韓国人は韓国人の考えがわからない
ところが逆にこちらから、「それは韓国人全体の考えか」とか「一般的に韓国人は皆そうなのか」と言うと、途端に「これは私個人の考えだ」とか「韓国人全てがそうだと思わないでください」と尻込みします。
この行動様式を、以前は彼らの責任回避癖故のことだと思っていました。今も、責任回避のためという部分がないとは思いません。思いませんが、責任回避のためだけではないのではないかと思うようにもなってきました。
責任回避のためだけでないなら、他に何があるのかと言えば、それは彼らには「韓国人全体」というものがわからないのではないかという疑念です。
日本人であれば「日本人は一般的にどのように考えるのか」と聞かれれば、自分だけではなく、自分を含めた自分の知る限りの日本人の考えを慮るでしょう。そうすることで、自分個人だけではなく、日本人の最大公約数的な意見というものを推察しようとするはずです。
もちろん、それが必ず日本人全体の意見と一致するとは限りません。それでも「自分が考える日本人の一般論」というものを見つけることは、日本人にはさほど困難な作業ではありません。
それは、日本人が常に他者への配慮を怠らないためではないでしょうか。
個人差はあるにしても、「一般的な日本人」は他者への配慮を常に行なっています。それが出来ない日本人も皆無ではありませんが、そういう日本人は自動的にアウトロー、即ち無法者とみなされます。立法化どころか明文化すらされていませんが、「他者への配慮」は、日本人社会においては不文律として厳然と存在します。
「他者への配慮」というものは、自分の行動を他人がどう考えるか、他人が自分にどうして欲しいと思っているかを常に考えていなければ出来ません。これを、日本人は物心付いた頃から躾けられます。箸の持ち方と同じ程度にそれを身に付けていることが当たり前というのが日本人社会ですので、普通の日本人はそれを苦にも重荷にも感じません。
対する韓国人社会は、お察しの通り真逆です。
彼らは「他者への配慮」というものを、全くと言って良いほど持ちません。自分の行動を他人がどう考えるか、他人が自分にどうして欲しいと思っているかなど、全く考えません。
彼らにあるのは、上下関係に基づく支配と被支配の構造であり、被支配者が支配者の顔色を伺い、その意を迎えるために阿り諂うということは頻繁にあります。
しかしそれは必ず上位者に対して下位者が行なうよう暗黙に強要された、ある種の屈辱であって、日本のように自分以外の他者と言うか、「日本人社会全体」に向けて全方位的に行なわれる好意や善意に基づくものとはまるで趣きが異なります。
よって韓国人は、自分より下位とみなした相手には決して配慮をしません。それは即ち、その相手のことを考えないということです。
自分以外の他人がどう考えるか、自分以外の他人が何を欲しているかに思いを至らせる習慣がない彼らに、「韓国人は一般的にどう考えているのか」と聞いても、答えられるはずがないのです。
同じ国に生まれ同じ言葉を話す韓国人同士であってもそうなのです。ましてや日本人が一般的にどう考えているのかということなど、韓国人には逆立ちしても思い至りますまい。
日本から韓国を理解することは出来るかもしれませんが、自分たちのことさえわからない韓国人に、日本のことを理解しろと言うのは、余りにも酷でしょう。
友好は相互理解によって成立するものですが、韓国に「相互理解」の能力が無い現実を鑑みれば、日韓友好など絵に描いた餅より非現実的というものです。
朝鮮はどこの国の領土?
ですから議論を吹っ掛けてくるのは例外なくと言って良いぐらい高校生までのお子さまです。このお子さまたち、自分が学校で習ったばかりの知識をベラベラベラッと唱えれば、日本人はたちまち恐れ入ってへへ~とひれ伏すとでも思っているらしく、皆が皆、判で押して鋳型で抜いたかの如く同じような口上を述べます。
中でも頻繁に出てきた口上が、「ドクトでは韓国の携帯電話が使える。だからドクトヌンウリタン」というものと、「日本人はドクトが東経何度、北緯何度にあるか言えるか。ウリは言えるぞ。韓国人は皆言える。だからドクトヌンウリタン」というものでした。
これに対して、前者の場合は「じゃあ釜山ではNHKの放送が見れるから釜山は日本領でOK?」と言えば一発着火でしたし、後者の場合は、「じゃあお前の家がある場所の経度と緯度を言ってみろ。言えないならそこはお前の家じゃない」と言えば、こちらもやはり発作を起こすのが常でした。
この竹島の経度と緯度、こいつらはいったい何故覚えているのだろうと当時は不思議でした。学校で教えてるとしても、全員が全員、覚えてもさしてメリットがあるとは思えない数字を覚えてるのは不自然です。
後に、これは学校の授業で教えているわけではないことが判明します。いや、教えているのかもしれませんが、韓国人のほとんどが竹島の位置を経度緯度で言える理由は別です。その理由は、「ドクトヌンウリタン」という歌の歌詞に竹島の経度緯度が入っているからです。
この「ドクトヌンウリタン」という歌、韓国人なら知らない者はいません。幼稚園ぐらいから、踊りと共に叩き込まれるからです。この歌の二番に、「慶尚北道鬱陵郡南面島洞1番地 東経132度北緯37度 ドクトヌンウリタン」というフレーズがあるために、韓国人はもれなくと言っても過言ではないほど、竹島の経度緯度を諳んじているのです。
この歌の中に、「ハワイヌンミグクタン」というフレーズがあります。朝鮮語で「ハワイはアメリカ領」という意味です。その後に「テマドヌン」と続きます。「テマド」は漢字で「対馬島」と書き、そのまま対馬を指します。
この部分の歌詞は、当初「テマドヌンイルボンタン」でした。「対馬島は日本領」という意味です。その後に、「ドクトヌンウリタン」と続きます。内容はともかくとして、文脈や構成としては適切と言えましょう。
ところが韓国で「対馬も韓国領土だ」という主張が台頭してくると、いつの間にか「対馬島は日本領」という部分が、「対馬島はわからないが」と変更されたのだそうです。これは確か、産経新聞の黒田勝弘氏も著書の中で触れていたと記憶します。文脈としても構成としてもかなり無理はありますが、この程度の無理を気にしていたら、韓国人などやってられないのでしょう。
ここまででも、韓国人の異常さが十分見られると個人的には思いますが、やはり韓国人、更にダメ押しをしてくれました。最近の歌詞では「対馬島はわからないが」の部分が、「対馬島は朝鮮領」となっているのです。これは前回記事で引用した動画で確認したので間違いありません。
要するに韓国人は、「対馬もウリタン(我が領土)」と言いたいのだろうなと思ったところで、あれっ?と思いました。
最初の歌詞では「ハワイはアメリカ領、対馬島は日本領、ドクトヌンウリタン」となっているということは、前者二例は外国の事例を上げていなければ平仄が合いません。
一回目の改変のように、「対馬島はわからないが」であれば、「わからない例を何故あげる」という突っ込みは可能ですが、まだマシです。しかし二回目の改変の「対馬は朝鮮領」とは、どういう意味なのでしょうか。
もちろん「対馬は朝鮮領。朝鮮はウリナラ。よって対馬はウリタン」と韓国人は言いたいのでしょうが、ならば何故、「対馬島はウリタン、ドクトもウリタン」と歌わないのでしょうか。何故わざわざ、「朝鮮領」にしたのでしょうか。「朝鮮」という国は、韓国人にとって「わが国」なのか「わが国」でないのか、どちらなのかという疑問が浮かびました。
そこで昨日、月見チャットに馴染みの韓国人が来たので聞いてみました。「韓国人から見て、朝鮮は「わが国」か?」と。
やや答えを渋る素振りは見せたものの、その韓国人は「No」と答えました。韓国人にとって、朝鮮は「わが国」ではない、ということです。
続けて質問しました。「では韓国人にとって「朝鮮」は外国か?」と。するとその韓国人、ほぼ即答で「No」と答えました。
「朝鮮はウリナラではないが、外国でもない」というのがその韓国人の答えということです。私には矛盾した回答に聞こえたのでその理由を問うたところ、「朝鮮は韓半島にあった国。今は存在しない。だからウリナラじゃないけど、外国でもない」ということでした。
だとすれば、「ドクトヌンウリタン」の歌詞にある「対馬島は朝鮮領」というのはどう理解すれば良いのかと問うたところ、韓国人は「それは対馬は朝鮮が征伐したということを根拠に思っている」と答えました。つまり「対馬はかつて朝鮮に征伐されたから、朝鮮領だ」ということになるのだそうです。
しかし、仮にその主張を100%受け入れるとしても、「今は存在しない国」が「領土」を持つことなど出来ません。ですから、「対馬島は朝鮮領」というあの歌詞は、いったいどういう意味と韓国人は思っているのかと更に問い詰めたところ、四の五の四の五のと話をマジェマジェし始め、結局納得出来る回答は得られませんでした。
日韓チャットとは違ってサンプル数が1で、しかも馴染みということもあって日本人慣れしている韓国人ですから、この結果が韓国人全体の傾向と一致するとは言えませんが、それでも、韓国人が愛国心をほとばしらせながら歌い踊る「ドクトヌンウリタン」という歌の歌詞からさえも、韓国人の複合意識の片鱗が読み取れるのではないかと思う次第です。
2014年竹島の日に寄せて
私も長らく韓国ウォッチャーをしていますが、以前から申し上げている通り竹島問題は苦手科目のひとつです。何しろこの問題は、日本側と韓国側の論点が全く噛み合わないのです。
主張が対立するならするで良いのです。しかし、同じ事柄について論じるのであれば、論点が噛み合わなければ話そのものが成立しません。竹島問題は、本来であれば日韓双方が領有を主張しているのだから、その領有の根拠について論じれば良い話のはずです。
ですが竹島問題は、実際には竹島の領有が問題なのではありません。少なくとも、韓国側はそうです。彼らにとって、リアルの竹島など激しく果てしなくどうでも良いというのが本心なのは、透け透けの見え見えです。彼らが必死に抱え込んで離そうとしないのは、「日本から奪い取った象徴」としての竹島なのです。それは日本の主観で言えば「日本に対する韓国の嫌がらせ」でしかありませんが、韓国の主観で言えば「劣ったチョッパリに統治されたという【恨(ハン)】を解くために仮託する対象」なのです。
それに対し日本側は、あくまでも実体としての竹島について議論しようとしているのですから、韓国と話が噛み合うはずがありません。
おそらく日本側の担当者や専門家も、それに気づいてはいるでしょう。だからと言って日本までもが真面目に公に韓国の妄想に付き合うわけにもいきません。日本側としては、どうしても常識的な態度と主張をするしかありません。
それがまた韓国を苛立たせるのです。どうにかして日本に地団駄を踏ませたい、悔しさのあまり血の涙を流させてやりたいのに、日本は聞き分けのない子供に言って聞かせるような態度で、韓国に反論します。
韓国側の主観的には、「聞き分けのない子供」は日本なのです。「聞き分けのない子供」のくせに、「大人(韓国では、「大人(オルン)」は畏怖の対象)」のような態度を取る日本が、韓国は腹立たしくてしかたがありません。
韓国はそれで尚一層、日本を悔しがらせようと躍起になります。そのために嘘も捏造も誤解も牽強付会もマジェマジェにされていくのです。
はっきり言って、日韓の二カ国間だけで本気で竹島問題を解決しようとするならば、戦争も辞さずという覚悟が必要になるでしょう。日本側にその覚悟があるのかないのかは私にはわかりません。多分ないと思いますが、仮にあったとしても、現状それを表に出すわけにはいきません。
韓国側は、ぶっちゃけ日本と戦争する覚悟などありません。まったくありません。あるわけありません。もし韓国側に、いくらかでも本気で日本と戦争する覚悟があるならば、とっくの昔にやっています。
日本に対して韓国が武力を行使しないのは、もちろんアメリカの手前とか、北朝鮮の脅威に備えるという問題もあるにはあります。ですが彼らは、一度その気になったら、後先など全く考えず、どんな素っ頓狂も平気でやってのける生き物です。もし誰かにその素っ頓狂を責められたら、相手が辟易して黙るまで言い訳や理屈や嘘を総動員するだけですし、それで相手が辟易して黙らなければ、相手が逃げ出すほど火病るでしょう。
ですから日韓の二国間だけで竹島問題を解決することは、事実上不可能だと思っています。
そこで第三者に双方の主張を聞いてもらって、どちらの主張がより正当かを判断してもらうという方法になるわけですが、ここでも日本と韓国のやり方は食い違います。
日本は「「第三者に双方の主張を聞いてもらって、どちらの主張がより正当かを判断してもらうため」に、「国際司法裁判所への付託」を提案しています。至極常識的な発想だと思います。
対する韓国は、「国際輿論」へ訴えました。
日本側の提案は、韓国の同意がなければ絶対に実現しませんが、韓国側の行動は誰の同意も必要ありません。韓国のやりたい放題です。
先のロンドン五輪で、韓国のサッカー選手が試合後に「ドクトヌンウリタン」と書かれたプラカードを掲げて走り回ったことが大きな問題になったが、韓国がやっていることはもちろんそれだけではありません。ニューヨークタイムズに広告を出したり、外国の街角で、いきなり「ドクトヌンウリタン」と歌いながら踊り出すフラッシュモブなどもやっているようです。
もっとも領土問題は、当事国以外の国の人々の共感を得にくいものです。竹島が日韓いずれの国のものであろうと、当事国以外の人間が興味を示すとは思えません。そこで韓国人は、「ドクトウリタン」よりも「可哀想な慰安婦ハルモニ」で当事国以外の国の人々の共感を得られそうと思うと、そちらに一気にシフトしています。
このことからも、彼らの本当の目的が竹島そのものや、あるいは最近とみに盛り上がりを見せている元慰安婦に対する謝罪や補償の問題でないことは、よくわかります。
日本の立場としては、だからと言って放置するわけにもいかないのがつらいところです。問題の根本がそこにあるわけではないとわかりきっていても、竹島問題について知らなくても良いというわけにはいきません。
そういう人に、「竹島問題100問100答
前述した通り、竹島問題は日韓の二国間だけで解決することは、現状不可能でしょう。ですが竹島問題が今よりもっと日本人に周知されれば、韓国は自ら立つ瀬を狭めていきます。竹島問題がここまでこじれたのは、日本人が問題発生から半世紀もの間、竹島にほとんど無関心だったためと言っても良いでしょう。
一人でも多くの日本人に竹島問題をより一層理解してもらうために、「竹島問題100問100答
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韓国人は常に「自分第一」
暇つぶし用に買ったので内容はさほど期待しておらず、実際掲載されていた討論の議題はお馴染みのものばかりで、双方の主張もまた特に目新しいものではありませんでしたが、これはリアルの日韓チャットログだなあとニヤニヤしながら読みました。
これを読んで、改めて思ったのが、韓国人の発想の基本です。
韓国人は、常に自分のことだけを第一に考えます。「自分第一」、別の言い方をすれば「自分は正しい」「自分は悪くない」「自分は被害者だ」「自分は優遇されるべきだ」「自分は配慮されるべきだ」という考え方です。
韓国人と議論している時、それが一般論であれば、韓国人も比較的常識的な回答や見解を述べます。ところがそれが、韓国(=自分自身)に関することであれば、途端に彼らの主張には歪みが生じます。その実例は、以前にもご覧に入れました。
彼らが「自分は正しい」「自分は悪くない」と主張する時のフリーダムさは、目を瞠るものがあります。とにかく、あらゆる言い訳や理屈や嘘を総動員して「自分は正しい」「自分は悪くない」と主張します。総動員した言い訳や理屈や嘘で足りなければ、全然違う話と混ぜてでも、「自分は悪くない」と主張します。
彼らにとって「自分は正しい」「自分は悪くない」というのは、前提であると同時に結論でもありますから、屁理屈でも嘘でも捏造でも歪曲でも何でもござれです。
先日、月見チャットでそういう話になった時、実に示唆に富む意見を頂戴しました。それは「韓国人は「悪いことは全部他人のせい」と考えるが、彼らの考える「他人」が、「実在する自分と相対化された他者」にはなっていないことだ」という意見でした。
更にこれに加えて、彼らは非常にしばしば「実在する自分自身」をも正しく把握していないことがあります。そのために、彼らが「悪い他人」のせいにしようとしたことが、「実在する自分自身」にブーメランとなって返ってくることも、やはりしばしばあります。これが彼らの自爆癖の原因のひとつと言って良いでしょう。
いずれにせよ、彼らは常に自分第一です。対する日本人は、常に周囲とのバランスを考えようとします。どちらが相手に合わせることが出来るかと言えば、それは言うまでもなく日本人の方でしょう。ですから今まで、日本は常に韓国に譲り慮ってきました。
そうすれば、確かにその場は収まります。ですが、それはすぐに次の譲歩や配慮の要求へとつながります。日韓国交正常化以後の日韓関係は、まさにその繰り返しであったと言えます。
日本側が譲歩や配慮を繰り返した訳は「仮にも足掛け36年間、同じ国だったのだから、こちらの本意はわかってもらえるはずだ」という期待があったのかもしれません。しかし韓国側にそんなものは通じませんでした。もしかすると、交渉の場では日本側の意図を韓国側も理解出来る、あるいはするようなことを言ったかもしれませんが、結果的に日本側の期待は無視されることになりました。
その上、「日本が譲歩したり配慮したりするのは、日本がウリの主張を正しいと認めたからだ」という誤った確信を韓国側に与えることになりました。
それが現在の日韓関係の軋轢につながっていることは、論を俟たないでしょう。
このところの日韓関係の冷え込みで、日本側の韓国に対する譲歩や配慮は激減しました。韓国側は、何故そうなったのか全く理解出来ず、ずいぶん狼狽しているようです。ここでもし、日本側が再び韓国に対して、以前のような譲歩や配慮を始めれば、韓国側が再び勘違いするのは当然として、日韓関係が冷え込んでいた間にしなかった譲歩や配慮の分の謝罪と賠償を求めに来ても、私は全く驚きません。
日本人は韓国人とは真逆で、どうも何もかも自分が悪いと思ってしまう癖があります。日韓の軋轢が長引けば日米関係にもヒビが入りかねないと脅され、そうなればアジアの安全保障にもマイナスだなどと迫られると、日本だけが我慢すれば全てが丸く収まり、平和と安定が保たれると思って、矢も盾もたまらずそうするべきだと思い込んでしまいます。
ですが、日本だけが我慢すれば全てが丸く収まり、アジアの平和と安定が保たれるなどというのは幻想だと私は断言します。日本が我慢し譲歩し配慮すればするほど、特亞の増長を招き、アジアの平和と安定が損なわれることは、尖閣問題や竹島問題、従軍慰安婦問題でもうすっかり証明されているではありませんか。
今後の日本は、韓国人の「自分は正しい」「自分は悪くない」という主張に安易に迎合したり譲歩することなく、毅然とした態度で、正しい基準に従って是非を判断しなければならないと考えます。それこそが、アジアの平和と安定に寄与することと、私たち日本人は知るべきでしょう。
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反日に飽きても止められない韓国人
大統領の再任がない韓国では、大統領は任期終了間際になると、反日カードを切るのが恒例となっていますが、新しい大統領になれば途端に、「未来指向で」と言い繕って、前政権の反日をなかったことにするのも恒例でした。
ところが今回の朴槿惠政権は、発足前から反日カードを切っていたために、韓国政府の反日姿勢は前政権末期から継続することとなりました。
2014年2月現在で、韓国の反日姿勢は18ヶ月、ちょうど1年半続いたことになります。日韓国交正常化後初と言って良いこの長期の日韓関係の冷え込みによって、日本がダメージを受けたという話はまったく聞きません。対する韓国はと言えば、押しとどめようとしても止まらない経済の悪化と、これまでであればあったはずの日本の助け舟がないことに苦しんでいます。
日本政府は韓国に対し、「対話のドアはいつでも開いている」という姿勢を貫いています。それに対して韓国政府が、「じゃあ、お願いします」と言えば、明日にでも日韓首脳会談の実現に向けて調整が始まるでしょう。
しかし韓国と言うか朴槿惠大統領は、「お願いします」が言えません。言えば「日本に頭を下げた」ということになり、韓国民からの無慈悲な政権バッシングが始まることが濃厚に予想されるからです。
周知の通り、韓国の現大統領である朴槿恵は、「漢江の奇跡」を実現させた第5~9代大統領朴正熙の実子です。朴正熙は親日派と呼ばれることが多かったため、その実子であり、且つ暗殺された母に代わって朴正熙大統領のファーストレディ役を務めた朴槿惠もまた、親日派であろうと期待した親韓日本人は少なくありませんでした。
しかしその期待は外れました。日韓関係の冷え込みによる韓国存続の不安に気付き始めた韓国民の半数超が日韓首脳会談を希望しているにも関わらず、いまだ実施されないのは、以前述べたように、「実父による「親日派」のイメージを払拭するためにも、対日強硬姿勢を取らざるを得な」いからでしょう。
この「韓国民の半数超が日韓首脳会談を希望している」という調査結果を根拠として、「韓国民は反日に飽きている」と分析する人もいるようです。
産経新聞の黒田勝弘氏は、韓国の反日を「韓国人の元気の素」だと喝破しました。確かに、先にも述べた韓国の政権末期恒例の反日政策は、支持率回復のためのカンフル剤と言われていますし、スポーツにおいても、対日戦での韓国の異様な張り切りっぷりの凄まじさは大変に鬱陶しいものがあります。また文化・学術部門や商工業、経済分野などにおいても、相手が日本だと韓国は異様に張り切るという展開が非常にしばしば見られます。
これを「元気の素」と言うのは大変に上品な言い回しだと思います。韓国ウオッチャーの間では、同様の意味でしばしば「反日ドーピング」あるいは「反日ドラッグ」という言い回しが用いられます。
私は覚醒剤を用いたことは一度もありませんが、仄聞するところによると大変に元気が出るもののようです。気分は爽快になるし、集中力も高まるために、かつてヒロポンが合法だった頃は、これを頻繁に用いて創作活動に勤しんだ作家も居たといいます。
しかし、その元気はクスリによって無理やり引き出されたものなので、クスリが切れると元気も出なくなります。「元気が出ない」というのは、自然になっても嫌なものですが、クスリが切れることによってそうなるのは、自然になるよりもずっとつらく苦しいものなのだそうです。そのつらさ苦しさも、クスリを飲めばたちまち霧消し、爽快な気分になります。
最初は、気分が落ち込んだ時や集中力が保てない時の緊急避難的に用いたクスリが、やがて気分爽快状態を常に保つために用いられるようになり、その内クスリが切れた時の苦痛を回避するために用いられるようになります。立派な覚醒剤中毒患者の一丁上がりです。
私には韓国の反日も、まったくこれと同様の展開に見えます。最初は国家の衰退と民族の滅亡を押しとどめるために用いられていたのかもしれませんが、やがて国家発展の栄養剤的に用いられるようになりました。そこまででやめておけば良いものを、反日を叫んでいる時の気持ち良さを、韓国人は忘れられなくなったのでしょう。
よく日本人の嫌韓を、韓国人の反日の裏返しとして批判する人がいます。一部の嫌韓日本人に、そういう人もいるかもしれないことは、私も否定しません。しかし、私自身嫌韓をやってて痛感することなのですが、韓国を観察したり考察したりすることは、「気持ち良さ」を得るためのものでは全くありません。むしろ不快の方が大きいのです。それが、日本の嫌韓と韓国の反日の大きな違いです。
嫌韓も最初のうちは、韓国や韓国人に不快を感じつつも、知らないことを知るようになるわけですから、知的好奇心を刺激されることが確かにあります。知的好奇心を満足させることは一種の愉悦ですから、韓国について調べたり考えたりすることは、最初のうちなら「気持ち良いこともある」と言えるかもしれません。
しかし彼らに対する知的好奇心は、そう長続きするものではありません。何しろ彼らは薄くて浅くて上っ面ですし、判で押して鋳型で抜いてます。どんなに韓国について詳しくなっても、韓国人の素っ頓狂に驚かされることはしばしばありますが、その素っ頓狂さえ過去の類例に必ず属し、知的好奇心を強く刺激することはほとんどありません。
あるのは、「何故こいつらはこうなんだ」という悲嘆というか沈鬱というか、そういう気分です。
親韓日本人が「日本の嫌韓は、ニートが現実から目を逸らし、国益に寄与する国士さまになった気分を味わうためにやってる」などということがありますが、アホじゃないかと思います。仮に国士さま気分で嫌韓をやってる日本人がいるとしても、嫌韓であるというだけで、「ニート」とか「現実から目を逸らしている」といった根拠のない不当な謗りを受ける不快も、否応なく味わうことになるわけです。
国士さまとやらを気取ることで味わえる気分をプラスとすれば、十把一絡げで不当な謗りを受けることで味わう気分は明らかにマイナスです。更に「何故嫌韓なのか」という説明をするのは簡単ではありませんし、一朝一夕で出来ることでもありません。「何故嫌韓なのか」ということを説明するとしても、理解を得るまでの間に味わわねばならない非難や軽蔑の言動や視線は、やはり不快です。
そんなこんなを差し引きして、プラスマイナスゼロならまだ続けられるかもしれませんが、実感としてはマイナスの方がやや強いのです。それでも私が続けているのは、どんなにめんどくさくても風呂に入ったり手洗いをしっかりすることと似ています。つまり日常の些細で忍耐可能なマイナスを継続することで、めったにないかもしれませんが一度訪れれば致命的で大きいものになるマイナスを回避するためです。
反面、韓国での反日は評価が高く、反日であればあるほど愛国心が高いとされるのは当然として、教養も高いとみなされます。日本における嫌韓がバカにされがちなのとは好対照で、韓国では反日の方が社会的に高い評価を得られるのです。
しかしながら「反日であれば高い評価が得られる」ということが韓国民の大半に行き渡ると、今度はそれが普通になり、反日だからと言って「愛国心が高い」とか「教養がある」と褒められることは少なくなります。
ちょうど韓国で、大学を出れば現代の両班になれるからと言って、誰もがこぞって大学に行くようになった結果、それが当たり前になってしまって、大学を出ても現代の両班になど全くなれなくなってしまったのに似ています。
だからと言って大学へ行く韓国人が減ることがないように、反日をやめる韓国人も減りません。反日をやめることによって得られるメリットがあるとしても、反日ではない(=親日)と周囲に言われることによって被るデメリットの方が、ずっと恐ろしいからです。
現在の朴槿惠大統領が正にその状態でしょう。ですから彼女は、日韓首脳会談を要請出来ません。「日本に頭を下げた」と韓国民にみなされることを恐れているに違いないとは、前にも書きました。
更にアンケートで日韓首脳会談を望むと回答した韓国人にしても、もし実際に朴槿惠大統領が日本に「頭を下げて」日韓首脳会談を要請すれば、良くて沈黙でしょうし、悪ければ口を極めて朴槿惠政権を非難するでしょう。
日韓首脳会談において、韓国人の大半が満足するほどの莫大な譲歩や優遇を日本から引き出せれば別ですが、ただ会談を行なっただけであれば、朴槿惠の「親日態度」を攻撃する韓国人に、公に対抗したり反論したりする韓国人は、限りなくゼロに近いだろうと思います。
結局反日によって得られる快感が無くなって、反日に飽きたとしても、反日をやめることによって引き起こされる不安や不快感に、彼らは決して耐えることが出来ません。ですから韓国人がどんなに反日に飽きたとしても、韓国から反日がなくなることはありません。
多分、韓国から反日が無くなる日が来る前に、韓国そのものが無くなる日が訪れるでしょう。
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日本人も情緒に流されやすい
最近のウリナラチラシには「無礼で無識で野蛮な日本に、ウリが物の道理を教えてやらねばならない」的論調が大変目立ちます。それを見る度、日韓チャットのようにリアルタイムのやりとりが出来るのならば、その一言一句に突っ込んでやりたいと思わなくもありません。
しかし彼らもそうでも言っていないと正気を保てないのだろうなとも思って、今のところは生暖かくウォッチしております。その内気が向いたらネタにするかもしれませんがw
ところで前回記事で、日本人に論理を無視する大馬鹿者はそうそう居ないというコメントを頂戴しましたが、果たしてそうでしょうか。本当にそうであれば、何故現在の日本で、これほどまでに在日が幅を利かせるようになったのでしょうか。何故日本は、外交において韓国のゴリ押しや我儘の多くを受け入れてきたのでしょうか。
当該コメントでは、鳩山由紀夫元首相を日本の大馬鹿者の代表としています。そのことについては特に異論はありませんが、その大馬鹿者を日本の首相にまで成さしめたのは、他でもない日本の有権者ではなかったでしょうか。
確かに、日本人と比べれば韓国人が論より情緒を優先させることは、遥かに甚だしいものがあります。ですが日本人も、「和をもって貴しとなす」と言っては、しばしば情緒を論に優先させることがあります。
他者と諍うぐらいならば、多少の理不尽も甘受しよう、自分が我慢することで和が保てるならば、出来るだけ我慢しようという意識を持っている日本人は少なくないはずです。また「疑うこと」や「警戒心を持つこと」を、理由も理屈も抜きに「悪いこと」だと思っている日本人も多いでしょう。その上、「日本や日本人を評価したり賞賛したりすること」を、無条件で不快に思う日本人も決して少なくありません。
日本人のこういう心理に、韓国人は実に巧みに食い込んできます。
昨今の日本では特亞、ことに韓国に対する嫌悪感が強まっています。そのきっかけは、2012年の李明博大統領の竹島不法上陸と、天皇陛下侮蔑発言となっております。
つまり現在の日本の嫌韓気運は、「韓国が薄くて浅くて上っ面」などという事実に基づいた「論」などよりも、「天皇陛下が韓国の大統領に侮辱されたことに対する憤り」という「情緒」の部分があるのではないでしょうか。
以前にも述べましたが、韓国における天皇陛下侮辱発言は、李明博発言よりもずっと以前から頻繁に行なわれていました。李明博前大統領の侮辱発言がことさらに取り上げられたのは、ひとつには「現職(当時)の大統領による公式の場での発言」が初めてだったからです。
それは巷間言われているように、レームダック化した大統領の支持率回復のための大衆迎合の意味も皆無ではなかったかもしれませんが、同時にその発言が、韓国内では極めて常識的且つ模範的な発言だったからこそ為されたものだと私は確信しています。
しかしそれまでの韓国内における天皇陛下侮辱発言は、日本のマスコミによる「外交配慮」と「報道しない自由」によって、日本では知られていませんでした。もしそれがもっと早く広く日本に知らされていれば、日本人の対韓感情は、確実に情緒的に悪化していたでしょう。
日本人は確かに、韓国人よりは論理的です。しかしそれは日本人が、常に情緒より論を優先させるということを意味するわけではありません。「論より情緒」という点で日本人と韓国人が異なるとすれば、日本人の場合は一般的に「論より情緒を優先させるべきではない」という意識を持っていますが、韓国人は、たとえ法曹家であっても、「論より情緒を優先させるのは人間として当然」と考えている点でしょう。
いずれにせよ日本人も、韓国人ほどではないだけで、論より情緒に流されやすいのです。それを自覚し、「論より情緒を優先させるべきではない」という意識を常に喚起することで、韓国人と、韓国人に言いくるめられた日本人の巧言に惑わされぬように注意しなければならないのではないでしょうか。
韓国人に言いくるめられた日本人の面倒を見ろなどとは私もまったく思いませんが、「韓国人に言いくるめられた日本人」に言いくるめられる日本人が出てくることに対する警戒までもが杞憂だとは、私は微塵も思っていません。
むしろそれを杞憂だと言って、日本人の警戒を緩めさせようとする人にも、私は警戒を促したいと思います。
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韓国理解はヤジロベエの如し
どうも等身大の韓国というのは、なかなか掴みづらいものがあります。何故なら、韓国人自身が等身大の韓国というものを見失っているからです。いや、「見失っている」という表現は正しくありません。韓国人は最初から「等身大の韓国」など見ようとしていないのですから。
韓国と言えば、ガイドブックには高層ビルが建ち並ぶ近代的な街や、人で溢れかえる繁華街、活気に満ちた市場などの写真が並びます。韓国は、都会的な準先進国であるという印象を強調しているのです。
確かに、都会的な準先進国という側面も、韓国の一面ではあります。ですがその「近代的な街」の裏手を覗いてみれば、絵に描いたようなスラム街が容易に見つかるのです。
便利な世の中になったもので、わざわざ大枚をはたいて韓国くんだりまでそんなものを探しに行かずとも、ネットを上手に使えば、居ながらにして見ることが出来ます。
興味がある方は、Googleのストリートビューを使ってソウル駅の周辺を少し丹念にうろついてみると良いでしょう。人目に付きそうなエリアは実に綺麗で近代的に作ってありますが、その半径1km以内をウロウロすれば、簡単にスラム街を見つけることが出来ます。
嫌韓勢に言わせれば、そのスラム街こそが韓国の真の姿であると言いたいでしょうし、韓国人や親韓勢に言わせれば、綺麗で近代的なエリアこそが真の韓国の姿であると主張するでしょう。
隣接した地域で、いかにも先進国然とした街並みに、土幕民時代よりはずいぶんマシになったという程度のスラム街が隣接するという、相矛盾した姿こそが韓国なのだという理解は、韓国初心者にはなかなか難しいのではないかと思います。
いきおい、どちらか片方だけの理解に走りやすくなるでしょう。嫌韓寄りの人ならスラム街の方で理解したくなるでしょうし、親韓寄りの人なら綺麗で近代的な街並みの方で理解しようとするでしょう。
最近の日本人の韓国に対する知識は、以前とは比較にならないほど広範になりました。また以前と比べると、明らかに嫌韓寄りの人が増えました。となると、どうしても嫌韓寄りのネタがウケます。
実際、最近の週刊誌の見出しには、一昔前の韓流捏風の裏返しのように、韓国批判のタイトルが並ぶようになっております。同様に韓国のストリートビューでも、綺麗で近代的な街並みを見せるよりは、スラム街を見せる方が、今の日本ではきっとウケるだろうとは思います。
その結果、それを見た人が「やっぱり韓国はこの程度の国なのだ」と思い込むようになることを、私は危惧します。それは侮りにつながりますし、そういう思い込みを得た人ほど、もし実際に韓国を訪れ、綺麗で近代的な方の街並みを見る機会を得れば、自分の中にある韓国のイメージとのギャップに驚いてしまって、かえって韓国人に騙されやすくなるのではないかと思うからです。
人はどうしても、今この時、自分の目で見たものにとらわれます。過去にネットの画像で見たことのある記憶の中のスラム街よりも、今その瞬間、目の前に広がる綺麗で近代的な街並みの方が、間違いなく圧倒的な説得力を持つでしょう。
日本人が韓国に行けば、綺麗で近代的な街並みの方ばかりに目が行くことは確実です。外国人、ことに日本人には、韓国人は自分たちが見せたいものだけを見せて、見せたくないものを出来るだけ見せないようにするからです。つまり、ネットのストリートビューで見たスラム街を、日本人が現実に自分の目で見るということは、案外難しいのです。
そうなると、ネットで得た情報のイメージで構築しイメージとしての韓国と、実際に自分の目で見た韓国とのギャップにショックを起こして、「嫌韓の情報は全部嘘だ」と短絡してしまう人が出る恐れは、多分にあります。
尤も、昨今の日本の嫌韓の中には、ある意味韓国が仕掛けた韓流捏風によって作られた韓国に対する良いイメージが、実際に韓国を訪れたり、あるいはネットではない情報源から得た韓国情報とのギャップにショックを起こして、「親韓の情報は全部嘘だ」と短絡してしまった人がいるに違いありません。
そういう意味でも、韓国が包含する矛盾というのは、諸刃の剣と言えます。
いずれにせよ綺麗で近代的な街並みと、その裏にあるゴミゴミとしたスラム街に象徴される、極端な幅のある存在のどちらもが韓国であるという理解を得るには、その極端な幅の間でしばらく揺れ動く必要があるのかもしれません。
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朝鮮人が頻繁に国を滅ぼしていた理由
時期的にノロやインフルエンザが流行っていると言うことですので、読者諸姉諸兄におかれましてはくれぐれもご自愛ください。
さて、私がウォッチしているのは韓国人だけではなく、親韓日本人のブログも継続してウォッチしております。何故なら、それらは韓国人の心情を日本語のネイティブスピーカーが表現してくれるブログだからです(尤も「日本語ネイティブスピーカー」と言っても、朝鮮人マインドに染まり過ぎると、朝鮮語に引きずられた日本語、即ちネイティブスピーカーの日本語ではない日本語になってしまう例はかなり多いのですがw)。その中のひとつに、「日中韓を公平に見ている」と吹いているブログがあります。
最近そのブログが、やけに韓国に批判的な論調であることに、私は冷笑を禁じ得ません。当人は、「どうだ、これで私が日中韓に公平な視点で見ていることがわかるだろう」とでも言いたいのでしょう。しかし韓流捏風の余波がまだ残っていた頃のそのブログは、韓国を過剰に持ち上げ、返す刀で日本を批判するようなことばかり書いていたのです。
ところが日本国内の風向きが変わってくると、途端に韓国に批判的になるのですから、まことに主体性がないと言うか、雰囲気に流されやすいと言うか、恥知らずと言うか言葉に迷います。この御仁、自分のブログは備忘録だと言ってるのですから、自分が過去に何を書いたのか、一度読み返してみればいいと思います。
もっとも節を変えることが、必ずしも悪いことだとは思っていません。時の流れとともに人も変わるものですし、変わらなければならないこともあります。ただ変わるとしても、かつての自分や自分が言ったことを、まるでなかったことにしてはいけないと思います。
変わるならば変わるで良いのです。しかし以前の自分や自分が言ったことやったことをなかったことにして、生まれた時から首尾一貫しているように装うことは、他人に対しては欺瞞になりますし、自分自身に対しても自殺行為に等しいものがあります。
それを国ぐるみでやってるのが、韓国です。
韓国は、明確に歴史を捏造しております(歴史以外にも捏造しているものは多いのですがw)。しかし、歴史というものは、実際にはそう簡単に捏造出来るものではありません。何故なら、歴史は継ぎ目のない綾織物のようなものだからです。
私たちが習う歴史は、便宜的にナントカ時代カントカ時代と区切りを入れて分別しておりますが、それはあくまで後の時代の人間が歴史を振り返った時にわかる変化に基き、便宜的に区分したものです。
例えば江戸時代から明治時代への移行にしても、歴史小説などで「維新」とか「回天」と言いますし、NHKの番組では「その時歴史が動いた」なんて言うものですから、ついついその瞬間、回り舞台のように人も街もがらりと切り替わったような印象を持ってしまいます。しかし現実では、その瞬間にそんなことはまったくなく、さっきまでしていたことの続きを淡々としているだけなのです。
過去は現在の礎であり、現在は未来の礎です。礎を崩せば、その上にあるものも崩れ去るのは理の当然というものです。しかもその礎は、まるで木組みのように複雑な形でがっちりと噛み合っています。それを解いて、元と異なる礎を組み込むなど、人知では到底不可能なことでしょう。
回りくどく言いましたが、要するに過去をなかったことにしたり捏造したり歪曲したりすると、必ず現在との辻褄が合わなくなるということを言いたいのです。過去を否定したり抹殺することは、現在の自分をも否定したり抹殺することに等しいのです。
韓国は自国の望ましくない歴史、恥ずべき歴史をなかったことにして、望ましい歴史、誇らしい歴史を創作しています。その結果として、彼らは羅針盤も無く錨も持たない船の如く、ふらふらと時代という海を彷徨います。それではいけないと思う韓国人も皆無ではないのでしょうけれど、もはやそれを言っても、誰にもどうしようもありません。
どうにか出来るとすれば、韓国人の圧倒的多数が自国と自民族と自分自身の歴史に対する欺瞞を直視し、それによってこれまでに積もり積もった不都合を全て甘受し、その不都合から来る不利益に耐え、以後歴史の捏造や歪曲を二度と絶対にしないようにすればあるいはどうにかなるかもしれませんが、それが出来る韓国人であれば、最初からこんなことにはならないでしょう。
それはちょうど、一度嘘をつくと次から次へと嘘をつき続けなければならない羽目になるのに似ています。嘘は雪だるま式に膨らんで、最初に回避しようとした不都合よりも、何倍何十倍、場合によっては何百何千、何万倍の不都合が、嘘をついた者に負債のようにのしかかります。
少しでも早くギブアップして、嘘を白状し、その報いを受けた方が傷が浅いことはわかっていても、それが出来ないからこそ最初に嘘をついてしまうわけです。
ですから韓国が今から正しい歴史認識に戻ることは、おそらく出来ないでしょう。そうするよりも、一度全てをリセットしてゼロから出直す方がよほど簡単です。
これまでの歴史において、朝鮮人が、まるで趣味か年中行事のように国をリセットしていた理由は、そこにあるのかもしれません。
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日韓友好必須論の最後の牙城
親韓派は、それを韓国の擁護材料にします。韓国人は確かに反日的なところがあるが、実際には日本を認めているし、日本に見習うべきだと思っているし、日本が好きなのだと。
それが嘘なら話は簡単なのですが、本当だから困ります。本当に彼らが反日一本槍である方が、どれほど話は簡単でしょうか。
何が困るかと言うと、「韓国人は実際には日本が好き」ということを理由に、「だから日本人は韓国人と仲良くしなければならない」という結論を押し付けられるからです。
日本人は、「仲良くする」ということを無条件の善だと思っているところがあります。ですが個人的な交友関係でも、「仲良くする」ことは必ずしも善いこととは限りません。「善い人と仲良くすること」は善いことになるかもしれませんが、「悪人と仲良くすること」は、善いとは言いづらいでしょう。
要するに、「仲良くすること」が善いことになるのは、相手次第ということになります。
ただし、国家間の関係を個人的な交友関係と同列に見ることは難しいし、相手の善し悪しも一概には言えないということはあります。
日本が韓国との関係を友好的に保とうとするのには、ただに「韓国人は実際には日本が好き」という以外にも、いろんな理由があるでしょう。ひとつには、かつて本当に重要であった地政学的条件が今もまだ強い影響力を持っているという点があります。
即ち、「大陸からの脅威に対する緩衝地あるいは防波堤」というものです。これはもう、日本人の原初的記憶に刷り込まれているとしか思えないほど濃厚です。
次に、「かつては同じ国であった」という記憶が、明確に日韓関係に作用していた時期もありました。これは今の日本人には稀薄になっていますが、日韓併合を実体験として知っている世代には、強烈に働いたのではないかと私は想像しています。
日本に統治されていた時代、韓国人(厳密には朝鮮人)は極めて日本に従順であり、且つ日本の統治に満足していました。もちろん、体制に不満を持つ者はいつの時代にも存在します。それは独立後の韓国にも、反政府・反体制勢力が常に存在していることを思い出せば、ご理解いただけるでしょう。
ですが概ね日本の統治は朝鮮人に受け入れられていたと言って良いですし、朝鮮人は日本に従順でした。その記憶を実体験として持つ日本人にとって韓国は、ある意味かつての同窓生的親しみを感じる相手であったのでしょう。
しかもそれは、その時代を実体験として知る韓国人も同様であったのではないでしょうか。日本統治時代を知る韓国人が残したさまざまな文献資料は、それを濃厚に物語ります。つまり日韓併合期を知る日本人は、自らが日本統治期の韓国に対して持つ懐古の感情を韓国人も共有していると思っていても、無理はありません。
記憶は、しばしば遺伝します。と言えば、何をバカなことを嗤う人がいるでしょうが、私はかなり本気でそう思っています。何故なら、私が生まれる前の昭和30年代や、更にその前の時代の記憶が、私にはあるからです。それらは当然、私自身の体験の記憶ではありません。親や祖父母世代から聞いた記憶を、無意識に自分の記憶のように感じているだけです。
それは、理屈で考えれば自分自身の記憶ではないとわかることですが、意識しなければ自分自身の記憶のように思ってしまいます。
更に日本と韓国には、終戦後から1965年までの間、交流の空白があります。この空白の時間が、日本人の韓国に対する理解を稀薄にしました。その空白を「大陸からの脅威に対する緩衝地あるいは防波堤」「かつては同じ国であった」という遺伝的記憶が埋めたのです。
これが日本人の「韓国とは無条件で仲良くしなければならない」という強迫観念の根源ではないかと私は考えます。
更にそこへ、韓国人の錯綜した対日感情が作用します。日韓併合期を知る韓国人は、その時代を良かったと思いつつ、同時に「日本に統治されたこと」を屈辱と考えています。そのことを、日本人と話す機会のあった韓国人は切々と語ったでしょう。
韓国人は、我が身の不幸を他人にくどくどと話すこと(身世打鈴)が好きです。本当に不幸だったかどうかは、この際問題ではありません。彼らが身世打鈴をする目的は、相手の同情や共感を得ることだからです。相手の同情や共感を得るためには、不幸だったということにするのが都合が良いというだけの話です。
日本人はこれに実に容易に引っかかります。しかも、日本の統治によって不幸になったと韓国人が言えば、たいていの日本人はまるで自分自身が加害者のような錯覚を起こします。
この錯覚に基づく贖罪意識もまた、日本人の「無条件日韓友好必須論」を支えていることは間違いないでしょう。韓国人はそこへ付け込むのです。
言うまでもなく、日韓友好が不可欠なのは、日本ではなく韓国の方です。しかしそう言ってしまえば、韓国は日本の下位に甘んじざるを得ません。
韓国人は日本が好きで好きでしかたありませんし、日本の支援が韓国にとって必要不可欠であることも知っていますが、日本の下位に甘んじることは、民族的感情として認められません。ですが現実として、日本より上位に立てるものは韓国には何一つないのです。そこで彼らは、日本を加害者、韓国を被害者と規定することで、日本より上位に立とうとするのです。
結局、日本人の遺伝的記憶と韓国に対する贖罪意識が、現在の無条件日韓友好必須論の基礎となっているのでしょう。
昨今、ネットを中心に日韓断交論が現実的になってきたのは、まず物理的に韓国が大陸からの脅威の緩衝地や防波堤になどならなくなったことがあります。次に「かつて同じ国であった」という遺伝的記憶がほぼ消えかかっているということもあるでしょう。
更に、日本人を加害者とする韓国人の被害者意識のかなりの部分が、虚構や妄想であることが、徐々に明らかになってきたました。すると日本人は、韓国人によって冤罪を押し付けられた被害者ということになり、加害者と被害者の立場が逆転します。
そうなれば、日韓友好必須論者に最後に残るのは、先に述べた「韓国人は実は日本が好き」ということだけです。
好かれることは、誰だって嬉しいことです。ですから好いてくれる相手には好意を持ちやすいものです。しかしそれも先に述べたとおり、相手によります。韓国人に好かれるということがどういうことなのかを正しく知れば、「韓国人は実は日本が好き」ということも、日韓友好必須論の条件として成立しなくなるでしょう。
そのためにも、日本人は韓国と韓国人を正しく詳しく知る必要があると確信する次第です。
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やってやればやるほど憎まれ恨まれる
しかし他人にも他人の都合というものがあります。奴隷制度のない今日、常に韓国人の意のままに動くことが出来る他人など存在しません。他人は自分の意のままに動いてくれないものであると知った時、普通は自分でやろうと思うものです。ところが韓国人は、他人が自らの意のままに動かないと知ると、意地になって執拗に他人を自らの意のままに動かそうとします。
カトリックの言葉だったと思いますが、「暗いと不満を言うよりも進んで灯りをつけましょう」という言葉があります。他人が自分の思うとおりに動いてくれないならば、不満を言うより、自分でやればいいのです。キリスト教の盛んな韓国で、何故この精神が発揮されないのでしょうか。
仏教には他力本願という言葉があります。この言葉は、しばしば「他者依存」という意味で用いられますが、本来の意味は「人間の自力ではなく、阿弥陀如来という他力によって本願を成就すること」です。
よって本来の他力本願とは、「他者依存」のように甘えたものでも無責任なものでもありません。阿弥陀如来を全身全霊で信じることによって、自分(という未熟で不完全で無思慮な者)の力で悟れるとか極楽往生が出来るなどと思い上がらず、阿弥陀如来の本願成就(によって自分自身も救われること)を目指すというものです。
それには、阿弥陀如来に対する絶対の信心が絶対不可欠です。自分に都合の良い部分だけをつまみ食いするように信じて、自分に都合が悪い部分が出てきた途端「騙された!」と騒ぐのであれば、それは最初から信じていないのです。世に言う「他力本願」の多くがそうです。他人を信じているわけでは全くないのに、自らに利する行動を、信じてもいない他人に目一杯期待し、あるいは明確に強要し、もしくは策略し、それを正当なことだと思っています。
期待が外れたり、強要を拒否されたり、策略が失敗して、彼らの思い通りに他人が動かなければ、彼らは必ず激怒します。そこに、自らを省みるという意識や姿勢は皆無です。たまに韓国人が自省的な意見を公開することもありますが、そういう意見を見かけたら注意深く読んでみてください。
私が見てきた限りにおいては、韓国人の場合90%以上の確率で、そういう意見を述べる「自分自身」は、棚の上に上っています。
ですから「韓国人は他力本願だ」などという言葉を見聞きすると、私はその都度失笑します。韓国人は他力を全く信じていません。彼らは本来の意味の「他力(阿弥陀如来の力)」を信じないばかりではなく、本来の意味ではない、ただの人間としての他者の力も信じていません。
しかも、彼らは自分の力も信じていません。ですから何かしなければならなくなると、彼らは必ずと言って良いほど他人に何とかさせようとします。他人がしてくれないなら、自分で何とかしようとは決して思いません。どんな無理や無茶をしてでも、他人に何が何でもさせようとします。
そうして、首尾よく成功すれば自分の手柄に、失敗した時は他人の責任にします。そうやって韓国人は、他人の労力と成果を盗み、失敗を恨むのです。これまでの韓国がそうでしたし、これからの韓国もそうでしょう。
日本は、そういう韓国に散々振り回されてきました。やらない彼らの代わりにやってもやっても憎まれ恨まれ、ならばとやってやらなければ、何故かまた憎まれ恨まれるのです。
どちらにしても憎まれ恨まれるのであれば、テマヒマカネがかからない分、何もしてやらない方が日本の利になるというものです。
今までの日本は、韓国が憎み恨むのは、自分たちが何もしてやらないからだと思っていたのかもしれません。ですがこれまでに日本が韓国にしてやったことは、実際にはことごとく憎まれ恨まれる種子になったのです。
日韓併合から既に百年余りを経ました。その間に、教訓は嫌というほど積み上がりました。そろそろその教訓を活かす時期が来ているのではないでしょうか。2018年の冬季オリンピックでもおそらく、日本に同じ轍を踏ませようとする勢力が暗躍するでしょう。
韓国に対しては、それがどんなに韓国のためになることであっても、またそれを韓国が強く望んだとしても、やってやればやるほど憎まれ恨まれるということを、全ての日本人が肝に銘じる時期が来ているのです。
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