自尊心という名の劣等感
さて、前回記事で「朝鮮人は抑圧を望む」と書きましたが、「そんなことないんじゃないの?」というご意見が、きっとあるだろうと思っていました。
何しろ韓国人の性質としてあげられるものの中には、「情に厚い」と並んで、必ずと言って良いほど「自尊心が強い」というものがあるのです。「自尊心が強い」韓国人が、他者から抑圧されることを望むわけがないと考えるのは、至って自然な発想だと思いますが、同時に至って日本人的な考え方でもあります。
確かに日本人の目から見ると、韓国人というのは尊大で自信家のように見えます。自分がどんなに素晴らしい人物であるかを時に直截に、時に遠回しに語り、あの手この手で相手に「すごいですね」「素晴らしいですね」と言わせようとします。
反面、侮辱や罵倒には極めて神経質に反応します。彼らがいまだに日帝36年の恨みを言い募るのも、彼らの自尊心を傷つけたが故だということにされています。
しかし本当に韓国人は自尊心が強いと言えるでしょうか。
日韓チャットの常連日本人の間には、韓国人の「自尊心」は「劣等感」と読み替えるべきだという意見がありました。もちろん、私もその意見に全面的に同意します。
本当に自尊心が強い人々が100年どころか、400年も前の恨みをいつまでも持ち続けるでしょうか。本当に自尊心の強い人々が、謝罪ばかりか賠償を執拗に、しかも何度も何度も求め続けるでしょうか。本当に自尊心の強い人々が、いろいろ有利だからと言って、弱者や被害者の立場にいつまでもしがみつこうとするでしょうか。本当に自尊心の強い人々が、他人の著作物ばかりか他国の文化や偉人までをも、我が物にしようとするでしょうか。
真の自尊心を持つ者は、恥を知ることの出来る者でもあります。己に恥じないことを貫くことの出来る者です。
例えばスポーツやゲームでズルやインチキをした時、誰にもバレなくても、自分だけは自分がズルやインチキをしたことを知っています。本当に自尊心があるならば、ズルやインチキでスポーツやゲームに勝ったとしても、心の底からその勝利を喜ぶ気にはなれないものです。その点、韓国人はどうでしょうか。
2002年の日韓共催ワールドカップを契機として、更に10年を経た今日では、韓国人にそういう感覚を持つ者は少ないということは広く知られるようになりました。もちろん絶無とまでは言いません。丹念に探せば、そういう感覚を持つ韓国人も、もしかしたら見つかるかもしれません。
ですがそういう韓国人は、韓国社会では真っ先に蹴落とされ踏みつけられるようになるので、韓国社会で発言権を持つに至ることはほとんどありません。たとえあっても、必ず一代限りで終わります。何故なら二代目以降は、一代目が得た発言権や立場をバックにして、並の韓国人よりも一層増長するからです。結果、そういう感覚を持つ韓国人は、増えることも引き継がれることもありません。
ある意味、韓国社会自体が「本当の自尊心」を持ち得ない構造になっていると言っても過言ではないでしょう。
それは、韓国の建国以降に初めて生まれた目新しい社会構造ではありません。李氏朝鮮も、おそらく北朝鮮も、根っこの部分では今の韓国とさほど変わらないでしょう。同様に在日社会も、根っこの部分はそういう構造になっているのではないでしょうか。つまり、「有りもしない自尊心を誇示すること」「有りもしない自尊心の誇示を前提に社会が構築されていること」は、朝鮮人に固有の習性と言えるのではないでしょうか。
それが朝鮮人の習性故の朝鮮社会構造なのか、朝鮮社会構造故の朝鮮人の習性なのかという話はしません。それがどちらであったとしても、韓国人は宿命的に真の自尊心というものを持ち得ないということがわかれば、それだけで十分なのです。
彼らが見せるのは、彼らが「自尊心」と名付けた劣等感に過ぎません。その劣等感故に彼らは優れた他者からの統治を望み、その劣等感故に彼らは優れた他者からの統治に反発したり反抗したりするのです。
故に、日本人から見れば異常とも言える自尊心を示す韓国人が、実は優れた他者からの統治を望みつつ、優れた他者に統治されることを心の底から恨むことが、彼らの中では全く矛盾せず成立するのでしょう。
彼らを統治する適任者は、彼らのそのややこしい精神構造を配慮も考慮もせず、統治者の都合に合わせて型に嵌めるように問答無用の統治を行なうものであるというのも、これでお分かりいただけるのではないかと思います。