「私は嫌韓ではないが」という前置きについて
中国と韓国が蜜月関係と言われる状態になってからのこの事態に、多分全く関係ないのだろうなとは思いながらも、「法則怖ぇ・・・」と思ってしまう私がいますw
さて、かつての日本、と言ってもそんなに大昔ではありません。ほんの十年一昔前ぐらいのことです。
その頃の日本では、「韓国が嫌いだ」と言うことは出来ませんでした。もし言えば、その理由を話す間もなく即座に「人種差別」のレッテルを貼られ、白い目で見られたものです。
2002年の日韓共催ワールドカップを契機に、その風潮は徐々に変わり、今では「韓国が嫌いだ」と言っても、即座に「人種差別」のレッテルを貼られることは、ないわけではありませんが、以前と比べれば格段に少なくなりました。
しかし今でも、日本人の韓国に対する不思議な「配慮」は生きています。
最近、韓国に対する批判や非難をする時に、「私は嫌韓ではないが」と前置きする人が多いことが気になり始めました。
例えば、アメリカの批判や非難をする際に、「私は反米ではないが」と前置きする人を、私は見たことがありません。それがロシアでも同じです。それどころか、韓国と共に特亞と呼ばれるグループを構成する中国や北朝鮮相手でさえ、批判や非難をする際に、「私は嫌中ではないが」とか、「私は嫌北朝鮮ではないが」などと断る人を私は知りません。
日本人は恐らく世界で唯一、韓国相手の場合だけ、批判や非難、あるいは韓国のネガティブな事実を語る際には、「私は韓国を嫌いではない」と断らねばならないことになっているようです。それは、かつて日本人の潜在意識にあった「韓国を嫌ってはならない」という呪縛が、いまだに完全には解けていないことを示すのでしょう。
日本人の「韓国を嫌ってはならない」という呪縛は、どこから来たものなのでしょうか。
日韓国交正常化以前の日本では、韓国はどちらかと言えば嫌われていたと聞きます。その頃の日本では、韓国は軍事独裁政権による恐怖政治が行なわれている暗黒の国というイメージがあったそうです。今となっては嘘のようですが、その頃は韓国よりも北朝鮮の方が、明るく溌剌とした国だと思われていたのだとか。ところが時代が移るにつれ、北朝鮮は暗黒の国と認識されるようになり、反比例するように韓国は開かれた明るい国というイメージになりました。
日本人に「韓国を嫌ってはならない」という呪縛が掛けられ始めたのは、おそらくこの日韓国交正常化以後からではないでしょうか。
それはもしかすると、それまで韓国を北朝鮮以上の暗黒の国と思っていたことの埋め合わせのような意識だったのかもしれません。同時に、「チョッパリがウリとウリナラを嫌うことなど、絶対に許さないし認めない」という韓国人の意識に対する配慮から来るものだったのかもしれません。
いずれにしても、その辺りから日本人が「韓国を嫌ってはならない」と考えるようになったのは、間違いないでしょう。
好き嫌いと是々非々は、必ずしも一致するとは限りません。しかしだからと言って、是と非が入れ替わるということもありません。惚れた目で見ればえくぼに見えるあばたが、本当にえくぼになることはありませんし、その逆もまた然りです。
ところが、こと韓国に関しては何故かこれを一致させようとする圧力が働きます。即ち、韓国のことが好きな者は、韓国の非を一切、何一つ穿つべきではなく、韓国の非を穿つ者は、韓国のことが嫌いな者なのだという公式の成立です。
その結果として、好き嫌いの表明ではなく、事実の羅列や学術的な分析であっても、そこに韓国の非と認識され得るものがあれば、それを言う者は韓国の非を論う者であり、嫌韓であると見なされる風潮が出来上がりました。
けれど本来は、親韓こそが韓国の改めるべき点を指摘し、それを是正するための提案を積極的に行なうべきではないのでしょうか。嫌韓が言えば悪口かもしれませんが、同じことでも親韓が言えば愛ある忠告であり、諫言になるはずです。
にも関わらず、親韓連中のやってることと言えば、嫌韓を嫌韓であるという理由だけで攻撃することだけです。それは、韓国人側に忠告や諫言を受け入れる器がないためでもあるでしょう。韓国に対する見解が真逆であっても、相手が日本人であれば議論が可能ですが、韓国人が相手では議論そのものが成立しないと、親韓連中でさえ最初から投げているのです。
時々申し上げているように、嫌韓の最大の原因は韓国自身ですが、韓国人と親韓連中はそこから必死で目を逸らし、嫌韓がただの流行か中二病か歪んだナショナリズムの表れであるかのように言い、また自らそう信じようとしています。
その上、韓国が国を挙げて日本人に嫌われるようなことをやっているのに、それを改めさせようともせず、日本人に韓国を嫌うな、嫌韓をやめろと迫るのです。
それでは嫌韓が増えることはあっても、なくなることなど韓国が消滅するまであり得ません。
親韓連中は、日本人に向かって嫌韓をやめろと叫ぶのではなく、韓国に向かって「日本に嫌われるようなことをやめろ」と叫ぶのが筋なのですが、そう叫ぶためには、「私は嫌韓ではないが」と前置きしなければならないという縛りが掛かっているのです。
韓国や韓国人に向かって「日本に嫌われるようなことをやめろ」と言う行為そのものが、韓国人から見れば嫌韓的所業と見なされます。親韓連中は嫌韓に見られることを恐れ、あるいは厭い、韓国人に「日本人に嫌われるようなことをやめろ」と言えません。それだけではなく、韓国人の意を迎えるために、韓国人と一緒になって韓国人から見た嫌韓的行為を働く者、即ち「日本人に嫌われるようなことをやめろ」と言う日本人を、「嫌韓」と見なして糾弾するのです。
親韓連中に、韓国に対する本当の愛情や好意があれば、それが賽の河原で石を積むに等しい行為になろうとも、韓国人から嫌韓とみなされ攻撃されることになっても、韓国人に対して忠告や諫言をするでしょうけれど、前述のような現実を鑑みれば、そこまで韓国に対して愛情を持っている親韓日本人など、おそらくほとんど居ないのでしょう。
親韓連中の多くは、「他人や他国を嫌うのは悪いこと」という小学校低学年レベルのモラルに縛られ、あるいは他者を縛ろうとし、反面韓国に対しては諫言ではなく甘言を与えるだけの人々に見えます。韓国にはそういう人しか寄り付かず、またそういう人でなければ韓国人も受け入れることが出来ないのでしょう。
現在の日本で「韓国が嫌いだ」と公言することに抵抗が減ったように、韓国の事実を事実として淡々と、「私は嫌韓ではないが」などという、無意味でどうでも良い前置きなしに言える日が来るようになると私は考えております。
そうなった時、韓国に関する事実を語る人を「嫌韓」とか「レイシスト」などと罵った親韓連中はどういう態度を見せるのか、私は今から楽しみにしております。