韓国人は韓国人の考えがわからない
ところが逆にこちらから、「それは韓国人全体の考えか」とか「一般的に韓国人は皆そうなのか」と言うと、途端に「これは私個人の考えだ」とか「韓国人全てがそうだと思わないでください」と尻込みします。
この行動様式を、以前は彼らの責任回避癖故のことだと思っていました。今も、責任回避のためという部分がないとは思いません。思いませんが、責任回避のためだけではないのではないかと思うようにもなってきました。
責任回避のためだけでないなら、他に何があるのかと言えば、それは彼らには「韓国人全体」というものがわからないのではないかという疑念です。
日本人であれば「日本人は一般的にどのように考えるのか」と聞かれれば、自分だけではなく、自分を含めた自分の知る限りの日本人の考えを慮るでしょう。そうすることで、自分個人だけではなく、日本人の最大公約数的な意見というものを推察しようとするはずです。
もちろん、それが必ず日本人全体の意見と一致するとは限りません。それでも「自分が考える日本人の一般論」というものを見つけることは、日本人にはさほど困難な作業ではありません。
それは、日本人が常に他者への配慮を怠らないためではないでしょうか。
個人差はあるにしても、「一般的な日本人」は他者への配慮を常に行なっています。それが出来ない日本人も皆無ではありませんが、そういう日本人は自動的にアウトロー、即ち無法者とみなされます。立法化どころか明文化すらされていませんが、「他者への配慮」は、日本人社会においては不文律として厳然と存在します。
「他者への配慮」というものは、自分の行動を他人がどう考えるか、他人が自分にどうして欲しいと思っているかを常に考えていなければ出来ません。これを、日本人は物心付いた頃から躾けられます。箸の持ち方と同じ程度にそれを身に付けていることが当たり前というのが日本人社会ですので、普通の日本人はそれを苦にも重荷にも感じません。
対する韓国人社会は、お察しの通り真逆です。
彼らは「他者への配慮」というものを、全くと言って良いほど持ちません。自分の行動を他人がどう考えるか、他人が自分にどうして欲しいと思っているかなど、全く考えません。
彼らにあるのは、上下関係に基づく支配と被支配の構造であり、被支配者が支配者の顔色を伺い、その意を迎えるために阿り諂うということは頻繁にあります。
しかしそれは必ず上位者に対して下位者が行なうよう暗黙に強要された、ある種の屈辱であって、日本のように自分以外の他者と言うか、「日本人社会全体」に向けて全方位的に行なわれる好意や善意に基づくものとはまるで趣きが異なります。
よって韓国人は、自分より下位とみなした相手には決して配慮をしません。それは即ち、その相手のことを考えないということです。
自分以外の他人がどう考えるか、自分以外の他人が何を欲しているかに思いを至らせる習慣がない彼らに、「韓国人は一般的にどう考えているのか」と聞いても、答えられるはずがないのです。
同じ国に生まれ同じ言葉を話す韓国人同士であってもそうなのです。ましてや日本人が一般的にどう考えているのかということなど、韓国人には逆立ちしても思い至りますまい。
日本から韓国を理解することは出来るかもしれませんが、自分たちのことさえわからない韓国人に、日本のことを理解しろと言うのは、余りにも酷でしょう。
友好は相互理解によって成立するものですが、韓国に「相互理解」の能力が無い現実を鑑みれば、日韓友好など絵に描いた餅より非現実的というものです。