混ぜるな危険
ビビンバとは、朝鮮語の「ビビダ(揉む・こする)」を名詞化した「ビビム」と、「パプ(飯)」からなる合成語で、日本語では「混ぜご飯」と翻訳されることもありますが、日本人の考える「混ぜご飯」とは全く異質なものです。
日本の混ぜご飯は、米粒を潰さぬようにさっくりと混ぜるものですが、韓国のビビンバは、餅でも作る気かという勢いで捏ね繰り混ぜます。
その結果、米粒と具材が渾然一体などと言えば聞こえは良いのですが、コチュジャンの色と味に染め上げられた、汁気の少ない、焼く前のお好み焼きのようなものが出来上がります。彼らはそうなって初めて、「美味しそう」と認識するようですが、日本人的な美意識では、それを食品と認識するのも躊躇してしまいます。
韓国人がこの「ビビム」状態を好むことには、甚だしいものがあります。最初に「何事につけ」と述べた通り、韓国人のこの習性は、ビビンバだけに限りません。カレーライスや丼物、散らし寿司などの米飯料理や麺類などの主食系料理はもとより、パフェやかき氷などにもスイーツにすら発揮されます。更に食品に留まらず、人間関係や国家関係にまで「ビビム」が及ぶことがあります。
以前から申し上げている通り、韓国人の対人関係には「上」「下」「同一」の三種類がありますが、この中の「同一」というのが、いわば人間関係の「ビビム」でしょう。
但し、これも以前から申し上げている通り、「同一」においても「上」と「下」の順位はあり、「同一化」した時の主観は、「上」の者が持つことになります。韓国人は基本的には常に「自分が上(であるべき)」と考えているので、人間関係を「ビビム」することによって「俺の物は俺の物、(同一化した)お前の物は俺の物」という意識が成立するのです。
韓国人同士の場合は、双方がそう思っているので、当然「どちらが上位であるか」を明確にするための鬩ぎ合いが時にはっきりと、時に水面下で行なわれますが、もしそれが行なわれなければ、韓国人の意識は自動的に「自分が上位の同一化」で固定されます。
それが「韓国人同士の関係」に限定されているのであれば、日本人が口出しすることではありませんが、彼らはそれをナチュラルに他国人に向かっても行なうのです。
特に日本人に対する韓国人の同一化欲求は甚だしいものがあります。それが前回記事の主題として取り上げた、議論に詰まった際に「それでは日本は!」と叫ぶ彼らのマインドの根源となっているのでしょう。またこれに、実に素直に応じてしまう日本人が多いのも、前回述べた通りです。
素直に応じる余りに、彼らのそういう考え方に絡め取られてしまう日本人も少なくないことが、日韓の共依存関係を深刻なものにしているのではないでしょうか。
前回記事のコメントで「考えなしの反韓も多くなってきたように感じ、その点は危惧しています。」というご意見がありました。
このご意見自体には、私も同意する部分があります。ですがこれが、「日韓関係問題」に対する意見として述べられているのであれば、話は別です。
このコメントがもし「日韓関係問題」に対する意見として述べられているのであれば、それはいわば、日本における在日の通名犯罪問題について議論している時に、「日本人の戸籍売買や偽装結婚、偽装養子縁組の方が問題だ」と言うのと同じことです。
如何なる嫌韓厨であっても、日本や日本人を、完全無欠で善良無謬であると主張する者はいないでしょう。日本にも問題点は数多くありますし、日本人にも悪人や犯罪者は一定数存在しますし、言うまでもなく、全ての日本人には欠点があります。そのこと自体は、解決や改善に向けてすべからく議論されるべきことであるということについては、どんなに重症の嫌韓厨であっても、異論を唱えますまい。
しかしそれを、韓国(人)の悪行を免罪、あるいは相殺するための文脈で用いるのであれば、嫌韓厨でなくとも異議を申し立てたくなります。
韓国人の叫ぶ「それでは日本は!」というのは、まさに韓国(人)の悪行を免罪あるいは相殺するために用いられるものであり、それに応じること自体が、彼らの術中に陥ることになりかねません。
筑波大学の古田博司教授ほど韓国を熟知している人であれば、「全面肯定反転畳み返し」なる技を使って、韓国人の術を跳ね返すことも可能でしょう。しかしこの技を使えるに至るまでには、数えきれないほど韓国人に煮え湯を飲まされる経験が必要になると思います。韓国人に何度煮え湯を飲まされても、それに耐えて生き残ることが出来れば、「全面肯定反転畳み返し」などの技を使って韓国人に対抗出来るようになれるでしょうけれど、そんな苦行を積む理由も動機も機会も、ほとんどの日本人にはありません。
ですから一番良いのは韓国人のそういう術を避けることなのですが、厄介なのはその術に嵌った日本人が、日本人に対してその術を仕掛けてくることです。
そうなると一見、「日本人が日本人の問題について日本人に提起している」風になります。くどいようですが日本(人)にも問題は数多くあり、それを解決なり改善なりするための議論を行なう必要があるということには、おそらく全ての日本人が同意するでしょう。
ですが、それに日韓問題を絡めてくるのであれば、それは「日本(人)の問題解決や改善のための議論」にはなり得ないのです。
韓国人は、何事も捏ね繰り混ぜてしまう生き物ですから、無意識にそうするのはしかたありません。それは韓国(人)の問題であって、日本人が口を出すことではありません。日本人がすべきは、彼らの習性を改善することではなく、そういう韓国人を遠ざけることです。
しかし日本人が韓国人のやり方に倣って、韓国人の代理人よろしく日本(人)の問題と日韓問題とを捏ね繰り混ぜるようなやり方で問題提起をすれば、問題提起自体が正しくとも、そのやり方を非難されることになるのはしかたないのではないでしょうか。
思いついた時に言いたくなる気持ちは分からないでもありませんが、問題提起にも時と場合と場所というものがあります。時と場合と場所をわきまえることが出来、またそれを当然として求められるのが日本人であり、時も場合も場所も彼我も正否も何もかもを捏ね繰り混ぜてしまい、それを当然と思っているのが韓国人です。
日本と日本人の問題点については、月見チャットでも頻繁に話題になっており、嫌韓派にとって決してタブーとされてはいません。タブーとされるのは、それを日韓問題と捏ね繰り混ぜてしまうことです。
混ぜる時には成分を確かめて、混ぜても問題ないかどうかを確認あるいは判断する必要があり、もしその確認や判断が出来なかったり迷ったりした時は、無闇に混ぜないという分別を持たなければいけないのは、洗剤だけではないのです。