三一節大統領演説に現れた韓国の焦り
さて、日本統治下の朝鮮で1919年3月1日に起きた反日暴動を記念して、韓国では3月1日を三一節という祝日と定めております。
この日は韓国大統領による反日演説が恒例となっており、昨年の朴槿惠大統領は「日本が加害者で韓国が被害者という立場は千年変わらない」という迷言を発して、日韓の間に大きなクサビを打ち込みました。
就任後2度目となる今年はどんなインパクトを与えてくれるのかと期待していたのですが、残念なことに昨年には及ばない凡庸な内容であったようです。
ただ演説の中で、日本政府が河野談話の検証を行なおうとしていることに、現在の韓国が強い危機感を示していることが目を引きました。韓国では、河野・村山談話が日本を牽制あるいは攻撃するための有力な武器として用いられているからでしょう。検証によってその有力な武器を無力化されてしまっては困るので韓国は必死になっているのです。
河野談話とは、正式名称を「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」と言うとおり、「いわゆる従軍慰安婦問題」に関するものです。
「いわゆる従軍慰安婦問題」は、韓国人が言うところの「良心的日本人」によって世に放たれました。当初は、内容のあまりの荒唐無稽さに、韓国人からも否定されていましたが、徐々に日本を非難するための材料として韓国や反日日本人に活用されるようになりました。
軍隊に売春婦は付き物です。それは何も旧日本軍に限った話ではなく、およそ軍隊のあるところには必ず売春婦がいると思って良いでしょう。よって「いわゆる従軍慰安婦問題」とは何が問題かと言うと、「旧日本軍が慰安婦を用いたか否か」が問題なのではなく、「慰安婦の調達や管理に旧日本軍が組織的に関与していたか否か」が問題となっております。
以前から何度も述べている通り、「日本は絶対悪」というのが韓国における常識であり良識です。それに則れば、日本兵に自ら春を鬻ぎに行く朝鮮人女性など、決して居てはなりません。もし居るとすれば、それは当人の意思に反し、強制的にさせられたものでなければならないのです。
よって韓国人の主観では、「旧日本軍が利用した朝鮮人従軍慰安婦が居るとすれば、それは日本や日本人によって強制的に慰安婦にさせられた女性である」ということになったのでしょう。
その韓国人の主観に基づいて作られたストーリーに従って、「いわゆる従軍慰安婦問題」は作られたものと言えます。つまりは創作ですから、そのストーリーを裏付ける証拠は何ひとつ出てきません。唯一、慰安婦を名乗る当人の証言を除いて。
その当人たちの証言も、実はボロボロのグダグダであることは、今でこそかなり広く知れ渡っていますが、河野談話が作られた当時はほとんど知られていませんでした。
それを良いことに、「河野談話」は極めてずさんな調査に基いて作られました。これについては昨年、産経新聞が盛んに取り上げていたのでご存知の方も多いでしょう。
当時の日本政府の考えとしては、泣く子にアメを与えて黙らせるぐらいのつもりであったのでしょう。日本政府が韓国の要求に従って頭を下げてやれば、韓国もそれ以上騒がないと言ってるのだから、そうすればいいじゃないかと軽く考えていたに違いありません。その後それが日韓間の大きな禍根となるとは露ほども思わずに。
韓国人は喧嘩をするときには、決してひっそりとやりません。必ず第三者の目のあるところで、大騒ぎしながらやるといいます。ギャラリーを味方に付けるためです。
ギャラリーを味方に付けるためには、同情を買うのが一番手っ取り早く、彼らがしばしば自ら被害者を名乗るのも、そのためでしょう。
日韓併合や朝鮮征伐も、日本を加害者とし韓国を被害者とするものですが、これらは第三者にアピールするには、少々インパクトが足りませんでした。何しろその当時はそれが当たり前の時代でしたし、欧米は更に過酷な植民地支配や奴隷制度を行なっていたからです。
それらと比べれば、どんなに日本に厳しく見ても日本は実にジェントルでしたし、どれほど韓国に甘く見ても韓国は恵まれていたことになってしまいます。
それならばと、韓国は竹島問題を振りかざしてみましたが、これもギャラリーの反応が今ひとつです。ということで、韓国は今持っている対日カードの最後の切り札として、慰安婦問題を持ち出しているのでしょう。
この韓国の切り札を切り札たらしめているのが河野談話なのです。つまり河野談話が否定あるいは撤回されれば、「いわゆる従軍慰安婦問題」は振り出しに戻ります。少なくとも慰安婦問題に関する日本政府によるお墨付きを、韓国は失うことになります。
そうなれば韓国は、また新たな対日カードを探さねばなりませんが、今のところ慰安婦問題よりも効果がありそうなカードは見当たりません。だから韓国としては、何が何でも慰安婦問題を死守したいのでしょう。それが今年の三一節の韓国大統領の演説に現れたわけです。
しかし、事実に基づかないことを認めることは、日本にとってはもちろんのこと、韓国にとっても決して良いこととは言えません。短期的には良いかもしれませんが、長期的には必ず帳尻が合わなくなります。丁度シャツのボタンの穴をひとつ間違えてはめてしまうように。それを直すには、一度全てのボタンを外さなければならないのです。
よって日本は、韓国がどんなに泣いても喚いても暴れても、「ならぬものはならぬのです」と言って、粛々と河野談話の見直しをするべきであり、それこそが正しい日韓関係の促進に大きく寄与するものであると考える次第です。