互恵好きな日本人
大岡裁きを題材にした「三方一両損」という噺があります。あらすじはこうです。
ある男が三両入りの財布を拾いました。拾った財布を番所に届けると、落とした男が見つかりました。そこでめでたしめでたしになるかと思いきや、江戸っ子の意地なのか見栄なのか、財布を落とした男は三両を受け取らないと言います。落としたものは拾った男のものだと言うのです。
拾った方も拾った方で、俺は乞食じゃないんだから、ただ拾っただけなのに丸々三両もらうわけにはいかないと突っぱねます。額が三両と奇数なので、半々にするにも一両を崩さなければならないのが、これまた江戸っ子には気に入らなかったようです。
三両を間に挟んで双方譲らないので、話はとうとうお白洲までもつれ込みました。
双方の話を聞いた大岡越前守は、「ならばその三両に奉行が一両足して、四両にしよう」と言いました。そうすれば落とした方拾った方、双方にかっちり二両ずつ分けることが出来ます。それを受け取って互いに収めよというわけです。
落とした方は、三両戻ってくるところが二両になり、拾った方も黙ってもらっておけば三両もらえたものが二両になり、奉行は話に関わったせいで一両供出する羽目になりました。つまり三者がそれぞれ一両ずつ損したということで、三方一両損、というお噺です。
これは見方を変えれば、三者が三様に得をした話でもあります。だからこそ、このお噺が大岡裁きとして広く日本人に知られるようになったのでしょう。
長年韓国人を観察してきた経験から言わせていただくと、韓国人にこういう話に共感する感性はないように思われます。少なくとも、相手が日本人の場合にはないと断言して良いでしょう。
それは、例えば日帝統治についての彼らの感想を聞けば明らかです。
彼らは言います。「日帝統治で、確かに日本は多大な投資をして韓国のインフラを整備・充実させたかもしれない。しかしそれは日本の得になるからやったことであって、純粋に韓国のためだけを思ってやったことではない。だから日帝統治で韓国が発展したのが仮に事実だとしても、韓国人としてはそれを評価したり、ましてや感謝するわけにはいかない」と。
日本人ならば、たとえ相手が得をするためであったとしても、自分にも得になれば、それで良いと思うことが出来ます。しかし韓国人は自分にとって得になることであっても、他人(特に日本人)にとっても得になることであれば、それを良いと思うことは出来ないのです。
弊ブログでは、しばしば「それは日本だけの利益ではなく、韓国にとっても利益になるはずだ」という表現を用いています。ですがそれは別に、日本は韓国の利益を常に確保しなければならないと考えているわけではありません。
「日本だけの利益になれば良い。そのためなら韓国が大損をしても気にしない。むしろそうなれば良い」という考えに共感出来る日本人は、そう多くないでしょう。ましてや韓国についてさほど詳しくない日本人がそういう主張を聞けば、たちまち「サベツ!!」と脊髄反射しかねません。
弊ブログで「韓国のためでもある」ということが書かれていても、それは「韓国のため」を思ってのことではありません。第一に考えているのは、常に日本と日本人のことです。ですが、私も日本人である以上、「日本だけが得をする」という選択肢と、「日本の得になると同時に、韓国にとっても得になるか、少なくとも損にはならない」という選択肢があれば、後者の方を好ましいと考えてしまうのです。
またもし「日本は利益を得るが、韓国は損をすること」という選択肢があれば、「それを選んではいけない」と考える日本人は少なくないでしょう。これは韓国人が、「日本の損になることなら、韓国の損になっても良いからやるべき」と考えるのと本当に好対照と言えます。
互恵的関係を好むのは日本人だけではないかもしれませんが、韓国人が互恵的関係を理解しない生き物であることを知らず、あるいは知っていてもなお、韓国人との互恵的関係を模索しようとするのは、日本人だけではないかと思います。
弊ブログでしばしば「韓国のためにもなる」という表現を用いているのは、そのためであるということをご理解いただければ幸いです。