その日が来るまで
ネットで本を買うのは、確かに手軽で便利です。欲しい本が決まっているならば、ピンポイントで探し当てて注文出来るネットの方が、本を買うに捗るのは間違いありません。
それでも私は、本屋が好きです。壁という壁に、棚という棚に、みっしりと本が詰まった店内をそぞろ歩くとき、私の頭の中は、本への漠然とした期待でいっぱいです。
私が本屋を訪れる場合、どんな本が読みたいという具体的なイメージがあることは多くありません。自分が抱えている疑問や悩みを解決してくれたり、不安を和らげてくれたり、ものすごく興味深いことを教えてくれたり、現実を離れ、空想の世界で思う存分遊ばせてくれたりするのではないかという極めて漠然とした期待を抱いて、居並ぶ本の背表紙を流し見歩けば、一時間や二時間はあっという間です。
もちろん、そんな雲をつかむような期待に沿う本が、本屋を訪れる度に見つかるわけではありません。見つかっても困ります。我が家の家計に占める書籍費の問題も大いにありますし、本の収納スペースの問題もありますし、本を読む時間にも、限りがあるのです。
それでも本屋訪問の何度かに一度は、自分の期待に沿った本を見つけます。その本を手に取った時の、期待が現実となって自分の手の中にあるという喜び。その本を持ってレジへ向かう時に、気を抜けば思わずスキップしてしまいそうになるウキウキ感は、ネット購入では絶対に味わえません。
というわけで、私はちょくちょくリアル書店を訪れるのですが、昨今の書店では韓国に対する厳しい論調の本が目立つようになりました。
意外に思われるかもしれませんが、私は最近出た韓国に対する厳しい論調の本は、あまり読んでおりません。理由は、私にとって目新しいことが書かれているわけではないのがわかっているからです。
読みもしないで何を言うと言われるかもしれませんが、これだけは読まなくてもわかります。何故なら、書かれている対象が韓国だからです。
前からくどいほど言っている通り、韓国は薄くて浅くて上っ面です。誰が見ても、どんなに掘り下げても、韓国が韓国である限り、本当の新発見はありません。新発見のように思われるものがあったとしても、それは単にかつて一度発見されながら、その余りの薄っぺらさにたちまち忘れ去られてしまい、再び発見されても、かつて発見されていたことさえ俄に思い出してもらえないだけだったりします。
韓国をよく知らない間は、その素っ頓狂さにいちいちびっくりすることも多いのですが、ある程度韓国を知り、韓国人の習性に慣れてくると、彼らの斜め上やねじれも、ある種の枠の中に収まるものであることに気づきます。
最近の韓国に対する厳しい論調の本が、その「枠」から外れた内容のものだとは思いません。何故なら、その「枠」に収まるようなことであっても、韓国を知らない人には俄に信じがたいものであることが多いのです。それを外れた内容であれば、韓国を知らない人には信じられる信じられない以前に、全く理解出来ないでしょう。
ですから従来からの韓国ウォッチャーは、最近の「韓国に対する厳しい論調」系の本には、同意出来ても満足出来ない人が多いのではないかと思います。少なくとも、私はそうです。
しかし現在そういう本が盛んに発売されているということは、韓国をそれほど知らないながらも、韓国に対する厳しい意見を読みたいという人が増えているということなのでしょう。
出版社も本屋も商売です。それでなくとも最近の出版不況は深刻といいますから、読者のニーズがあるなら、それに応じた内容の本を積極的に出すのは当然です。書店に韓国に対する厳しい論調の本が目立つようになってきたのは、おためごかしではない韓国論を求める人が増えてきた証左といえるでしょう。
日本の嫌韓を、ネットの中だけの現象とたかをくくっていた韓国人や親韓派は、泡を食っているに違いありません。いまや日本の嫌韓は、確実に現実の中で存在感を増してきました。弊ブログを含む、韓国ウォッチ系ブログが唱え続けてきた韓国や朝鮮に関する警鐘も、ようやく現実として認識されるようになってきました。ネットの巷で展開される韓国に関する認識を見るにつけ、もはや弊ブログの役目は終わったのではないかと思うこともしばしばです。
ですが、喉元過ぎれば熱さを忘れるということもありますし、韓国も黙って日本人に嫌われるがままになっているとは思えません。
弊ブログが、既に言いたいことは言い尽くしているのに、いつまでもだらだらとブログの更新を継続しているのもそれが大きな理由です。ブログの更新が止まれば、その時点でそのブログに書かれていることは、全て過去のこととなります。それが過去のことではなく、今も継続されているということを示すためには、更新を続けるしかないのです。
日本人は、高い警戒心を持ち続けていないと、容易に韓国人に懐柔されてしまいます。日本人の警戒心の高さを維持するためにも、警鐘は鳴り続けなければならないのです。
日本と韓国が、物理的もしくは制度的に断絶されるその日まで。