韓国人が一律的な訳
ところで先日、韓国内のデモで、アンネ・フランクの写真がプラカードに掲げられ、それが踏みつけにされているシーンが報道されたそうです。また都内の図書館や書店で、「アンネの日記」が毀損される事件が起きているそうですが、これを韓国人(在日含む)の仕業と憶測する向きもあるとやら。
それを受けて、何故韓国人がアンネ・フランクに対して憎悪するのかと、何故それを反日と絡めているのかについてご質問頂いたのですが、正直私にも全く意味がわかりません。
あえてこじつけて考えるとすれば、彼らは「人類史上最悪の植民地支配を受けた被害者」であると自ら主張しております。即ち、地球上で最も同情され、最も配慮され、最も優先されるべき被害者である自分たちと同じ程度か、それ以上に同情される「被害者」が他に存在することが許せないのかなと思ったりもしますが、「それが何故、よりによってアンネ・フランクなのか」という疑問の答えにはなりません。
日韓チャットで韓国人に、この件についてインタビューしても、多分腑に落ちる答えは得られないでしょう。と言うか、そもそも韓国人がアンネ・フランクを知っているかどうかすら疑わしいものがあります。
もちろんアンネ・フランクを知っている韓国人も皆無ではないでしょう。けれど決して多数派でもないと思います。基本的に彼らの関心は、「ウリ(=自分自身)」にしかありません。「ウリ(=自分自身)」に関することであれば、例えばアンネ・フランクに関することが受験に必須であるとか、就職に有利であるとか、あるいは他者からの尊敬を得られることならば、韓国人の誰もが知っているということはあり得ます。しかしとてもそうは思えません。
ですので今回の件については、「韓国人はそういうことをする生き物である」と理解する以外にないのではないかとしかお答えのしようがありません。あしからずご了承ください<(_"_)>
さて今回は、「韓国人は何故一律的なのか」について考えてみました。
そのきっかけは日韓対談本「悪韓論VS悪日論
それはそうかもしれません。ある韓国人は「日本が大好きだ」と億面もなく言うでしょう。かと思えば別の韓国人は「日本なんか大嫌いだ」と吐き捨てるかもしれません。あるいは「日本に気を使わない(=関心がない)」と嘯く韓国人も多いでしょう。
多分一番多いのは「日本については好きなところもあるけど嫌いなところもある」という意見だと思います。例えば、「日本の文化は好きだけど過去に日本がウリナラにしたことは許せない」とか、「日本人は好きだけど日本政府は嫌い」とか、「日本人は嫌いだけど日本円は好き」とか言う韓国人が最も多いのではないかと思います。
韓国人と言っても、それなりに知能の高い動物ですから、そういう細かい差異はあって当然です。そこに注目すれば、韓国人だってそりゃ複雑多様と言うことは出来ます。
にも関わらず、多くの日本人が韓国人を一律的と感じるのは事実です。それは何故なのでしょうか。
韓国人が一律的に感じられるのは、彼らが日本に対することに限らず、あらゆる物事に必ず「正解」が存在すると考えているからだと私は考えています。
特に日本に対する「正解」は、韓国においてはきっちりと決まっています。「日本=絶対悪」というものです。
金慶珠氏が言うとおり、また前述したとおり、韓国人の対日感情は必ずしも一律とは限りません。日本人が「日本大好きです」という韓国人に遭遇する確率は案外高いのです。グループ内の自分以外のメンバーが全て日本人だけであれば、無邪気に楽しげに日本に対する手放しの愛を語る韓国人だって、実は結構いるのです。
ところがそこへ別の韓国人がやってくれば、それまで「無邪気に楽しげに日本に対する手放しの愛」を語っていた韓国人は、即座に口をつぐみます。もし新たにやってきた韓国人が日本を非難するようなことを言い出せば、良くて沈黙か離席、悪ければ同調して共に日本を非難し始めます。
私たちはこの現象を「韓国人は一人なら親日、二人以上で反日」と呼んでおります。これはおそらく、韓国人には極めて一般的な現象でしょう。私もネットだけではなく、実際に体験したことがあります。
対日意識に限らず、韓国人にも個々に複雑で多様な意見というものがあるのかもしれません。しかし韓国ではそれがそのまま表現され、受け容れられるということがありません。必ず「正解」が求められ、それ以外の回答や意見は、「間違い」として切り捨てられます。
結果として、「韓国人の意見は一律的」となってしまうのです。
その「正解」が、客観的な根拠や理由に基いて導き出されるものであればまだしもですが、多くの場合そうではありません。韓国人の考える「正解」とは、「韓国人の情緒に沿うこと」が最大の条件になっております。
日韓チャットで韓国人が「韓国人の情緒に沿わない意見」を言えば、「お前はそれでも韓国人なの?!」と責められるのが常でした。それは即ち、「韓国人であればこう考えるのが当然」という意識が韓国人に共有されている証左と考えて良いでしょう。
個々の韓国人がどんなに複雑多様な考えを持っていようと、韓国人社会がひとつの「正解」しか認めない以上、韓国人が一律的に見えるのは当たり前ですし、実際一律的なのです。
それに気づいていないのか、気づいていながらあえて無視しているのかはわかりませんが、そのことを度外視した上で「韓国人だって複雑多様だ」と言うのもまた、韓国人にはよく見られる現象であることを、最後に申し添えておきたいと思います。