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「ウリ」であるということ

数日前から話題になっていた橋下大阪市長と韓国の元慰安婦を称する老婆の面会は、老婆側による直前のキャンセルという予定調和に終わりましたが、これは昨年と全く同様のパターン、即ち、韓国人側の方から「四の五の言うなら直接会って話すニダ!」と言い出したくせに、日本人側が「ではお会いしましょう」と言うと、グダグダ理由を付けて彼らの方から面会をキャンセルするというパターンでした。このパターンは、日韓翻訳チャットや日韓翻訳掲示板の経験者にも、そこはかとない懐古を感じさせたのではないでしょうか。

日韓翻訳チャットや日韓翻訳掲示板では、日本人にコテンパに論破された韓国人が、悔し紛れに「韓国で実際に会って話そう」と提案することが時々ありました。もちろん、日本人が韓国まで来るはずがないという朝鮮侮りで言うのです。「実際に会えば、殴りつけて生意気な口を聞けないようにしてやる」とか、甚だしくは「殺してやる」と威勢の良いことを言う韓国人も、決して珍しくはありませんでした。

ところが彼らの朝鮮侮りに反して、日韓翻訳チャットや日韓翻訳掲示板に出入りする日本人は、普通の日本人よりは韓国へのフットワークが軽い人の割合が多いのかもしれません。韓国人の誘いと言うか挑発に応じる日本人も稀にいなくはありませんでした。でもきちんとアポイントメントを入れても、土壇場になるとキャンセルされたり、約束の時間と場所に韓国人が現れない「No show(本来は「予約済みなのに現れない客」を指す旅行業界用語)」になることが多かったといいます。

実際に会ったとしても、ネット上での威勢の良さはどこへやら、気味が悪いほど神妙で慇懃というのも普通でした。これはまあ、たいてい日本人の方が年長だったからでしょうけれど。

私が日韓チャットで実際に体験した例では、過去記事にも書いたことがありますが、韓国人教師にチャット上での討論をすっぽかされたことがあります。

韓国では教師が生徒に、歴史認識やら竹島問題などのテーマを与え、日韓チャットで日本人にインタビューしてこいという課題を出したために、続々と訪れる韓国子供たちの言うことが異口同音という時期がありました。

訪れる韓国子供たちがあまりにも判で押して鋳型で抜いたどこを切っても金太郎なのにうんざりして、「無知で幼い子供(日本人にコテンパに論破されると、韓国子供たち自身が必ずこう言い訳しますw)を矢面に立てるんじゃなくて、教師自身がチャットに討論に来るように伝えろ」と言い、アポイントメントを取ったこともあるのですが、実際に教師を名乗る韓国人が日韓チャットに訪れたことは、一度もありませんでした。

韓国三大言論のひとつである中央日報が、原爆を「神の懲罰」と礼賛し、更なる「神の懲罰」を望むが如き論説を載せた件について、日本が公式に怒りを示すや、たちまち「それは一人の意見です、全ての韓国人がそうだと思わないでください」と言い訳するのも、全く日韓チャットの韓国人と同様です。

思えば日韓チャットや日韓掲示板は、韓国と韓国人を剥き出しにして見せる浄玻璃の鏡であったと、確信を持って言うことが出来ます。

弊ブログは開設以来、「日韓チャットなんかで話したぐらいで、韓国人のことが本当にわかるわけがない」と言われ続けておりますが、そういう発言自体が実は、日本人に韓国を見誤らせるための印象操作であり、本人にその意図があるかないかに関わらず、対日工作活動の一種と考えて良いと思います。

さて前回記事で、良いところをついてるコメントがありましたので、今回はそれをお題にします。

「ウリ」は虚しくないのか?」と題するコメント内で、
世界が朝鮮から孤立した場合、朝鮮内で「ウリ」と「ナム」は更に分かれていき、周囲に「恨」をまき散らして、自分のみしか「ウリ」に該当しなくなるでしょう。
虚しいと言う事を彼らは知りえないのか?
というご意見がありましたが、これはなかなか急所を突いたご意見だと思います。

日本人的な感覚では、確かに韓国人のやり方で行き着くところを想像すると、虚しさを覚えるでしょう。しかしそれは、日本人だからそう思うのであって、韓国人たちは一切そんなことは感じていないと断言します。

元々、彼らにとっての「ウリ」とは、即ち「自分自身」です。何百人何千人、いや何千万人の韓国人がいたとしても、彼らが考える「ウリ」とは、「自分自身」のことです。最初から最後まで「自分のみ」の勢力が拡大・繁栄することだけが、「ウリ」の望みなのです。

ですが実際の「ウリ」は、実は彼ら自身ではありません。

お前は何を言ってるんだと思う方もいらっしゃるでしょうけれど、韓国人という生き物を説明するには、そう説明せざるを得ないのです。

韓国人は時々「韓国人はモテモテ」とか「礼儀正しさにかけては韓国人の右に出る民族はいない」とか「東アジアで韓国ほど自国の歴史を反省している国はない」などというようなことを言っては、他国人から不興や失笑を買っていますが、彼らは嘘や冗談でこういうことを言ってるわけではありません。それらは心の底からの本心であり、彼らには彼ら自身がそのように見えている、あるいは【事実はどうあれ】そう見るべきだと思っているのです。

ですから、彼らの考える「ウリ=自分自身」と、現実の「自分自身」が必ずしも一致しないということは珍しくありませんが、その場合、正しいのは「彼らの考えるウリ=自分自身」であるということは、以前にも述べました

彼らが考える「ウリ」とは、「(理想の)自分自身」であり、彼ら自身をそのように見る人、及びそう見るべきだと思っている人なのです。

そんな彼らにとって「ナム」を「ウリ」とすることは褒賞であり、この上ない恩恵です。逆に「ウリ」から「ナム」にされることは懲罰であり、甚だしい侮辱です。彼らが「ナム」とされることを恐れ厭うことはあっても、「ウリ」であることを否定的に思うことはありませんし、それを虚しく感じるということも決してないでしょう

もしあるとすれば、現在の「ウリ」が「ナム」になり、彼らが新しい「ウリ」に乗り換える場合でしょう。例えば、日本統治下の朝鮮人がこぞって日本人であろうとしたり、終戦後は一瞬で手のひらを返したり、北朝鮮で支配層と被支配層の逆転が起きたように。

そうなったとしても、彼らが考えるその時の「ウリ」が、常に(理想の)自分自身であるということは決して揺るがないであろうと思います。



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