除夜の鐘が厳かに鳴り始めると、宗教的な意義はともかくとして、大なり小なり「ああ、今年も終わるなあ」とか「新しい年が始まるなあ」という感慨を覚えるものです。
しかし韓国人は中国式の正月を迎えます。いわゆる「旧正(旧正月の略。但しこの言葉もおそらく日帝残滓)」です。そのため新暦の12月31日と1月1日は、旧正月と比べると極めて地味な扱いになっておりますし、韓国人の意識としても、さほど感慨を覚えるものではありません。ですから新暦の大晦日に除夜の鐘を鳴らしても、韓国人的にはクリスマスにクリスマスソングが流れる程度にしか感じていないので、鐘を多く撞くことに執着していないのでしょう。
韓国が何故中国式の正月を迎えるのかと言うと、おそらくかつて日本統治時代に日本式の正月を「強制された」反動だろうと思います。ならば明らかに日本式の越年行事である除夜の鐘など止せば良いと思うのですが、不思議な事に報道で見る限り韓国人は、結構喜んでやっているようです。
日本に憎悪と反感、敵意と怨恨を抱いていながら、そのくせ日本のあらゆる事物に強く惹きつけられ、しがみつき、離れようとしないのですから、繰り返し言うのも飽きましたがねじれにねじれた生き物です。
さて、韓国関連で年末年始の笑えない報道と言えば、やはり靖國神社放火犯の日本への引き渡しを韓国が拒否したことでしょう。
韓国側の言い分としては、この中国朝鮮族あるいは朝鮮人との混血中国人を政治犯とみなし、日・韓犯罪人引渡条約(リンク先pdfファイル注意)の第三条(c)項に基いて拒否したということになっているようです。しかしこの靖國神社放火犯である中国朝鮮族あるいは朝鮮人との混血中国人は、政治犯なのでしょうか。そもそも政治犯とは、具体的にどういう犯罪者を指すのでしょうか。
Wikipediaによると政治犯とは、「ある国の政治体制の中で「反政府的」とされる態度・言動をとったり、「反政府的」とみなされる組織をつくるなど革命運動・抵抗運動・反政府活動を展開したことが元で、政治的理由で逮捕状が出されていたり、刑務所・収容所などに収監されている者を指す。「思想犯(しそうはん)」とも言う」とされております。
しかし実は「政治犯」という概念については、どうやらいまだ国際法的に具体的な定義が確立していない(リンク先pdfファイル注意)ようなのです。考えてみればそれは当然でしょう。「国の政治体制」は、当たり前ですが国によって異なるのですから、全ての国で通用する定義など作りようがありません。
このように定義が確立していない事柄については、恣意的解釈が容易です。即ち今回韓国の司法は、靖國神社放火犯に対してこの恣意的解釈を適用したのです。
もし韓国が、今後この恣意的解釈を全ての犯罪者に適用するならば、日本において犯罪を働いても韓国へ逃げれば、仮に韓国で捕まっても政治犯を主張あるいは装うことで、その犯罪者は日本へ引き渡されることがなくなるということです。
今回は韓国を覆う反日意識ばかりではなく、中国の圧力がかなりものを言ったという部分はあるでしょうから、今後全ての犯罪者に対して韓国がこういう恣意的解釈を適用するとはないだろうと思いたいのは山々ですが、相手が韓国なだけに、絶対と言い切る自信は全くありません。
起きるか起きないかわからない物事に対しては、起きるものと考えて対策を取るのが最善です。即ち、今回の件で日韓犯罪者引渡条約は有名無実化したものと考えた方が良いでしょう。
日韓犯罪者引渡条約に限らず、日韓間の条約や取り決めに関しては、常に日本が韓国に対する譲歩や配慮を求められてきました。しかも日本がどれほど譲歩や配慮をしても、韓国は決してそれに感謝することなく、それどころか日本の譲歩や配慮を当然と思い、更なる譲歩や配慮を求めるようになりました。
今回の件に関しても、日本側が韓国に対し条約不履行のペナルティを負わせれば、韓国は火を噴くばかりに憤るでしょう。あるいは今後日本が、今回韓国がやったことと同じようなことをやっても、韓国は凄まじい憤りを発するに違いありません。
以前にもお話したことがありますが、彼らにどれほど恩恵や特典を与えても、彼らはそれを当然と考えて、決して感謝することはありませんし、更に恩恵や特典を求めるようになります。もしその要求が容れられなければ、彼らは激しく憤り、永久に恨み続けます。
即ち日本が韓国に良かれと思って譲歩や配慮をすればするほど、韓国は日本に対する憎悪や怨恨を募らせることになるのです。それはある意味、日本が韓国の反日を助長しているとも言えるでしょう。
日本と韓国は、近づけば近づくほど、少なくとも韓国にとっては負の感情を刺激される国です。日本が良かれと思ってやることなすこと全てに対し、韓国はその恩恵を貪りながら恨を募らせるばかりなのです。
もし日韓が発展的関係解消を成立させれば、その悪連鎖を断ち切ることが出来るでしょう。そういう意味で、真の日韓友好とは、日本と韓国が完全に没交渉になることによってのみ成立するものだと私は確信しております。
年始所感
さて新年早々、安倍首相が額賀福志郎氏を首相特使として韓国に遣わせるという報道がありました。その際、安倍首相は「韓国は民主主義や市場主義などの価値観が共通する重要な隣国だ。両国新政権のスタートがいい船出になるようにしたい。しっかりと自分の思いを伝えてきてほしい」とあったと要請したと伝えられます。
民主党政権の、韓国に対する阿諛が激しかった反動もあるのでしょう。安倍政権に対しては何故か非常に強硬な対韓国姿勢を求める方が多いように感じられますが、現実問題として、今の日本はそういうことが出来る社会情勢と言えるのでしょうか。
残念ながら、私にはそうだとは思えません。
年末に、金八先生こと武田鉄矢氏がラジオで中韓に関して、黄文雄氏の著書を読んで衝撃を受けたという発言をしておられました。某巨大匿名掲示板ではそれを好意的に受け止めたようですが、私は個人的に大いに不満でした。
何故なら、武田鉄矢氏は終始中韓に関する発言において、過剰としか思えない配慮をしまくっていたからです。
黄文雄氏の著書や著述は、中韓に対して非常に厳しいものがあります。しかし、それらは全てきちんとした根拠に基づいたものであって、恣意的に思える部分はあるかもしれませんが、決して嘘ではありません。中韓のことは学校で習った以上のことを知らない武田鉄矢氏が、何故それを「罵倒に次ぐ罵倒」「韓国の方がお気の毒なぐらい」などと表現出来るのかと思ったからです。
更には韓国が台湾との約束を破って中国との国交を樹立した際の韓国の態度を評して、武田鉄矢氏は「手のひら返しは外交戦術としては当然」と言い放ちます。ならば日本がそういう「手のひら返し」を外交戦術として用いても、あなたはそれを当然と言い評価するのかと、私は思わず歯噛みしたほどでした。
しかし、日本の社会はそこまで韓国に配慮しなければ、韓国に対する批判的な発言を公共の電波に乗せられないのです。それは何故か。単純に、日本人の多くが「韓国に関する否定的なことは、言っても考えてもならない」とマインドコントロールされているからです。
例えば、私たちは近代史で日清日露戦争以後の歴史を詳しく教わることはほとんどありません。日清戦争が何故起きたのか、何故日本がロシアと戦わなければならなかったのかを詳細に知っている日本人は少数派でしょう。私が教わったイメージで言うならば、日清日露は「日本が軍国主義に陥って周辺諸国を侵略しようとしたため」というものでしかありませんでした。
日本は常に一方的で残虐な加害者でしかなく、中国も韓国もその被害者であって、だから日本人は、中国や韓国に対して常に贖罪の意識を持たなければならないし、彼らが日本に対してどれほど非道なことをしても、日本人にはそれを非難する資格がないのだと、明確にではありませんが、そう思わざるを得なくなるように誘導され続けてきました。
もし2002年に日韓チャットに参加しなければ、私は今でもその意識を持ち続けていたかもしれません。いや日韓チャットに参加しても、韓国人から「お前らチョッパリは歴史を知らない」と罵倒され続けていなければ、何も知らないおバカな日本人であり続けたでしょう。
前出の武田鉄矢氏は、確か教員免許を持っておられたと思いますし、自ら本好きを名乗られてもおられます。漫画の「おーい! 竜馬
そういう日本人の方が圧倒的多数派である現実において、いまだ少数派であろう嫌韓勢力におもねるような政策を、一度地獄を見てきた安倍首相がホイホイ取るとすれば、私はその方がよほど不安です。
政権を担う人に、庶民が期待するのは当たり前ですが、庶民にも庶民の担う役割というものがあるのではないでしょうか。
私たちが政権に何事かを期待するのであれば、政権を担う人がそれをやらなければならないと思えるような輿論を、私たち庶民が作り上げなければなりません。
弊ブログがそのための一助になることが出来れば、幸甚これに尽きるものはないとこの年頭に思いを新たにした次第です。