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遠ざけよ、しかし忘れるな

前回記事で私の周辺の人物を引き合いに出したところ、コメント欄で何やら物議を醸しているようです。

前回記事で私が言いたかったのは、その人が朝鮮人のような真似をするということも多少はありますが、それよりは、「(他人の間違いや失敗を)注意することを楽しんでいるだろう」と言われることについて、「全くそんなことはない、むしろ激しくうんざりしている」ということだったのです。しかしながら弊ブログの性格上、引き合いに出した人物が朝鮮人のような真似をすることを特に問題視していると思われてしまったようで、これは私の不明でした。ここに改めてお詫び申し上げます。

なお前回記事で引き合いに出した人物について、アスペルガーではないかというご意見がありましたが、私はADHDではないかと思っておりました。もっとも、当人に直接聞いたところ、それは明確に否定されております(その人が「注意欠陥・多動性障害」という言葉の意味を知らなかった可能性もありますがw)。

次いで、曽祖父の世代に朝鮮人が入っているという方からコメントを頂戴いたしました。お気持ちはお察しいたしますが、弊ブログで何度も述べている通り、「朝鮮人のような真似」は実際の血統や国籍に関わらず、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる人種で現れることがしばしばあります。

人間の脳には「爬虫類の脳」と言われる、極めて原始的な活動を司る部位が存在するわけですが、「朝鮮人のような真似」というのは、いわばその部位に支配された結果の行動と言えるかもしれません。

加えて「純粋な日本人」をどのように定義するかという話もあります。例えば、「ゆかり発言」で有名になりましたが、桓武天皇の母である高野新笠は、百済の武寧王の10世孫と言われております。それをもって天皇陛下は純粋な日本人ではないということになるでしょうか。更に言えば、桓武帝を祖とする平氏(桓武平氏)の流れを汲む日本人は少なくありませんが、その人たちは純粋な日本人ではないのでしょうか。

そこまで有名な家柄でなくても、外国人の血統が入っている日本人は、さほど珍しくありません。そもそも日本で人類が発生していないという事実がある限り、全ての日本人の祖先は日本以外のところから渡り来た人々です。「一滴でも外国人の血が入っていれば、純粋な日本人ではない」と言うのであれば、「純粋な日本人」自体が存在しなくなります。

問われているのは本能的な欲求や衝動(爬虫類の脳)を理性(人間の脳)でコントロール出来るかどうかであって、それが出来ていれば血統や国籍に必要以上に縛られる必要は、私はないと考えております。ましてや四代前の祖先に一人朝鮮人がいたからと言って、それをもって自分は純粋な日本人ではないなどと考える必要は全くありません。それでもどうしても気になると仰るならば、「私たちの曽祖父の世代の朝鮮人は、日本人である」という事実を思い出せば良いかと存じます。

さて、昨今の日本ではとみに嫌韓気運が高まっており、書店では嫌韓専門のコーナーが出来るほど雨後の筍のように嫌韓書籍が出ております。

日本では、過去に幾度も韓国ブームと呼ばれるものがあり、その最大のものは皆様のご記憶にも新しい韓流捏風だったわけですが、その収束と入れ替わるように嫌韓気運が高まったのは、決して偶然ではないでしょう。つまりは、韓国が「知れば知るほど嫌いになる国」ということが実証されたわけです。

問題はやはり今後でしょう。私も長年ブログを書いておりますが、既に言わなければならないこと、言いたいことは言い尽くし、乾いた雑巾を絞るが如きの状態です。

それでも書き続けているのは、既に何度も述べている通り、ここに書いた韓国が過去のことではなく、今も、おそらくこれからも変わらない存在であろうことを示し続けるためです。

現在の嫌韓気運の高まりに伴う嫌韓書籍の出版ラッシュは、嫌韓としては大変に歓迎すべきことです。出来ればこれに便乗して、私にも出版オファーが来ないかななどと欲どしいことを考えなくもありませんw 

ただ、書く人は変わっても、書かれる対象は変わりません。しかも薄くて浅くて上っ面です。掘り下げてもたちまち底にぶち当たります。しかも、内容は嫌悪を催すものばかりです。

人間の心理として、嫌悪を催すものは遠ざけたいと考えるのが普通ですから、一通り韓国についての知識を得て、韓国が嫌悪を催さざるを得ないものという認識が成立すれば、韓国を遠ざけたいと考えるようになるのは自然な流れでしょう。

すると今度はどういう現象が起きるかと言うと、韓国が嫌悪を催すものであるという事実の忘却です。

嫌悪を催すものをいつまでも記憶に留めたり意識したりするということは、なかなかに難しいことです。ましてやそれを遠ざければ、尚更にその存在は記憶から失われやすいでしょう。韓国が嫌悪を催すものという認識は、韓国の薄くて浅くて上っ面をめくってみないと俄かにはわかりません。

逆に言えば、韓国の薄くて浅くて上っ面「しか」見ない人には、韓国が何故嫌悪を催すものなのかということを理解してもらえないのです。

日本人に「韓国は嫌悪を催すもの」という認識が定着したとしても、「何故韓国が嫌悪を催すものなのか」ということが忘却されれば、必ず韓国の薄くて浅くて上っ面に騙された人や、騙そうとする韓国人による韓国擁護が始まります。日本人の意識から韓国が完全に消え去ったとしても、やがて韓国を「新発見」する人々が現れ、日本に韓国ブームが仕掛けられるというのが、これまでに繰り返されたパターンです。

まことに日本のとって韓国という存在は厄介至極です。近付けば害を及ぼしますが、遠ざければ記憶に残りません。記憶に残らなければ、近付けば害を為す存在ということも忘れ去られ、再び彼らの接近を許してしまいます。

この悪循環を断つには、何故彼らを遠ざけなければならないのかを周知徹底し、且つそれを明確に記録し、たとえ人々の記憶から失われても記録を見れば思い出せるようにすることでしょう。

現在の嫌韓書籍の出版ブームは、今の日本人に韓国を知らしめると同時に、今の日本人が何故韓国を嫌ったのかを、将来の日本人への「記録」として残すことが出来ます。ブームとしては一過性であっても、記録としては長く残るでしょう。

ネットはリアルタイムの情報発信として、紙媒体はその時点の記憶の記録として活用し、「韓国を遠ざけつつ忘れないこと」を実現していくのが、今後の日本の対韓策の課題ではないかと考える次第です。



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楽しんでるように見えるかも知れませんが

このところ、日本における国際関連のニュースではタイのクーデターやウクライナ問題、あるいは日本に対する中国の軍事的脅威の問題が大きく報じられ、韓国関連はあまり目立ちませんでした。その韓国で今日、多数の死傷者が出た事故が起きたという報道がありました。

韓国社会を震撼させたセウォル号事故以来、韓国内においては重大な事故が続くなあと感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。もっとも実際には、事故が「続いている」のではなく、事故が「報道されている」だけではないかと私は考えております。

つまり韓国では、交通機関や公共施設等における人的被害を伴うような事故は毎日当たり前のように起きており、セウォル号事故以前は単にそれらがほとんど報道されていなかっただけなのではないかということです。

それはおそらく、私の気のせいではないでしょう。韓国における交通事故の多さは有名ですし、今月頭にも書いたように韓国における鉄道事故は珍しいものではありません。建物の深刻な瑕疵や不具合、手抜き工事の発覚などは、その建物が明らかに倒壊あるいは崩壊でもしない限り、韓国ではニュースとしての価値すらないようです。

韓国内で報道されたニュースであっても、日本で報道されるとは限りません。ましてや韓国内で報道されることもなかったニュースが、日本で報道されることなどあるはずがありません。

大手マスコミが嘯く「報道しない自由」とやらが、どれほど罪作りなことなのか、こういう点からもよくわかります。

さてセウォル号事故が韓国社会に与えた衝撃は大きく、そのため韓国言論は自虐的になったり反省を促してみたり、今後の対策「みたいなもの」を考えたりしているようですが、そういう風潮もいつまで続くものやらと、私は冷めた目で見ています。

と言うのも、彼らは根本的に「自分の過ち」というものを認めません。朝鮮では過去の歴史において、敗者は九族皆殺しにされてきたため、「自ら過ちを認める」=「死」と考えられるようになったためなのか、あるいは「自ら過ちを認める能力を持つ者」は全て殺されて、「絶対に自分の過ちを認めない者」だけが淘汰を勝ち抜いてきたためかは議論の余地があるでしょうが、いずれにしても彼らにとって「過ち」は常に他人のものであって、自分のものではありません。

実際、当のセウォル号事故についても、何だかんだ言いながら彼らが「悪いのは自分ではない」と確信したらしいのは、韓国三大紙のひとつ、中央日報の「まずは「人格教育」から…セウォル号惨事を契機に動き出した大韓民国」という記事からも窺えます。

セウォル号事故について、韓国言論などで盛んに言われているように、「悪いのは韓国社会全体の倫理と道徳の崩壊である」と彼らが本当に考えていたのなら、「学歴や競争ばかり強調した教育から脱却して、責任・正直・配慮・疎通・孝・礼など私たちが重視すべき社会的価値を子供たちに教え、大人たちも学んでいこうという意味」とする「人格教育振興法」案に、「イ・ジュンソク防止法」などという別名を付けるわけがありません(中央日報の記事を読めば明らかですが、「イ・ジュンソク」とは、セウォル号の船長の名前です、念の為)。

この法案の別名からはっきりと読み取れるのは、「セウォル号事故での悪者は船長」という意識だけです。この期に及んでも、彼らは「ウリには絶対的に正しい倫理観・道徳観がある」と確信しているのです。

彼らに「絶対的に正しい倫理観・道徳観」などないとは言いません。あるにはあるでしょう、彼らが装い、飾り立てる上っ面には。しかし「絶対的に正しい倫理観・道徳観」があるとしても、それが上っ面を飾るだけで機能しないのであれば、無いのと同じことです。

こういう韓国人の挙動を見ながらしみじみ思うのは、自分が正しいと確信している人は、何度も同じ間違いを繰り返すということです。

私の周辺にもそういう人が居て、度々同じような失敗を繰り返します。その人は注意をすると、「はい!わかりました!」「了解です!」と返事は良いのです。良いのですが、やはり同じような失敗を繰り返します。

注意の仕方やタイミングが悪かったのかと思って、子供に言い聞かせるように丁寧に、その人の行動の先を読んで注意すると、今度は「馬鹿にしてるんですか?」「私には私のやり方があるんです!」と切れ始めます。

それではと、実際に失敗するタイミングですかさず注意すると、「私に注意するのを楽しんでるでしょう?」と言われました。楽しんでるなんてとんでもない、激しくうんざりしていると答えたのですが、聞いちゃいません。

どないせえちゅーねんと思いつつ、結構根気良く注意を続けたのですが、とうとうその人は「自分が失敗するのは、自分をこういう風に生んだ親が悪い」と言い出しました。

「自分の欠点を親のせいにして良いのは、十八までだよ」と言うと、「何でそんなキツいこと言うんですか?」と、まるで私がその人をいじめているかのようなことを言い出した辺りで私は匙を投げ、出来るだけその人から遠ざかるようにしました。すると今度は「何か私に冷たくありません?私、あなたに何かしましたか?」と突っかかられましたw

「自分は間違っているかもしれない」と考える人は、自分の行動を振り返り、確かめるものです。神様でない身であれば、誰しも間違うものですが、「間違っているかもしれない」と考え、自分の行動を振り返り確かめる人は、自らの間違いに気付き、失敗を未然に防ぐことが可能です。

しかし「自分は正しい」と確信している人は、自分の行動を振り返りませんし、確かめません。仮に自分に悪いところがあるとしても、それは全て他者のせいだと思っているので、必然的に間違いは間違いのまま放置され、取り返しの付かない事故に至る確率が高まることになるのです。

私の周辺にもそういう人がいるように、日本人にもそういう人が皆無というわけではありません。しかし韓国は、そういう人が圧倒的多数なのです。まことに、彼らの反面教師としての優秀性は、飛び抜けていると言って良いでしょう。

ただ、彼らの失敗は常に「それは一部です、一部を見て全体を判断しないでください」などという常套句と共に隠蔽され、あるいは「ウリ」から弾き出した生贄に全ての責任をひっ被せて知らん顔をされることがしばしばあり、慣れない人には俄かに見えづらいということはあります。

昨今、嫌韓気運の高まりと共に、韓国の失敗隠蔽の手口も広まりつつありますが、未だに韓国の失敗隠蔽に意図的に加担する日本人も少なくありません。

そういう彼らの手口に騙されたり誤魔化されたりする日本人が一人でも少なくなることを祈って、弊ブログでは彼らの手口や習性の周知を何度もしつこく繰り返しております。

そうすると、しばしば「韓国人の悪いところを殊更にあげつらって楽しんでるだろ」とか言われたりする訳ですが、正直言うともうすっかりうんざりしているのですw



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日本は淘汰されるべきではない

人間は、自然界で見れば決して強い生き物ではありません。むしろ、弱い方です。鋭い爪も牙もなく、力も弱く足も遅く、空を飛べるわけでもなく、水に沈めば3分ほどで生命の危機に陥ります。

しかしその弱い人間が、全ての動物を差し置いて地球上で最も繁栄するようになりました。それは何故でしょうか。

人間の知能があらゆる動物の中で最も発達しているというのは、当然にあるでしょう。ですがそれ以上に、人間の仲間同士の意思の疎通と信頼関係の構築が、地球上の生物の中で最も高度だったからではないでしょうか。

以前、「淘汰されるべきは日本なのか」という記事を書きました。もう3年半ほど前になるこの記事に、最近以下のようなコメントを頂戴しました。

沢山のfetiaさんの記事を拝読していて一番印象に残ったのがこの記事でした。倫理的に朝鮮人のような生き方が蔓延ることは認められない。けれど、地球規模でみれば生き汚ない方が生き残るのは当たり前のことで、そこには日本人の倫理観なんて何の力もない。薄々思っていたことが具体的な文章になって現れたなあという気がしました。日本人的な倫理観を持って世界で生き続けるというのは、油の塗られた坂道の上で一生懸命登ろうと足掻き続けるようなそういう徒労感を感じるものだと思います。そういう徒労感とfetiaさんはどう対するべきだとお考えでしょうか。日本人とはいっても心の強い者ばかりではない。私も含めてのことですが、ぜひご教授願いたいと思いました。強くなるしかないといえばそれまでですが。

2014/05/22-16:27 | URL | アキ #KvZ6xpZM[ Edit]

この記事を書いた当時は、民主党政権真っ盛りの時期でした。民主党政権の三年三ヶ月間、日本は本当に散々朝鮮人に食い散らかされておりました。今も日本国内で大きな顔をしている朝鮮人とそのシンパは少なくありませんが、いくらかはマシになったような気がします。しかしだからと言って気を抜いて良い問題とも思わないので、このコメントを機会に私の考えるところを述べておこうと思います。

確かに、短期的に見れば朝鮮人が得意な奸計や騙し討ち、嘘やゴマカシは、生存競争に有利に見えます。日本人的な倫理観や道徳観は、国際的な競争において不利だという主張も、決して目新しいものではありません。それでも日本人の倫理観や道徳観は、人間社会において普遍的に有用であり、必要なものと私は確信しております。

日本は、韓国と比べれば道徳や倫理は遥かに強く守られており、それが日本社会の治安と秩序を高いレベルで支えています。

日本のことを悪く言う人は国内外を問わずたくさんいますが、日本社会の治安と秩序を悪く言う人はほとんどいません。むしろ日本の治安と秩序の穴や綻びを見咎めて悪く言う人が少なくありません。即ち日本の治安と秩序は、世界的に見ても高く評価されていると考えて良いでしょう。

実際、日本の治安と秩序は、おそらく人類であれば誰もが快適に感じるでしょう。ただし、それを構築・維持するための負担をも、人類全てが快適と思うかどうかは、定かではありません。

高度福祉社会が恐ろしく高い税負担に国民が甘んじることで構築・維持されているように、日本の高い治安と秩序は、日本人の高い精神的負担によって構築・維持されています。慣れているはずの日本人ですら、その負担が時には重く感じられるほどですから、日本人以外の人々にとっては、尚更に重い負担に感じられるのではないでしょうか。

ましてや韓国人は、上位優位の者はルールを守らなくても良いという考えの生き物です。そんな彼らが、日本に来たからといってすぐさまルールを真面目に守れるようになるはずがありません。

更に、誰もがルールを愚直に守る国に、ルール無用の国の人がやって来れば、その人は当初は段違いに有利な立場を得ることが出来ます。これはスポーツにおいて、ルールを墨守するチームと、ルールを一切守らないチームが戦えば、圧倒的にルールを一切守らないチームの方が有利になることを想像すれば、容易にご理解いただけるでしょう。

ただでも自分を上位優位と考えている韓国人が、更に有利になれると思えばルールを破らないはずがありません。それを見て、「ルールを守る奴がバカなんだな」と考え、全ての人がルールを無視して好き勝手なことをするようになれば、そこに現れるのは人間社会ではなく野生の王国です。

野生の王国においても、ルールと呼び得るものはあるでしょう。ですが人間社会のルールと、野生の王国のルールの大きな違いは、それが仲間同士の意思の疎通において確認され、相互の信頼によって維持されているか否かではないでしょうか。

野生の王国にルールと呼び得るものがあったとしても、それは動物同士で相互に確認するものではありませんし、動物が自主的に遵守に努めるものでもありません。動物たちが望むと望まざるとに関わらず、遵守せざるを得ないものです。

人間は、自ら人間社会のルールを作り、それを人間同士で守ることにしました。それによって、地球上の動物の中で、人間だけは野生の王国のルールから解放されたのです。

もし人間が人間社会のルールを守らなくなれば、それは即ち野生の王国のルールに従わざるを得なくなるということになります。そうなれば、人間は万物の霊長と嘯いてふんぞり返ることは出来なくなります。故に人間は、自らルールを作り、それを社会全体で確認し、守ることで野生の王国における弱者の位置から抜け出し、繁栄してきたと言えます。

日本人と朝鮮人であれば、明らかに朝鮮人の方がルール無用の生き物であり、もし両者が野生の王国にあれば、確実に日本人よりも朝鮮人の方が生存能力は高いに違いありません。

ですが、私たち日本人が住むのは野生の王国ではありません。また、今私たちが住んでいる日本を、野生の王国にするべきとも思いません。もし日本から日本人が駆逐され、朝鮮人が取って代われば、そこに現れるのは日本ではないのは当然として、人間の住む世界でもないでしょう。

時々ニュースで報じられることがあるように、人間社会に獣が乱入することは、稀ですがあり得ます。その時は、たいてい人間の方が傷つけられたり、甚だしいと殺されたりします。だから人間は、獣に負けないように人間をやめて獣同然になるべきとは、少なくとも私は全く思いません。

日本人と朝鮮人ならば、おそらく朝鮮人の方が獣としては優れているでしょう。日本人社会に朝鮮人が紛れ込めば、ルールを守る日本人の方が、ルールを守らない朝鮮人よりいろんな意味で弱いかもしれません。だからと言って日本人も朝鮮人に負けないように獣として生き、強くなるべきだとは、やはり全く思いません。

日本人が日本人としての倫理観や道徳観を守ることで、朝鮮人に出し抜かれることは、短期的には多いと思います。だから日本人も朝鮮人のように生きるべきだと考えるようになれば、そこに出現するのはほぼ野生の王国な朝鮮人社会です。そういう社会は、日本人にとって生きやすい社会とは思えません(多分朝鮮人にとっても、生きやすい社会ではないでしょうがw)。

そう考えれば、日本は淘汰されるべきではありません。どころか、日本人社会の治安と秩序のレベルを人類社会のスタンダードにする方が望ましいとさえ考えられます。

そのためには、これからの日本と日本人がどうすれば良いのか、明確な答えまでは無理でも、方向性ぐらいなら見えてきます。

既存の日本の倫理観や道徳観を守ることも日本社会を守るために大切なことですが、同時にそれに付け込んで日本社会を侵食したり、毀損しようとする存在に対する情報の共有と、その対処法の周知徹底及び実行が出来る日本人を増やすことが、今後の日本には絶対に必要だと私は考えております。



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韓国人が仕掛ける同調圧力

前回の記事でセウォル号沈没事故における彼らの一見矛盾した行動について述べたところ、以下のようなお叱りのコメントを頂戴いたしました。

文才ぶった言い回しだな^ ^
毎回 稚拙で自己愛に満ち溢れた文章で^ ^
ファシストめ!
大人を信じて死んで逝った子供達の気持ちはアンタの様な輩には一生わからんだろうな…
反韓も良いケドアンタも人間だろ?
人としてどうなんよ!韓国人でも人だよ!

2014/05/18-10:32 | URL | Peng #-[ Edit]

このコメントを拝読して最初に思ったことは、「なるほど、韓国人はこうやって他人に同調圧力を掛けるのだなあ」ということです。

と言えば、コメントした方は「私は韓国人ではない」と仰るかもしれません。しかし以前から繰り返し申し上げている通り、私は「実際の国籍や血統に関わらず、韓国人のような真似をする者は韓国人とみなす」ことにしております。

当該コメントは、現在の韓国社会の悲嘆に無条件同調しない私を強く非難するものであり、まことに「韓国人のような真似」と言うに相応しいものです。「毎回稚拙で自己愛に満ち溢れた文章で」と仰る以上は、当然これまでの弊ブログにおける主張も十分にご承知の上でのコメントなのでしょうから、もし韓国人でないとしても、韓国人とみなされることにはご承服いただけるものと確信しております。

ところで当該コメントで仰るとおり、セウォル号沈没事故で「大人を信じて死んでいった高校生たち」の気持ちは、私には多分一生わかりません。そもそも、セウォル号沈没事故で亡くなった高校生たちが、本当に「大人を信じて死んでいった」のかということからして、私には確信が持てません。

私には、今回の沈没事故で亡くなった高校生を始めとする被害者たちが、私が知り得た大量の韓国人と全く同じように、今目の前で展開されている「信じたくない現実」から目を背け、自分にとって(その瞬間だけは)都合が良い嘘や甘言に乗っかっただけにしか思えないのです。

その結果「最悪の事態」になったわけですが、ではもしあの時、沈みつつあるセウォル号の船内で誰かが「この船はもうすぐ沈むに違いない。このまま船室に居続ければ、閉じ込められて出られなくなるかもしれない。せめて船室の外に出ておいた方が良い」と叫んでいたら、どうなったでしょうか。彼らは「信じたくない現実」を直視したでしょうか。

私は、もしそう叫んだ韓国人がいたとしても、きっと他の韓国人たちから、「なんて縁起の悪いことを言うのだ」とか、「海に落ちて溺れたらどうするのだ」と責められて、黙らされただろうと思います。

ここに現れる危機に対する鈍感さと言うか、意図的とも思える目の逸らし方は、文禄・慶長の役の直前にあった朝鮮通信使の報告を彷彿とさせます。

1591年(天正19年)3月、朝鮮に帰国した朝鮮通信使は秀吉のことを報告したが、報告内容は2つに分かれていた。西人派(正使の黄允吉)は戦争が近いことを警告したが、東人派(副使の金誠一)は「日本の侵略はあったとしても先の話」と否定。結局、政権派閥だった東人派が戦争の警告を無視し、対日本の戦争準備はほとんど行われなかった。
(Wikipedia【文禄・慶長の役】より)

文禄・慶長の役の直前の朝鮮で楽観論が通ったのは、彼らが楽観的であったからというだけの理由ではなく、朝鮮の内政的な派閥間の確執や対立が背景にあったわけですが、それを勘定に入れるとしても、国の運営に携わる者が最も優先すべきは国民の安全と国家の護持であり、内政的な派閥間の確執や対立ではありません。にも関わらず彼らは派閥抗争を優先し国家の危機に対する備えを疎かにし、結果として国を大きく損ないました。

こう言えば、お叱りのコメントをされた方は「セウォル号事故と政治や歴史は関係ない」とまた仰るかもしれません。しかし、私が考察しているのは、最初から韓国の政治や歴史、経済、更には反日と言った事象そのものではないのです。

韓国社会に現れるそれぞれの事象を個別に考察をしているのでは、彼らのマジェマジェに振り回されるだけです。それらを構築し、現実化させているものは何かを直視することこそが、韓国考察では最も肝要と私は考えています。ではそれらを構築し、現実化させているのは何でしょうか。それは彼らの習性や性質、思考や行動様式、即ち、韓国人そのものではないでしょうか。

セウォル号沈没事故に関しては、韓国人は自分につながる問題点から必死で目を逸らし、嘆き悲しむのでなければ犯人探し(より正確に言えば生贄探し)をするばかりです。誰もが揃って「自分は悪くない」ということを周囲に認めさせるために、被害者に哀悼するふりをしています。稀に「自分は悪かった」と言う者がいても、それは「反省している自分」を演出し、以ってそれを評価してもらおうとしているだけです。「自分が悪かったと認めるならば、お前がこの事故の責任を取れ」と言えば、その韓国人はたちまち逃げ腰になるでしょう。

物言えぬ死者は神聖不可侵の偶像として祭り上げられ、それを盾にすれば、どんな暴論も我儘も大手を振ってまかり通り、それに疑問を示したり従わなかったりすれば袋叩きに遭います。事故時の被害者の行動が適切であったかどうかということから事故の原因追及やその教訓化についての議論までもが、被害者に対する冒涜だと誰かが叫べば、彼らはたちまち思考停止して偶像化された「可哀想な被害者」側に擦り寄り保身を図るのです。

そうすることが、韓国人にとっての「人として」当然の反応であり行動なのでしょう。しかしこれも弊ブログでこれまでに何度も述べてきたことですが、日本人の考える「人間らしさ」と、韓国人の考える「人間らしさ」はまるで正反対と言っても良いぐらい異なります。私は日本人なので、韓国人の考える「人間らしさ」に同調することは出来ません。

全ての日本人にとってそうだとまでは言いませんが、現在の私にとっての韓国人の存在価値はただひとつ、「反面教師」だけです。それさえ禁忌とされるのであれば、もはや韓国人の存在は百では足りぬほどの害ばかりで、一利もありません。

全ての日本人が、韓国人の存在価値を反面教師だけと考え、それが徹底されるようになれば、以前も申し上げた通り弊ブログは存在意義を失うでしょう。ですが私にとっては極めて理解に苦しむことではありますが、日本人の中には、韓国人に「反面教師」以外の存在価値を見出す方も少なくないようなのです。

そういう日本人は、韓国人と同調し易く、韓国人から見れば同一化しやすい日本人です。有り体に言えば、韓国人の「カモ」です。

セウォル号沈没事故では多数の罪もない高校生が亡くなったのだから、韓国人と全く同じようにひたすら死者を哀悼する以外は思考停止しろと言われることは、韓国人に同調しろと言われることと同じであり、ひいては韓国人の「カモ」になれと言われているのと同義です。弊ブログとしては断じてお断り申し上げるしかありません。

韓国人が、事故や事件で亡くなった人物を神聖不可侵の偶像とし、それを盾に自らの我意や欲求を通そうとするのは、今回のセウォル号沈没事故が初めてではありませんし、おそらく最後でもないでしょう。

日本人的感覚としては、死者当人の意思を無視するだけではなく、それを自らの我意や欲望とすり替えて通そうとすることこそが、死者に対する冒涜に感じられますが、韓国人的感覚ではそうすることで死者を生きている自分と同一化し、同一化した自分が死者の思いを代弁することが、物言えぬ死者の無念を晴らすことになると考えているのかもしれません。

それに韓国人が納得し、満足しているならば、韓国はそれを続ければ良いと思います。しかしそれを日本に持ち込まれることや、ましてやそれを日本人に押し付けられることには、全力で反対しますし抵抗します。それが弊ブログであり、そのことに不快や嫌悪、反発を覚える方は、弊ブログをご覧にならない方が精神衛生上よろしいかと存じます。

最後に一つだけ申し上げておきたいことがあります。弊ブログでは過去に何度か「私は反韓ではない」と述べており、それを説明する記事も書いております。今回お叱りのコメントを下さった方は、その後のコメントで「このブログのファンでしたが」と仰っておられましたが、にも関わらず私を躊躇なく「反韓」と決めつけられたことには、大いに遺憾を感じると同時に、これまで弊ブログの何を読んでおられたのかと、強く疑問に感じた次第です。



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表層的には矛盾していても

以前、「韓国における蒙塵の精神」という記事に書いたとおり、韓国人は非常時になりふり構わず我先に逃げ出そうとします。ならば何故、今回セウォル号と運命を共にした乗客たちは、「静かに待機せよ」という船内アナウンスに従って、至っておとなしく待機していたのかという質問を、コメントにて頂戴しました。

なるほど確かに、韓国人が非常時には他人のことを慮ることなく、どころか他人を踏み付けにしてでも逃げ出すものならば、今回の事故で数百名もの韓国人が船内アナウンスに忠実に従って、結果命を失ったことは一見矛盾しているような気がします。

ですが、おそらく多くの韓国ウォッチャーは、あまりそのことに疑問も矛盾も感じていないのではないでしょうか。

その最大の理由は、韓国人の度が過ぎた楽観主義によります。今、「楽観主義」と書きましたが、あれを「楽観」と言って良いのかどうかには若干の疑問がなくもありません。しかしとっさに適当な言葉が思い当たらないので、便宜的にこの言葉を用いることにします。

彼らは、傍目には極めて楽観的に見えることが珍しくありません。例えば、日本と比べると韓国は地震が極めて少ない国です。ですから彼らは、地震が起きないことを前提に建物を作ります。その結果、地震も起きないのに建物が傾いたり、崩れたりすることは、地震が頻繁に起きる日本よりもずっと多いのです。

あるいは、韓国は過去に趣味か年中行事のように国を滅ぼしてきました。これは、如何に粉飾しようとも隠すことが出来ないくらい明白な歴史的事実ですから、当然韓国人もそのことは知っています。

にも関わらず、韓国人は韓国が滅ぶなどということは、天が落ちてくるのと同じぐらいの確率だと信じています。それは、韓国で金融商品の勧誘の際に銀行員が「このファンドが破綻する確率は、国が無くなるのと同じぐらいだ」と言い、客は「それなら安全な商品だ」と喜んでそのファンドを購入したという話からも伺えます。

それでめでたくつつがなくファンドが運用され、客が期待した通りの利益を手にしていれば、そういう話を私が知ることはなかったでしょう。つまり、そのファンドが普通に破綻し、客が虎の子の財産を失ったという記事がウリナラチラシに載ったからこそ、その話を私が知ることになったわけです。

韓国人の「楽観主義」を示す話はまだまだあります。季節になれば必ず訪れる台風についても、韓国人は極めて「楽観的」です。まず「台風は韓国を直撃しない」という、文字通りの「希望的観測」を行ないます。それが、気象のことなど何も知らない素人ならばまだしも、韓国の気象庁が堂々行なうのです。

更に、毎年のように台風による被害を経験しているはずなのに、彼らは台風が近付いてもろくに対策をしません。日本ならば、一度でも台風による被害を体験すれば、強風で倒れそうなものや吹き飛ばされそうなものには予めそれなりの対策を施し、浸水時のために土嚢を準備しておく程度のことは普通にするものですが、韓国で誰もが「自分だけは大丈夫」と、何の根拠もなく確信しており、その結果、韓国人は毎年のように同じような台風被害に遭うことになります。

韓国人のこういう話は、本当に枚挙に暇がありません。日韓チャットでも、日本人が韓国人に「気をつけろ」とか「危ないぞ」という話をすると、例外なくと言っても過言ではないほどに、彼らは「大袈裟ですね」「チョッパリは肝が小さい」とせせら笑うのです。

韓国は準戦時国家であり、いつ北朝鮮からの武力行使があっても不思議ではありません。私たちが日韓チャットに参加していた頃に、南北の緊張が高まったことは何度もありました。実際に延坪島が攻撃され、民間人に死傷者が出た時は、韓国人に「せめて緊急避難袋を枕元に用意しておけよ」と忠告しましたが、それを真に受けた韓国人はほとんどいません。

「だって実際に、朝鮮戦争が再開されたことはないじゃないか」と言う人がいるかもしれません。ですがそれは結果論であって、この先未来永劫、絶対に再開されないという保証は誰にも出来ませんし、小規模であれば、前述の延坪島に限らず、南北の局地戦は実際にたびたび起きているのです。

朝鮮半島全土を覆う戦争であろうと、局地的な交戦であろうと、自分が巻き込まれれば主観的には同じことです。というか、その「朝鮮半島全土を覆う戦争」が起きる直前さえも、韓国人はとことん呑気であったというのもまた、歴史的事実です。

韓国人は、様々な矛盾点を抱えています。それらは、まるでビビンバのように掻き混ぜられ、こねくり回されて彼らの中に存在します。韓国人の底の抜けた楽観主義もそのひとつなのです。彼らは、明らかに予測される危機に対しても、何故か「自分だけは大丈夫」と思っています。

そのくせ、時に彼らは鬱陶しいぐらい悲観的な側面を見せることもあります。危機に瀕すれば、たちまち絶望してアイゴーと泣き叫び、自助努力を全く何もしなくなるというのも、彼らによく見られる習性です。

それはいずれも韓国人の徹底した自己中心と他者依存及び無責任体質に由来するものであり、現象としては矛盾していても、本質的には矛盾するものではありません。

彼らが見せる行動も、彼らが口走る主張も、何もかも彼らの「薄くて浅くて上っ面」部分です。それに惑わされることなく、その一皮下に在るビビンバこそが彼らの本質であることを、私たち日本人は知っておくべきだと考える次第です。



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韓国という国の処し難さ

韓国という国が、知れば知るほど嫌いになる国ということは、かなり日本人に周知されつつあります。少し前まで、「韓国が嫌いだ」と言えば即サベツ主義者のレッテルを貼られた事を思えば、隔世の感を禁じ得ません。

今では、無理難題の押し付けや露骨な我田引水、目に余る自己中心や感情的な主張に接すると、「韓国人みたい」とか「韓国人じゃあるまいし」と言われることもあるほどです。実際、先日とある会議(もちろん、韓国関連に全く無関係です)に参加した際に、議長の強引な提案と採決のやり方に反論を述べた人が、「そんなやり方、まるで韓国じゃないですか」と言った時には、危うく盛大に吹き出すところでした。

どこまで韓国という国や韓国人という生き物の理解が周知されているかは定かではありませんが、少なくとも「日本人的な感覚や常識が通用しない国(人)」という印象は、かなり日本人に浸透しつつあるのではないかと思います。

これまでにも何度か述べたことではありますが、問題はこの先でしょう。日本にとって韓国が毒になる国ということが日本人に完全に知れ渡ったとして、ではそこからどうするかという話です。

一番良いのは、前記事でも述べたとおり、日本と韓国が可能な限り接触を断つことだと私は考えています。ですが、それもどの程度のレベルで実現可能かという問題があります。何しろ日本と韓国は距離的に近いのです。その気になれば、小さな動力付きボートでも往来が可能でしょう。事実、それで密航してきている韓国人や北朝鮮人は少なくないと思われます。

また日本と韓国が経済的に強く結びついているのも一面の事実ではあります。それを今すぐ直ちに全て断てというのは、日韓間に戦争でも起きない限り無理な相談でしょう。

何でもそうですが、望んだことがたちまち完全に叶う魔法などありません。韓国との離間にしてもそうです。個人の付き合いであっても、いきなり相手を切り捨てることは容易ではありません。面と向かって絶縁を言い渡すならば、一悶着は覚悟しなければなりませんし、悶着が嫌なら、時間を掛けて徐々に相手を遠ざけ、あるいは自分が遠ざかっていくしかありません。それが国家間の付き合いならば、一悶着は戦争でしょうし、徐々に遠ざける、あるいは遠ざかるにしても、10年単位の複雑なテマヒマがかかるでしょう。

仮にそれを進めていくにしても、韓国側が素直に遠ざかってくれるとは思えません。韓国人は、こちらが引けば引くほど、押し込んでくる生き物です。となると、日本側からの離間というのは、かなり実現困難かもしれません。

実現の可能性が高いのは、韓国側からの離間の申し出、あるいは行動があった場合でしょう。日本が韓国を特別扱いしなくなれば、その可能性はあります。が、如何せん相手任せの要素が大き過ぎて、こちらの期待通りに事が運ぶかどうかは定かではありません。それに、日本側が韓国を特別扱いしないように出来るかどうかという疑問も大いにあります。

更に言えば、離間によって日本が韓国を忘れ去ってしまうという懸念も強いのです。二度と接触しないのであれば、完全に忘れ去っても何の問題もありませんが、そう上手くはいかないのが世の常というものです。過去の例から鑑みても、日本人が、韓国(人)との相容れなさを肝に銘じて二度と忘れぬようにするためには、韓国(人)との接触をある程度保たなければならないというジレンマが生じます。

日韓の離間というのは、ホントに難しいなあと考えている内に、「要は韓国人がまともになれば、多少の交流があったって良いわけだよね」という考えが浮かびました。最善であっても、実現困難な策に頭を悩ますぐらいなら、次善でも、実現の可能性が高い策を選ぶ方が賢明です。韓国人がまともになるように指導すれば良いじゃないですか。

しかし、すぐにその手は既に使われていたことを思い出します。100年前に36年という歳月を費やして、その手が無駄だったことは証明されています。再びその手を使うのは、次善策どころか、愚策以外の何物でもありません。

まことに日清戦争前後の頃の、朝鮮に対する日本の葛藤がどういうものだったのかを、追体験する気分です。

ただ、今は100年前とは違います。何もリアルで韓国人と接触しなくても、ネットを用いれば韓国人の所業は十分観察出来ます。むしろリアルで接するよりも、ずっと多くの韓国人を、生々しく知ることが出来るのです。それが、私たちが体験した日韓チャットでした。

弊ブログの日韓チャットログを読んで、「なんじゃこりゃ、へたくそな対応だな。私ならもっと上手に対応出来るのに」と思った人は、きっと多いはずです。しかし実際に韓国人とチャットをしてみれば、その余りの会話の成り立たなさに最初は驚き、やがて苛つき、最後は腹を立てるかうんざりするかのどちらかになるでしょう。それはどうやら、ログで読んでもわからないもののようです。

ならば私たちがかつてそうやったように、ネットを使ったリアルタイムの韓国人とのコミュニケーションが出来るサイトがあれば、かなり実体験に近い経験が出来るのではないでしょうか。

かつての日韓チャットサイトは、韓国側の運営でした。そのため、韓国側に有利な設定になっておりましたし、韓国側に都合が悪くなればたちまち閉鎖されました。もし日本側の運営による日韓相互リアルタイムコミュニケーションサイトがあれば、もっと安定したサービスの提供が出来たでしょう。

問題は、日本側にそういうサイトを構築するメリットが極めて少ないことです。韓国側は、日本人とリアルタイム交流出来ると言えばコンスタントな集客が可能なのですが、日本側では、韓国人とのリアルアイム交流での集客がさほど見込めないことは、韓流捏風吹き荒れる真っ最中でさえ、来日した韓国芸能人が日本人の動員に四苦八苦していたことからもわかります。

それに日韓チャットは対日工作の一環として韓国政府や企業からカネが出ていたのではないかと言われていたほどに、諸刃の剣でもあります。何の予備知識も無しに日韓チャットに参加しても、何も得る物はないどころか、逆に韓国人に転がされる恐れさえあります。それを予防するためには、日本側にガイドやチューターが必要になるでしょう。そうなれば、尚更に運営費がかさみ、運営メリットが少なくなります。日本の場合、対韓工作で政府からカネが出る期待もありません。

などと無い知恵絞っていろいろグダグダ考えてはいるのですが、どの策も今のところ現実味に欠けます。

しかし日韓関係が日本にとって【良い方向】に転じている今こそ、【その後】のことを考えておかなければ、仮に日韓の離間が実現したとしても、いずれまた元の木阿弥に戻るでしょう。これまでがそうだったように。

人間は、同じ過ちを繰り返してしまうことがあります。それでも、過ちを教訓とすることを投げ出してはいけないと思います。

韓国はまことに処し難い国です。だからと言って、何もせずに放置して好き勝手にさせて良い国でもありません。

弊ブログをご覧の方には、既に韓国についてはかなりの知識をお持ちの方が多いのではないかと思います。是非ともそういう方たちにも、今後の日韓関係のあり方を模索していただければと願う次第です。


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理解より離間が現実的

5月9日、朝日新聞が【韓国人の9割「日韓助け合うべだ」「嫌韓」解くカギに】と題する記事を載せました。

特亞擁護の甚だしい朝日新聞にこういう記事が載ったということは、日本の嫌韓気運に韓国人が強い危機感を抱き始めており、どうにかして日本を再び韓国に甘々な国に戻したい考えているということなのでしょう。

ネットのない頃であれば、日本を代表する大新聞社のひとつである朝日新聞が音頭を取れば、それに引き摺られる日本人は非常に多かったと思います。朝日新聞としてもその頃の全能感が忘れられないのでしょうけれど、メディアリテラシーが高まり、同時に既存マスコミに対する不信感が増大している今日では、どこまで彼らの工作(あえてこう言います)が通用するかは疑問です。

と言うわけで、既存巨大マスコミの強大な工作に、今日も一匹のゴマメが歯ぎしりで対抗してみようと思います。

韓国人は客観的に見れば(少なくとも彼らの意識の対象となっている日本人から見れば)、疑う余地のない反日ですが、韓国人の主観としては、全く反日ではないということは、弊ブログでもこれまで繰り返し述べてきました。

韓国人から見れば、日本は絶対悪です。この「日本絶対悪」という思想について韓国人は様々な理屈を捏ねていますが、いずれの理屈もこじつけでしかありません。もし日本が過去から現在に至るまで、一度も過ちを犯したことがなく、完全に善良であったとしても、彼らは日本を絶対悪と決め付けるでしょう。

呉善花女史の著書によると、韓国のキリスト教では、日本人について「まるで神のように振る舞おうとする」と評することがしばしばあるといいます。「神のように振る舞う」というのは、神様のように慈悲深く正しくあろうとするということのようです。

一瞬、日本人を褒めてるのかと勘違いしますが、実はこれは、日本人を強く非難しているようなのです。曰く「人間は神ではない。神ではない身で、神のように振る舞おうとすることは、傲慢で身の程知らずも甚だしい」ということなのだとか。

では日本人が悪魔のように振る舞えば韓国人は納得したり評価したりするのかと言えば、答えは当然否です。現実に韓国人は歴史認識において日本人に対し悪魔同然の印象を持っており、全力でそれを糾弾し非難していることは、嫌韓ならずとも周知の事実でしょう。

ならば日本人が神でも悪魔でもなく、人間らしく振る舞えば韓国人は認めるのかと言えば、それも怪しいのです。

「人間らしさ」というものが極めて曖昧で幅が広く定義しづらいものであるということもありますが、そもそも日本人の考える「人間らしさ」と、韓国人の考える「人間らしさ」に大きな乖離があります。日本人は、いつでも今も基本的に「人間らしく」振舞おうとしているつもりなのですが、それが韓国人からは「神のように」振る舞おうとしているように見えているのです(逆に日本人から見れば、韓国人の言う「人間らしさ」は、むしろ「けだものらしさ」と言う方が良いような、理性よりも本能に忠実な振る舞いに見えます)。

結局、日本人がどのように振る舞ったとしても、韓国人にとっては悪なのです。

悪を指摘し、糾弾し、改悛させるべく指導、教誨することは、反発や反感などではなく、善行であり正義です。日本に対する韓国人の意識は、まさに日本が悪であることを指摘し、糾弾し、改悛させるべく指導、教誨していることなのです。よってそれは「反日」などでは絶対にないというのが、韓国社会において共有されている意識なのです。

日本に対する韓国人の意識が、それだけではないというのがまた、話をややこしくしております。韓国人は日本を絶対悪としながらも、同時に日本の凄さも知っています。厳密に言うならば、日本の凄さを正しく理解してはいないけれど、なんとなく感じてはいるといったところでしょうか。

何しろ日本がなければ、現在の韓国は存在しません。現在の韓国、即ち大韓民国の建国から発展、運営、維持、管理全ての分野において、日本の影響は甚大です。どれほど韓国人がそこから目を背けようとも否定しても、彼ら自身が日本の文物を切望し、実際に手にし、大喜びしているのですから、日本を否定し切ることは出来ません。

しかし日本が悪である以上、手放しに日本を肯定したり賞賛することは、韓国においては罵られるべき非道徳です。そのジレンマを解消するためにも、彼らは日本に対し「日本が悪であることを指摘し、糾弾し、改悛させるべく指導、教誨する」立場でなければならないのです。

何故ならその立場にある限り、日本がどれほど素晴らしくあろうとも、韓国はその師あるいは指導者として、日本から尊敬されるべき存在となり、日本が素晴しければ素晴らしいほど、ウリナラは更に素晴らしいことになるからです。

韓国の反日が本当に解消されるためには、この韓国人の意識を大転換させなければならないでしょう。ですが、それは極めて困難なことです。「日本絶対悪」の意識を転換するには、まず韓国人が韓国の歴史を客観視する必要があります。韓国の歴史を客観視することは、現在の韓国人のアイデンティティと言うか、尊厳を破壊することになります。

これも以前から弊ブログではしばしば述べていることですが、韓国人の脳内には「ウリ=自分自身=理想の韓国人」が存在します。

彼らの脳内の「ウリ」と、現実の「自分自身」に齟齬がある場合(と言うか、常に普通にあるのですが)、彼らが優先するのは脳内の「ウリ」の方です。彼らの理想と異なる現実の自分自身は、何かの間違いか誰かの陰謀です。自分は本当は小さく醜いアヒルの子なんかではなく、誰からも賞賛される美しくて大きな白鳥なのだと信じていなければ、彼らは生きていけません。韓国人のそういう認識を根底から変えることは、韓国という国を一度潰して作り直すよりも更に困難でしょう。

冒頭に書いたとおり、昨今の日本の嫌韓気運の高まりは、韓国にも伝わりつつあります。それに危機感を抱く韓国人も、徐々に増えてはいるでしょう。冒頭の記事の通り、いろいろ調べたり分析する韓国人も出てくるでしょう。

それもでも韓国人は、何故日本で嫌韓気運が高まっているのかを正しく理解出来ません。彼らの理解はどこまで行っても、「それは誤解です、理解してください」に留まると私は断言します。

「日本の嫌韓は、韓国が反日という誤解に基づくものだ。日本を好きな韓国人も多い。日本を評価している韓国人も多い。日本に学ぶべきと考えている韓国人も多い。だから日本人は韓国に対する誤解(=嫌韓)をやめるべき」というのは、別に昨日今日出てきた主張ではありません。少なくとも私が日韓チャットを始めた10年以上前から現在に至るまで、微塵も変わらぬ韓国人の極めて一般的な考え方です。

今から10年前なら、いや5年前でも、韓国人の「誤解です理解してください」でコロコロ騙されていた日本人は多かったでしょう。今でもゼロではないでしょう。しかし、一時期日本で吹き荒れた韓流捏風は、韓国が見せたがり、実際に見せつけた薄くて浅くて上っ面だけではなく、その一皮下に蠢く彼らの実態をも知らしめることとなりました。日本の嫌韓は、韓国人が考えているような「反日に対する反発」も皆無ではないのかもしれませんが、中心でも主要でもありません。

以前に「嫌韓?反韓?」という記事で述べたとおり、日本人の韓国に対するネガティブな意識は、韓国に対する反発が理由ではないと私は考えています。

そもそも日本人は、反日に対して極めて寛容な国民です。どこかの国が反日であっても、それを理由にその国や国民を敬遠することはあっても、反発したり嫌悪したりすることはないでしょう。仮にそういう日本人がいても、それが主流になることは、普通ありません。

事実、日本は韓国に対しても長らくそういうスタンスでした。韓国人の反日に接しても、それに対して「誤解です、理解してください」と掻き口説く日本人の例を、私は知りません(逆に、韓国人の反日に共感し、同調する日本人の例ならたくさん知っていますがw)。たいていの日本人が、韓国人が喚くように主張する反日の理由を聞けば、「だったらしかたないよね」と一定の理解を示していたのです。

現在の日本の嫌韓気運は、韓国の反日が理由ではなく、韓国人が自ら進んで見せつけた薄くて浅くて上っ面と、その一皮下の無礼で醜悪で不潔な正体とのギャップに対する忌避と嫌悪からです。それを韓国人が理解しない限り、日韓関係の齟齬は永遠に解消されることがないでしょう。

では日本の嫌韓気運の理由を韓国人が正しく理解すれば、日韓関係の齟齬は解消され得るでしょうか。

個人的には「日本の嫌韓気運の理由を韓国人が正しく理解する」ということそのものが、韓国人にとっては限りなく果てしなく困難だとは思いますが、仮にそれを乗り越え得たとしても次なるステップ、即ち「日本の嫌韓気運の理由」を韓国人が省みて是正することは、一層困難と言うか、現実問題としては不可能だと思います。それを実現するには、韓国人を全員一度無に返して、新たに作り直すぐらいの勢いが必要でしょう。

そんな大掛かりな民族浄化をやるよりも、日本人が日本人であり、韓国人が韓国人である限り、日韓は相容れない存在同士と悟ることの方が、最も現実的な日韓関係の改善策なのではないでしょうか。互いの姿も見えず声も聞こえないようになれば、いがみ合うことも争うこともなくなるでしょう。

日韓は互いにそれを悟り、互いに可能な限り距離を取ることこそが、双方にとって最もストレスのない関係になると私は確信しています。

もっとも韓国にそれを悟れと言うのもまた、彼らの能力を超えた要求かもしれませんが。



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日韓思想攻防戦

前回記事の枕に、韓国の子供の日を「日帝残滓だと思う」と書いたところ、【こどもの日の起源は確か中国ではなかったですか?朝鮮の時代からの四大名節の一つだったと記憶しています。中国では旧暦で祝うそうですよ。】というコメントが入りました。

既に他の読者の方がコメントで指摘されている通り、中国が起源なのは「端午の節句」であって、この「端午の節句」を「子供の日」としたのは日本です。日本では、「端午の節句」=「子供の日」なので、「端午の節句」が中国起源なのだから「子供の日」も中国起源に違いないという思い込みからのコメントなのでしょう。

気をつけたいのは、韓国人はこういう「日本人の(無意識の)思い込み」に、実に巧みに付け込むということです。

例えば「日本への渡来人」と言えば、何故か無条件で「朝鮮半島から日本に渡来した人々」という思い込みが多くの日本人にあるようです。中国大陸から朝鮮半島を経由して渡来した人々までもが「朝鮮半島から渡来した人々」としてひっくるめられている辺り、「消防署の方から来ました」的商法を彷彿とさせます。

他にも言語や文化などの分野で、これに類する対日工作はいくつもあります。それらをひとつひとつ指摘しても、解決はもちろんのこと、対策にもなりません。イタチごっこになるだけです。

この対策として一番良いのは、これまで何度も述べてきたとおり、韓国人が何を言おうとやろうと、一切目を向けず耳を貸さないことです。

ただ、言うは易く行なうは難しという言葉どおり、韓国人が何を言おうとやろうと、一切目を向けず耳を貸さないというのは、現実問題としてなかなか出来ることではありません。まず国家レベルでは、たとえ国交断絶したとしても不可能です。

個人レベルで言えば複数の日本人がいる場所やその周辺で、韓国人が好き勝手に騒げば、相当訓練されていても韓国人の挙動に思わず反応してしまうものです。何しろ韓国人は、どうにかして日本人の気を引こうとして、あの手この手を繰り出してくるのです。

ですから次善の策としては、やはり韓国人の習性をよく知り、彼らの行動そのものではなく、行動パターンを知ることでしょう。

彼らの行動パターンを知るようになれば、彼らの挙動に振り回されることは著しく少なくなります。逆に彼らの行動の先を読んで、コントロールするところまでは難しいにしても、余裕を持って対応することが出来るようになります。

問題は、弊ブログに収録している日韓チャットログをご覧になった方からしばしば「韓国人をいじめて楽しんでいる」というコメントをいただいたことがあるように、「韓国人の行動パターンを知り、その先を読んで余裕を持って対応する」という所作は、何も知らない日本人から見るとまるで韓国人をいじめているかのように見えるということでしょう。

実際、ある程度韓国人の習性を知ると、彼らを翻弄することは決して難しくありません。今まで韓国人に振り回された仕返しとばかりに、一度や二度はやってしまうことがあっても、それは人情というものです。

しかしそれさえも、そういつまでもやっていられるものではありません。何故ならまず日本人的に、韓国人をいじめてもさほど楽しくない(むしろ不快)ということと、どんな形であれ、日本人に構ってもらえることは韓国人にとっては得難い愉悦であると同時に、日本人を誑かす絶好のチャンスになるからです。

ある意味、日本人にとって「韓国人をいじめること」が目的になった時点で、既に韓国人の術中に陥ってる可能性があるのです。

韓国人にとって、誑かす日本人が特定の誰かである必要はほとんどありません。頭数が重要なのです。ですから目の前の日本人はダメでも、周囲にいる別の日本人を誑かすことが出来れば、それで良いのです。数が稼げるならば、むしろその方が良いでしょう。

どこで教わるのか、あるいは先天的なものなのか、韓国人にはそういう対日工作スキルを習得・発揮しているものが少なくありません。

ある程度韓国人の習性を知った日本人から見ると、そういう韓国人は不思議な挙動をします。どういう挙動かと言うと、まるでわざと日本人に嫌われようとしているかのような挙動です。具体的には、某在日女性フリーライターの言動を思い浮かべていただければ良いでしょう。

即ち、「日本絶対悪」と、それと表裏一体を成す「ウリ韓国絶対正義」思想に基づく挙動です。

「ある程度韓国人の習性を知った者」にしてみれば、その思想信条を抱く韓国人は、明確な日本の敵です。それを明確に示して見せる韓国人は、日本の敵として対応すれば良いと容易にわかる相手なわけです。何故そんな、馬脚を表すというか、黄色いアンヨを見せるというか、尻尾を出すというか化けの皮が剥がれるような真似をするのかと、不思議に思うでしょう。

しかしそれは「ある程度韓国人の習性を知った者」だからそう思うわけであって、「全然韓国人の習性を知らない者」にとっては、「日本が悪であることを確認させる」という意味で、まだまだ有効に作用するカードなのです。

そのカードを切ることで、「ある程度韓国人の習性を知った者」と、「全然韓国人の習性を知らない者」を選別し、後者を籠絡するというのが、意識的なものかどうかは定かではありませんが、最近の韓国人の戦略なのではないかと思うようになりました。

昨今の日本では、「ある程度韓国人の習性を知った者」が加速度的に増えてきております。ことにネットユーザーにおいては、かなりの浸透率ではないかと思います。しかしながら、ネットを用いていても「全然韓国人の習性を知らない者」はまだまだいるでしょう。そういう日本人を狙い撃ち、韓国人のエージェントとして韓国人の思想信条を再配布してくれるように誘導するのが、韓国人の戦略トレンドなのかも知れません。

それに対抗するには、やはり「韓国人の習性」を周知し、日本人に広く彼らが日本と日本人に敵対する存在であるという認識を広めるしかないのでしょう。

知れば知るほど不快を催す相手でありながら、それを自分が知るだけではなく、周囲にも広く知らさなければならないというのは、何か矛盾というか、葛藤を感じなくもありませんが、彼らが日本の敵であり、彼らを知らないことが彼らに利することになる以上、それは自衛のための一種の必要経費なのかも知れないと思う次第です。



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存在を感知出来なければ存在しないのと同じですから

本日5月5日は子供の日ですが、韓国でも同じく子供の日となっているようです。

韓国の子供の日は、おそらく日帝残滓だろうとは思うのですが、何しろ韓国では端午の節句も韓国起源になっているようなので、子供の日についても疑問に思う韓国人はあんまりいないのでしょう。

この子供の日に絡んで、韓国の朴槿惠大統領が自身のフェイスブックに「子供の日にすべての子供たちが元気で明るく育つように願って。祝福の一日となることを…」と記したところ、セウォル号沈没事故でたくさんの高校生が亡くなったり安否不明になっていることで、非難が殺到したそうです。

日帝残滓の子供の日のせいでこんな目に遭ったと逆恨みして、彼女の反日に一層の拍車がかかるんじゃないかと要らぬ心配を、ほんの少しだけしました。

さて、いつまでも同じネタを引きずるのはよろしくないとは思いつつ、セウォル号沈没事故は韓国と韓国人を煮詰めて精錬したかのような様相を呈しているので、韓国について語ろうとすると、どうしても引き合いに出したくなります。

とにかく、出てくる話出てくる話が、何もかも嘘か与太か三文芝居なのです。事故で子供を失って嘆き悲しむ親の気持ちだけは本物かもしれませんが、そこから出てくる理屈さえもがきっちり韓国人だから手がつけられません。

いわく、「大人の言うことを聞いて死んだ子が間違っていたのか」「子供には、大人の言うことを聞くなと教えなければならなかったのか」と。

こういう屁理屈を言わせると、韓国人はまことに天下一品です。何の予備知識もないところに、いきなりこういう屁理屈をぶっつけられると、たいていの日本人がその質問を真に受けて考え込んでしまうでしょう。

韓国社会では、こういう屁理屈の応酬が日常的に行なわれているに違いありません。というか、日韓チャットにいた頃、確かに韓国人からのこういった屁理屈攻撃が日常的にありました。

それに慣れない内は、韓国人の発した屁理屈を大真面目に受け取り、一所懸命考えて返答したりしていましたが、やがて慣れてくるとそういう真面目な対応が限りなく無意味であることに気付きます。

こちらが彼らの質問をどんなに大真面目に受け取って誠実に考え、自分なりの答えを返したとしても、その答えが彼らの望むとおりの答えでなければ、彼らは絶対にそれを正解とはしません。

逆に私たちが韓国人に質問すると、質問された韓国人は私たちの反応を探りながら、実に慎重に答えを返そうとします。

「慎重に答えを返そうとする」なんて言うと、何やら韓国人が誠実な返事をするように聞こえるかもしれませんが、実際のところは違います。

韓国人は質問されると、「自分の頭で考えて出した答え」ではなく、「質問者が予め用意しているはずの、模範的な答え」を言おうとするのです。その「模範的な答え」を当てるために、彼らは慎重に質問者の様子を伺い、答えを探るのです。

ということは逆に、彼らが質問する時は、「相手がどう考えているか」を知ろうとして質問しているのではなく、「自分の考えを察しろ」という意図で質問しているということなのでしょう。そういう意味では、彼らには質問するよりもさせる方が、彼らの考えを知るには良いかもしれません。

今回の被害者の親の「大人の言うことを聞いて死んだ子が間違っていたのか」という質問にしてもそうです。

この質問を発した韓国人は、「大人の言うことを聞いて死んだ子が間違っていた」とは微塵も思っていません。それどころか、間違っているのは「大人の言うことを聞かずに生還した子」だという確信を持っているでしょう。

「大人の言うことを聞くなと教えなければならなかったのか」という質問にしても同じです。「子供は大人の言うことを聞くべき」という、韓国では絶対不変の真理とも言える道徳を前提にして、それを守った聖人か天使のような我が子が何故死ななければならなかったのかという不条理を指摘し断罪する正義の化身の如き立場で、韓国社会を糾弾しているつもりなのでしょう。

ならば、被害者の親は一点非の打ち所のない過失ゼロの完全無欠な「被害者様」なのでしょうか。

子供を失った親に対して何と酷なことを言うと思われるでしょうけれど、非難を恐れずはっきり言えば、私は今回の事故に関しては被害者の親にも一片の責任があったと思っています。

もちろん、その責任がいちいち取り立てて糾弾するほど大きな責任だったとまでは言いません。ですが、自分は被害者の親だから被害者と同じ立場、つまり被害者そのものだから完璧に正しく非の打ち所なく、一切の過失も責任も問われず、ひたすら他人の過失と責任を追及出来る立場なのだと思っているとしたら、それこそが今回の事故の種子を育んだ温床だと思うのです。

今回の事故をほぼ最初から観察し続けていると、何よりしみじみ思うのが、本当に彼らは、反省しないということです。

いやいや、そんなことはない、韓国言論はこぞって反省一色な記事ばかりだという人もいるかもしれません。ですがそういう記事にしても、よく読んでみると「他人に反省を促している記事」であって、自分が反省している記事ではないのです。

稀に「自分が恥ずかしい」などと書いている記事もあるにはありますが、これも必ずしも自ら反省しているわけではないと読むべきでしょう。日本人は「恥ずかしい」と思えば「反省する」のが当たり前ですから、韓国人も同じと思ってしまいますが、韓国人にとって「恥」は「かくもの」ではなく「かかされるもの」であるということを思い出してください。

つまり「恥ずかしい」と書いた韓国人記者が、ちゃんと「恥ずかしい」と思った点を自ら反省して、「恥ずかしいところは直そう」と思うかどうかは、はなはだ疑問なのです。

それよりも「恥ずかしいと思わされた」という方向に走っていき、「それは他人が悪いからだ」と考えるようになる方が、韓国人としては自然な反応でしょう。あるいは、「自ら恥ずかしいと思うなら、お前が責任を取れ」と他の韓国人に言われれば、慌てて「自分は悪くない」と言い張るに違いありません(ちなみに、彼らは責任を問われないという確信があれば、割と簡単に謝罪したり反省したりしますが、責任を問われそうな時は、絶対に謝罪も反省もしないことは既に日韓チャットで実験済みです)。

被害者の親にしても、同情する点が多いということは私も認めますが、彼らがそれを振りかざし、完全無欠の「被害者様」として、他人の非を穿つことばかりに懸命になるのであれば、私はあえて彼らにも反省すべき点があったのではないかということを指摘します。

死んだ者は、もうそれ以上何もどうしようもありません。生きている者一人一人が、自分に何か省みる点はなかったかということを真摯に考え、あればそれを反省し、同時に教訓とすることで同じ過ちを二度と繰り返さぬように知恵を出し合い、あるいは考え方を正していくことが、韓国社会全体の成長というものであり、死者に対するせめてもの供養ではないでしょうか。

しかしながら、既にご存知の方も多いと思いますが、韓国では今回のような事故は初めてではありません。二度目でもありません。既に何度も何度も何度も何度も、運輸機関やインフラの管理運用の無責任さが原因の事故を、懲りも飽きもせず繰り返しています。

そのくせ不運も不幸も神の思し召しと、不本意でも粛々と受け入れるならばともかく、その都度その都度、彼らは胸を叩いて我が身に降りかかった不運や不幸を嘆き悲しみ、それぞれの立場の者が他人の過ちを咎め失敗を責め、そうして自分は棚の上に上るのです。

今回が例外ではない、ということは、今回の事故が最後にはならない、ということです。恐らく韓国では、これまでどおり今後も同じような惨事が、何度でも起きるでしょう。

言ってもどうせ無理だということは、わかっています。彼らにその機能は備わっていません。彼らにそれを期待することは、犬に代数を解かせようとするのと同じことだということは、よくわかっています。

ですが、それがたとえ犬であっても、非業の死を遂げるのを目の当たりにすれば胸は痛むし涙は出ます。ましてや中身は何であれ、それが人の皮を被った生き物であれば尚更というものです。

ですから、韓国が好きとか嫌いとかどうでも良いとかは別にして、無理とは知りつつも、韓国人に自ら省みるということを覚えて欲しい、韓国人に同じ過ちは繰り返さないで欲しいと思うのも、嘘偽りのない気持ちです。

しかしそれが現実的に望めない話である以上、韓国での出来事が全く聞こえないようになることを祈る方が現実的だし、日本人の精神衛生にとっても良いのではないでしょうか。

日本人に韓国人という生き物について周知させると散々書き散らかしておいて何言ってやがると思われるかもしれませんが、それは今の日本が、否応もなく韓国と関わらずにいられない状態だからです。

日本と韓国が完全とまでは行かずとも、可能な限り接触や交流を減らし、韓国のことなんか全然知らなくても何の問題もないという環境が日本で成立すれば、韓国人の習性や思考についての考察を披露する弊ブログも存在意義を失うでしょう。

それが現実となって、韓国人が何度も繰り返す惨事に心を痛めずに済むようになる日が一日も早く訪れることを、心から祈る次第です。



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日本人と韓国人がわかりあえない理由

韓国でちょっと大きな地下鉄事故があったという報が流れました。韓国における鉄道事故は決して珍しいものではありませんが、今回は負傷者が多数出たこととセウォル号沈没事故の直後とも言えるこのタイミングなので、日本でも結構大きく取り上げられています。

対馬から盗まれた仏像の返却を訴えた裁判で、ソウルの行政裁判所が訴えを却下したその日に起きた事故ということもあって、ネット上では、冗談半分ながらこれを「対馬から盗まれた仏像の祟りだ」「仏罰だ」と言ってる人をしばしば見かけます。

この「祟り」とか「罰」という概念ですが、韓国人にもあるにはあります。ですが、教養ある韓国人なら、そんなものを気にしたり、ましてや半ば疑いつつであっても半ば信じたりすることはあまりないのが一般的なようです。

これは呉善花氏の著書にあった話ですが、クリスチャンの呉善花氏は、聖書を度々買い換えるそうです。そこで古くなった聖書はどうするのかというと、普通に廃棄するのだそうです。呉善花氏からそう聞いた日本人は、たいていの人が驚いて、「祟りがあるんじゃないですか?」と言うのだそうです。

それを聞いて呉善花氏が逆に驚きます。教養も学識も高い日本人なのに、真顔で「祟り」などと口走るからです。

韓国にも「祟り」や「罰」の概念はあるのですが、教養や学識の高い人がそんなことを気にすることは、ほとんどないのだそうです。逆に言えば、「祟り」や「罰」を信じる人は、教養や学識が低い人ということです(この辺りの感覚は、韓国において日帝統治を批判する人(=反日派)は教養や学識が高い人で、日帝統治を評価する人(=親日派)は教養や学識が低い人とされるのに通じるものがありそうです)。

しかし日本人である私たちは、教養や学識の高低に関わらず、聖書を廃棄すると聞いて「祟りがあるんじゃないですか?」と言う日本人に共感するでしょう。別に聖書に限った話ではなく、長年親しんで使った物や愛着のある物に神や霊魂の存在を感じ、それに畏敬の念を抱くことは、日本人には自然な感覚です。

ましてや自分が信仰していなくても、多くの人の信仰を集めるキリスト教の聖書であれば、日本で言えばお経のようなものです。それを古新聞でも廃棄するかのように捨ててしまうというのは、理屈抜きに何やら畏れ多い感じがします。

この「畏れ多い」という感覚が、どうやら韓国人にはないようです。以前にも幾度か書いたことがありますが、韓国人には畏れるものがありません(独裁者を戴く北朝鮮人には一応あるようですが、「畏れる」よりは「恐れる」の方がより強い気がしますw)。

彼らとて「恐れる」ものはあります。例えば、彼らが「死」を恐れることは、日本人よりも甚だしいかもしれません。特に若い人(=未婚の人)の死は、韓国人にとっては悪夢以外のなにものでもないようです。先月のセウォル号沈没事故が韓国社会に莫大な衝撃を与えたのも、被害者に高校生(=未成年者=未婚者)が多かったためでしょう。

韓国人は「八字(パルチャ)が悪い」とか「八字が荒い」などと言うことがよくあります。「八字」とは、四柱推命から来る言葉で、韓国には四柱推命が生活に深く溶けこんでおり、それが言葉にも現れているのでしょう。

「八字が悪い」とは、日本語で言えば「運が悪い」であり、「八字が荒い」と言えば「波瀾万丈の人生」ということになるようです。ちなみに「八字が悪い」とは、専ら女性に用いられる表現で、男性の場合は艱難辛苦が逆にチャンスになると考え「八字が悪い」とは言わないという説もあります。

いずれにせよ韓国人にとって艱難辛苦はあくまで「運命」であり、力のある人ならそれに立ち向かって打破することが出来ると考えるのが自然なようです。韓国人にとって不幸な事態に陥ることは、「運命」に打ち勝てなかった結果なのです。

彼らが最も恐れる「死」も、「八字」に負けた結果であり、しかも挽回のチャンスがないという点で救いのない絶望に等しいと言えます。ましてや未婚の者の死は当人にとっても悲劇ですが、親にとっても、自分の老後と死後を保障する者を失うことになるわけです。特に「死後の保障」は「死」という絶望の中の一縷の望み、即ち死後の祭祀(これによって、死者は「死後の世界で、永遠に生きている者」として扱われます)の継承であり、少子高齢化著しい現在の韓国において子供の死は、その断絶を意味します。日本人的には「死後も永遠に生き続ける」という感覚は今ひとつ馴染みませんが、韓国人的にはそれを信じない日本人の方が信じられないようです。

そういうこともあってか、日本人と比べると韓国人は「死」を非常に恐れます。

そのくせ彼らは何かを「畏れる」ということがありません。彼らは、他人に向かって神や先祖を敬って見せることはありますが、畏れるということはありません。

ところで「恐れる」と「畏れる」はどう違うのでしょうか。

漢字が違う、というと何やらおちょくっているように聞こえるかもしれませんが、日本語でどちらも「おそれる」と読むということは、「おそれる」という日本語には、「恐」という意味も「畏」という意味も含まれているということです。つまり漢字が違うということは、漢字が持っている意味が違うということなのです。

辞書を引くと、「恐」と「畏」では、「恐」の方がやや幅広い意味を持つようです。「恐怖」や「戦々恐々」などのように、「何かをこわがって心配すること」という意味が第一義になりますが、「恐惶謹言」とか「恐悦至極」などとも使われるように、「恐」の字にも「「畏」の意味が含まれます。

対する「畏」という字は、これは「(能力などの)優れた者をおそれうやまうこと」という意味にほぼ限定されます。つまりあえて「畏れる」と書く場合は、「おそれうやまうこと」という意味に限定したい場合に限ると考えて良いでしょう。もちろん、当記事でもそういう意味で用いております。

話を元に戻して、「畏れるもの」がないということが、どういうことかと言うと、「(能力などの)優れた者をおそれうやまうこと」がないということ、即ち自分が世界で一番優れていると思っているということと言えるでしょう。韓国人は、自分より能力的に優れた者がいても、それはたまたまその人の運が良かった結果、周囲から優れていると評価されているだけであって、能力的にその人が自分より優れているとは考えないようです。

それは人のみならず、神という人を超越した存在に対しても同様です。昨年、韓国の三大紙のひとつであり、三星の機関紙とも揶揄される中央日報の論説委員のコラムで「日本への原爆投下は神の懲罰だった」と書いたことが話題になりましたが、このコラムのオチは「彼(筆者註:安倍総理)の行動は 彼の自由だ。だが、神にも自由がある。丸太の寃魂がまだ解けていなかったと、それで日本に対する懲罰が足りないと判断するのも神の自由だろう。」という一節でした(尚、日本語版は削除されましたが、朝鮮語原文はこちらです)。

日本人ならば、決してこういう文章は書けません。この一節には、このコラムを書いた記者が、自身の願望を神の意思とイコールに考えているということがよくあらわれています。

こういう傾向は、韓国のキリスト教系新興宗教の教祖が、しばしば(私の知る限りでは例外なく)自ら神を名乗ることにもあらわれています。クリスチャンではない私でも、絶対唯一神を戴くキリスト教では、自ら神を名乗ることはこの上もない不敬であり不遜なことだと思うのですが。

畏れるものがあるから日本人は優れているとか、ないから韓国人は進んでいるなどと言う気はありません。ただ思うのは、畏れるものがある日本人と畏れるものがない韓国人とでは、互いを互いを本当に理解し合う日は、永遠に来ないのだろうなということだけです。



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