日韓関係を諦めよう
しかもそれをせっせと海外にも飛び火させて喜んでいる連中がいるのですから、日本国内の反日勢力の根強さというのは本当に深刻です。
先日のサッカーの東アジアカップ男子日韓戦の応援で、政治的な巨大横断幕を掲げ問題となり、それと相殺するために旭日旗と鉤十字を同一視しようしている韓国でも、当然この件を鬼の首を取ったかのように取り上げており、日本の反日マスコミと韓国言論の連携は今も強固です。
韓国関連では相変わらずうんざりすることが多い今日この頃ですが、世界水泳で日本が活躍しているというニュースが入ってきたかと思えば、H2Bロケット4号機の打ち上げがあっさりと成功していたりと、このところさり気なく日本に良いニュースも入ってきております。
嫌韓の私としては、もしかするとこれは日韓関係が冷え込んでいることのご利益ではないかと思ったりしてしまいます。それぐらい、昨今の日韓関係の冷え込みっぷりは甚だしいものがあります。
そのことは韓国側でも痛感しているようで、某巨大匿名掲示板に【日本は韓日関係をあきらめたのか~そうでなければ非常識な発言を慎み歴史を直視せよ】というスレッドがありました。
引用されたソースの原文を確認すると、「あきらめる」の部分は「放棄する」となっておりましたが、今回は「あきらめる」という訳の方が適切かもしれません。
というのも、かつて、「諦と恨」という記事を書いたことがありますが、「あきらめる」とは、「あきらかにみる」が語源だからです。
「あきらめる」は「諦」という字に当てられた訓ですが、「諦」という字には「あきらめる」という意味以外に「つまびらかにする」という意味もあるように、道理に照らしてものごとを正しく見るというのが本来の意味であり、私は個人的に日本の「諦」という概念を、朝鮮の「恨(ハン)」と対立する概念だと思っております。
すなわち朝鮮の「恨」が現実を直視せず、己の欲望と妄執で自らを縛り、どれほど恵まれても与えられても、決して永遠に満足出来ない「餓鬼」の状態とすれば、日本の「諦」とは冷静に現実を直視し、己の欲望と妄執を捨て、自分に与えられたものを悟り、それを最大限に活かす道を求める智慧と言えるでしょう。
「放棄する」を訓で読めば「放り棄てる」となり、ずいぶん投げやりで考え無しに行なわれることのように思われますが、「あきらめる」であれば、正しく見聞き考えた上での決断ということになります。ですから今回は、「あきらめる」という訳の方が適切だと思うのです。
当該社説が、「日本が日韓関係(の改善)をあきらめるわけがない」という確信のもとに書かれたものであろうことは、記事全体を眺めれば疑う余地がありません。何故なら、それが韓国人の常識だからです。
日本人は韓国が大好きで憧れていて尊敬していると、ほとんどの韓国人は考えています。もちろん、韓国を嫌う日本人の存在も知ってはおりますが、それはごく一部の極右だけで、日本人の大半は韓国が好きで好きでたまらないと韓国人は思っています。
それはちょうど、日本に対する韓国人の感情を裏返しただけのものなのですが、「恨」の精神の韓国人がそれに気づくことは、おそらく永久にありません。彼らは「あきらかにみる」ということが出来ず、永遠に(少なくとも千年はw)「恨」を抱き続けるのです。
日本人は一日も早く、そういう韓国を「あきらかに見て」、日韓関係を速やかに諦めるべきだと考える次第です。